そういう風に、何度か納品を繰り返していた頃だった。
ある日、突然グリニデ様からもう納入はいい、と朝参の終わりに声がかけられた。
「は、わかりました……しかし、何故?」
不敬と思いつつ、私は聞いてみた。しかしグリニデ様は気分を害する事なく、
「何、あれが自分以外の人間を抱くのはやめてくれ、とせがむものでな。目に涙を一杯溜めて、苦しい息の下で懇願されてしまっては、そう無碍にも出来まい? ようやく嫌とも言わなくなったし、自分の立場を理解したのか随分と素直で、可愛くなったぞ。あれが大人しく従うなら、私も他の人間など相手にせず、無体な事もせずに済むしな」
上機嫌でグリニデ様は言われたが、私には、キッスの振舞いはグリニデ様を慕っているからではなく、他の人間を犠牲にしない為に行動しているようにしか見えないのだが……、と思うのだが、口にするのはやめておいた。グリニデ様の機嫌が麗しいのは結構なことだ。
私やフラウスキーはともかく、ベンチュラや他の格下の魔物や虫達は常にグリニデ様の顔色を窺って暮らしている。グリニデ城の安寧の為に、グリニデ様にはいつもこうあって頂きたいものだ。
グリニデ様のキッスへの行為が再開した事は知っていた。私が許可を出したのだ。
今の私はキッスの主治医でもある。
実際は、ダンゴールに薬を渡し、その都度容態を聞き、傷の経過報告をさせて、遠隔的に治療を施していた。私は、グリニデ様よりは人間の心の機微がわかるつもりだ。暴行されて傷ついた体を、キッスは見られたくないだろう。ヒトとかけ離れた姿をしているダンゴールだからこそ、受け入れられているのだ。
しかし、またすぐ前回同様の重体にさせるとは思わなかったが……。
今は小康を保っているものの、グリニデ様が足を運ばれる以上、再生虫が何匹いても足りない。なんとか騙し騙しやってきたが、そろそろ限界だろう。私は抜本的な所から治療を見直す必要に迫られた。
もちろん、手は打ってある。
初めに治療を施した時から、これは対症療法では駄目だ、と思った。
グリニデ様に他の人間を勧めたのは、その研究の事が頭にあったからに違いない。もう少し様子を見たかったが、のんびりしていてキッスが死んでしまっては元も子もない。私は早目に研究を切り上げ、その結果、完成した薬を持って、キッスの部屋を訪れる事にした。
キッスの帰還を待って、私はキッスの部屋を訪れた。
キッスは先日、泊まり込みでの遺跡の調査を許され、帰ってきた所だった。ベンチュラと一緒に戻った所を見ると、どうやら和解したらしい。戻ってすぐキッスは自分専用となった研究室に籠もり、今もそこにいるという事だった。私は薬を持ってそちらに向かった。
「………」
キッスは机に突っ伏して眠っていた。半分だけ見える横顔を金髪が覆っていた。
周りには幾匹ものトリュプスがいた。私が入って来たことに気が付くと、守るように周りを固めた。
確かにこれは違う。人間どもの間に紛れてしまえば目立たないが、こうして一人だけ取り出すと、人間に擬態している魔人ではないか、という気が私にすらする。自覚がないだけで、本当は魔人ではないのか? しかしキッスには、魔人の証たる左腕の星も角も無い。痕跡すら無い。だから、人間は人間なのだろう。一応は。恐らく。
「キ……」
呼びかけながら、私がその肩に触れるか触れないか、という時だった。
キッスは跳ねるように飛び起きて、警戒するようにこちらを見た。
「あ……、ロズゴート、さん」
「ロズゴート、だけでいい。私達は同僚になったのだからな。グリニデ様の前で、私達は対等だ」
あからさまに安堵した表情を見せながら、はい、とキッスは小声で返事をした。
立ち上がろうとしたキッスを私は座らせたまま、水はあるかと聞いた。
「水? ありますけど……何に使うんですか?」
目線のみで、部屋の隅に常備してある水差しとグラスを示す。私は手ずからそれを取って、キッスの前に置いた。
「薬を持ってきた。これで飲むといい」
私は薄紙で包んだ薬包を取り出し、手渡した。
キッスが薬包をひらいた。そこには花の種ほどの大きさの半透明の粒に、ちいさな黒い点々が閉じ込められた物があった。
「薬?」
「卵だ。再生虫の」
「………っ!!」
しばらくキッスはそれをじっと凝視していたが、やがて、
「……実験はうまくいったんですか?」
とつぶやいた。私は驚くことなく答えた。
「問題ない。老若男女、数種類のサンプルを何人か取り揃え、経過を見たが良好だった。少なくとも、腹を突き破って出て来たり内臓を喰い荒された例はない。再生虫は宿主との共生を重んずる。寄生ではなく、共生と考えるがいい。再生虫を飼うことは、お前にもプラスになる筈だ」
