ビィトが目覚めた時には、全てが終わっていた。
キッスは消えた。魔物と共に。
二日間眠り続けて、三日目にビィトがようやく目を覚ますと、ビィトはすぐにバスター協会本部に呼ばれた。いつもより眠った時間が長いのは、三日起きて一日眠る、というリズムを崩して一週間ぶっ通しで起きていたせいだろうか。
ポアラと共に本部に着くと、すぐに会長室に通され、そこにはビィトの見知らぬ人物が三人、アルター会長と向かい合わせにソファに座っていた。一番年かさの、栗毛の男性が立ち上がって会釈した。残る二人もそれに続いた。ビィトはこれがポアラに道すがら聞いた、グリニデの下で、キッスと僅かな間、一緒に働いていた博士達だと見て取った。
アルター会長は自分の隣に座るようビィトとポアラを促したが、二人はそれを断って、立ったまま改めて自己紹介した。男性もフィカスと名乗り、残る二人もそれぞれ助手の某と言い、ビィトは自分の推量が間違っていなかったのを知った。
窓際に、カルロッサとミルファの師弟が立っていた。スレッドも呼ばれたらしく、ソファから最も遠い部屋の隅に影のように寄りかかっている。これで全員が揃ったな、とアルター会長が宣言するように言った。
「では、話して頂きたい。キッス君の、グリニデ城での生活を」
会長はビィトが起きるまで、詳しい話は聞き出さずにいたのだった。
全員がフィカス博士に注目した。
「初めて会った時、キッス君は……」
つぶやくように、フィカス博士は話し始めた。
「何だかうつろな顔をしていた。心ここにあらず、といったような。私達はそれを、魔人グリニデのせいだと思っていた。グリニデ自ら連れて来た人間は、キッス君しかいなかったのだ。私達も、後で話すが一緒にいたセネシオも、以前の博士達も、聞く限りでは全員ベンチュラ、という魔人が拉致してきたようなのだ。そういう役割でもあったらしい」
ベンチュラ、の名前をポアラは耳に止めた。
斥候や偵察がメインの魔人らしかったから、拉致も彼の仕事のひとつだったかもしれない。実際、ポアラもベンチュラに拉致されている。ナイフを隠し持っていたから事なきを得たものの、もしそれがなく、キッスもいなかったら今頃どうなっていたのだろうか。今更ながら肌が粟立つ。
「それでも基本的な受け答えは出来たし、知能にも問題は無さそうに見えた。何かのショックで自閉しているだけだろうと。幸い、キッス君は発掘の出土品や石板に興味を示したので、心を解く鍵にでもなれば……と、私は色々な事を彼に教えた。砂が水を吸うように、キッス君は知識を吸収していった。セネシオは反対していた。余計な知識をつけるなと。彼の方が、キッス君の器量を正しく見抜いていたのかもしれん」
「あの、そのセネシオ、という方は……?」
ポアラが聞いた。ほぼ同じくらいに拉致されてきた、フィカス博士のいわば同僚、とでも言うべき博士だと、助手の一人が答えた。
「キッス君は、最初からその頭脳を見込まれて、部下にされた訳ではないのだね?」
これはアルター会長だ。フィカス博士は力なくうなずきながら、
「そう。彼は最初は、雑用……下働き、として連れて来られたらしい。私達の食事の世話だの掃除だのをさせる為、だな。研究に携わる人間が、いちいちそんな事にかかずらわっていては、能率が下がると考えたんだろう。キッス君がそれらをしてくれるようになって、確かに私達は助かったが、だからといって一足飛びに研究が進む訳じゃない。私達が足踏みしている間に、キッス君は自習と独学で、私達を遥かに踏み越えて行ってしまった。私はそれを、最悪の状況になってから知った……!」
フィカス博士はこぶしを握りしめ、肩を震わせて、未だに苦渋と悔恨の残る口調で言った。
手でフィカス博士は顔を覆った。
「セネシオ、許してくれ……セネシオが死んだのは私のせいだ。キッス君の天才を見抜けず、日中、好きに辞書や文献を漁ることを許していた、私の。もう、取り返しがつかない。セネシオの言う通り、彼を雑用のまま置いておけば! セネシオもまだ、生きて……少なくとも、キッス君はグリニデの部下ではなく、雑用としてではあるが、気ままに生きていけただろう」
そう言って、押し黙ってしまったフィカス博士の代わりに、二人の助手が代わる代わる当時の事を説明した。いわく、キッスが誰もいない昼間、一人で自習していた事。その知識は異例な速さでキッスに蓄積されていったらしい事。それは既に、自分達を凌ぐレベルであったらしい事。
いわく、ダンゴールが何かの写しを持ってきたらしい事。
キッスが数時間で解いてしまったらしいそれが、セネシオ博士の解読しようとしていた石板の写しだった事。セネシオ博士はその正誤を問われた末に、先に解読された罪で殺された事。自分達はそれを知って、殺される前に逃げようとしたが、捕まってしまった事。
キッスが無自覚に、フィカス博士の研究も先に解明してしまって、今度こそ殺される、という時に、キッスが身代わりに残る事で、命乞いをしてくれた事。
ここまで来て、ポアラは自分がキッスの事を何も知らなかったのだと痛感した。
ヘタレに見えて、本当の泣き言は誰にも言わなかった。
命惜しさにグリニデに寝返ったのではなかったのだ。むしろ三人の命を助ける為に、自分の身を差し出したのだ、と知った。そのまま部下であり続けたのも、次に連れて来られるかもしれない博士の為……キッスは知っていたのだ。魔人にとって、人間など使い捨てでしかない事を。キッスがそこに留まり続ける限り、他の博士は無事だという事を。