最初の治療こそぶっつけ本番だったが、さすがに体液ではなく体内で再生虫を孵化させる事を考えると、無計画とは行かない。キッスは我々には必要な人間で、グリニデ様の為にも絶対に失うことは出来ない。そんな相手に、成功の当ても見込みもなく卵を飲ませる事は出来ない。他の人間で実験するのは当然だ。
私は多少、意地の悪い気持ちで尋ねた。
「やめるかね? 飲むのを」
「いえ、頂きます。僕が飲まなきゃ、実験に使われた人達が浮かばれない」
キッスは目を閉じ、卵を口に含んでひと息に水で流し込んだ。
さすがに顔を顰めていたが、私はいっそ感心した。
卵を見ただけで人体実験まで見破ったキッスには、その結果、使われた人間達がどうなったかもわかっているのだろう。腹を捌いて、再生虫の生育具合を見る。再生虫は人間の内臓の中でも大人しく、宿主の負担にならない程度に増え、それ以外は、卵のまま待機しているようだった。
が、いかに再生虫でも、致命傷ではどうにもならない。
掠り傷なら半日、骨折も三日もあれば治ると私は告げた。キッスは固い声ながら、ありがとうございますと礼を言った。それが実験の結果導き出された答えという事も、わかってはいただろうが。
ちなみに、実験の結果死んだ人間から取り出した再生虫は、そのままキッスの為の薬になった。
再生虫は卵の状態ならそのままで何年も生きる事が出来るが、一度孵化した成虫は、宿主の体の中でしか生きられない。そして孵化した成虫を他の者に薬として使うなら、宿主を殺して取り出すしかない。キッスは、一体何人の人間が自分の為に再生虫の畑になったか、そこまで気付いているのだろうか。
「あの香油も貴方が? ロズゴート」
唐突にキッスが聞いた。
私はベンチュラが、グリニデ様にそれを献上していた場面を思い出していた。ベンチュラにしては洒落た物を贈るな、と思ったので覚えていたのだ。
「いや、あれはベンチュラだ。ベンチュラなりに、お前の体を気遣ったのだろう」
「そうですか……」
一匹のトリュプスを胸に抱えあげながらキッスは答えた。
来たばかりの頃のおどおどした様子は鳴りを潜め、キッスは、奇妙に漂泊した雰囲気を漂わせるようになった。私は、グリニデ様の勘気の素になったビィトという人間の事を質問してみた。
「……ビィト……?」
キッスは首をかしげ、しばらくして、ようやく思い至ったという風に目を見開いた。
「ああ、そういえば……! 友人です、僕の。僕は親友だと思ってたけど、ビィトにとっては、どうかな……ちょっと重いと思ってたかもしれない。友達が少ないものだから、依存し過ぎちゃうんですよね。だから距離を置かれたんだと思うんですけど。でも、それでも僕にはビィトは大事な友人だから、次に会う時にはもう少し、マシな僕になれてたらいいなあ、と」
そんな大切な友人を忘れるとは何事か、と、私はつい怒ってしまったのだが、
「僕の特技なんです。今、使わないと思った知識や記憶は記憶喪失になるまで忘れられます。もちろん、完全に忘れた訳じゃなくて記憶の引き出しの奥底に仕舞っただけですから、キーワードさえ与えられればすぐに復元出来ますが」
この場合はビィトという名前ですね、とキッスはしれっとして言った。
これが天才というものなのだろうか。
いささか面喰いながらも、私はキッスの腕の中や部屋のそこここにいるトリュプスを見回し、なんとなく、対抗心のようなものが湧き出てくるのを感じた。私はマントの下から一匹の、美しい極彩色の羽根を持った蛾を羽ばたかせた。
「うわっ。凄い、綺麗ですねー……どうしたんですか、この子?」
キッスは片手でトリュプスを抱いたまま、無邪気に蛾にもう片方の手を伸ばしながら聞いた。
「モスリープという。眠りを誘発する麟分を持っているから、疲労が溜まった時や、目が冴えて眠れない時などに使うといい。ああそうだ。番いにしておけば勝手に増えるな。もう一匹やろう」
私はひと回りちいさいモスリープをマントから飛び立たせると、キッスの両肩に、一匹ずつ止まらせた。
「痛っ」
キッスの腕の中のトリュプスが、抗議するようにキッスの指を噛んだ。モスリープに見とれているからだ、馬鹿め。私はキッスの、これは本心からのありがとうという礼を聞きながら苦笑した。
これでいい。これで、この研究室にもモスリープが一杯になる。
キッスは腕の中のトリュプスをなだめながら、早速気が立っているらしいトリュプスにモスリープの粉を使っていた。相変わらず呑み込みの早い事だ。私は感心しながらキッスの研究室を後にした。ベンチュラがどんな顔をするか、次に会う日を楽しみに想像しながら。
< 終 >
>>>2010/10/6up