フィカス博士がここだけは譲れない、とばかりに付け足した。
「キッス君は悪くない。彼は出された問いに答えただけで、それがどんな事態をもたらしたか、何も理解していなかったのだ。突然私に冷たくされて、彼は傷ついた事だろう。それなのに、私達を助ける為に、腕輪を嵌める事と引き換えに、私達を解放するよう言ってくれた。私達は、もう二度とセネシオにも、キッス君にも頭が上がらないのだ」
「………」
しばらく、全員が沈黙していた。
ようやく、アルター会長が口を開いた。
「だが、あれは……最後に見せた技、あれは、瞑撃のようだったが……」
怒剛裂波の事だ。ポアラは身を強張らせた。直接、あれを受けた事があるのはビィトとポアラ、キッスの三人だ。が、ビィトは眠っていたから、ポアラが黙っている限り、あれがグリニデの技とはわからない。ポアラにも、何故キッスが怒剛裂波を使えるのか、見当もつかないのだ。
カルロッサも、会長の疑問を後押しするように続けた。
「それに、ゴールデンカフスは。あれは、ちょっと手首を捻っただけで砕けるような物ではない。これは会長に怒られるかもしれないが、私は同情心から、カフスを少し緩めておいた。だから弾みで外れるならわかる。しかし粉々に砕けるとは……想定外だ」
「で、でも……天撃で、相殺してたようにも見えたけど……」
ミルファが口を出した。バスターの一人が放った天撃を、キッスも天撃で返していた。
「そこだ。去り際、キッス君は魔人になる、と言った。だが人間でもある、と。そんな事が可能だろうか。君達は、一年も一緒に旅をして来て、何も気付かなかったのかね?」
「………」
ポアラはわからない、とばかりに会長に首を振った。ビィトは無表情だ。
「貴方は? 何か、様子がおかしいと思った事は……」
会長はフィカス博士に話を振った。
「残念ながら。私も逃がして貰ってから先日、再会するまで連絡もしなかったから。……ただ、」
フィカス博士は眉間に指を当て、思い起こすように答えた。
「最初から、魔物には好かれていたようだ。猛毒のトリュプスを彼は平気で素手で触っていた。魔人の方でもいぶかしがっていたから、生まれつきなのか、後天的なものなのか……。彼の言葉を借りるなら、キッス君は人間でも魔人でもなかった。人間と魔人の中間に彼は立っていて、その天秤を人間側に傾けさせたのは、セネシオの死と、私達の解放だ」
ふう、とフィカス博士は息をついで、
「自分のせいでセネシオが死んだと聞いて、彼はひどくショックを受けていた。続いて私達も始末されそうになった時、彼はそこで、初めて天撃を使った。私達も魔人も一様に驚いた。バスターだったのなら、何故もっと早く、その力を使おうとしなかったのか……推測でしかないが、彼は自分がバスターだった事をその時まで忘れていたのではないか。最初に言った通り、グリニデ城に来たばかりのキッス君というのは、どこかうつろだったから、その可能性は十分ある。危機的状況に瀕して、自分の力を思い出したのでは、と……」
「………」
それが事実なら、キッスはバスター禁止事項6か条に、反してさえないのだ。
第6条、いかなる場合でも魔人に協力することを固く禁ずる。
フィカス博士達を助ける為に、バスターとしての自分を取り戻し、逃がす為に毒の腕輪を嵌め、服従を誓った。これのどこに、他の選択肢があったろう。他のどの選択肢を選んでも、キッスを含めた全員が死亡、というルートだ。被害はもっと拡大していたかもしれない。
「馬鹿よ、キッス君……なんにも言わないで、一人で抱え込んで。そんな事情があったのなら、どうして誰にも何も言わなかったの。私はともかく、ポアラや、ビィトにまで……! 誰が信じなくとも、この二人だけは信じてくれたのに……キッス君の、味方だったのに」
ミルファが泣いた。カルロッサがミルファの頭を引き寄せて慰めた。
「……あいつ、職業の選択間違えたよな」
ぽつりとスレッドが言った。
「バスターでさえなきゃ、あいつ、あそこまで追い詰められなかったろ?」
そうだ。一般人なら、自分の身を守るだけで良かった。
バスター故の正義感から他人を守ろうとしたせいで、魔人に捕まり、利用され、主となった魔人を自分の手で葬ってからも、その事で罪に問われ、処刑を言い渡される。自暴自棄になっても仕方がない。焚刑は緩慢な自殺だったのかもしれない。キッスの。
「私達……全員で、寄ってたかってキッスを魔人にするまで追いやったのね……」
ポアラがつぶやいた。最後の引き金はポアラの言葉かもしれないが、そこに至るまでの経緯はキッスを取り巻く人間全てに責任がある。ポアラだって知りしなにはキッスを思いっきりなじったし、ミルファはキッスを逮捕した。スレッドは最初から軽蔑した顔を隠すつもりも無かったし、BB・カルロッサはともかく、アルター会長はいわずもがな。ましてや、状況をよく知らない他のバスターにおいては。
スレッドにすら影響が出たのに、当人のキッスが気にしない筈がない。
唯一、大手を振ってキッスの味方だと言えるのは、信じ続けたキッスの親友……ビィトだけだ。
吸い寄せられるように皆の視線がビィトに集まった。
ビィトはしばらく目を伏せて、何か考えているようだったが、
「で、キッスの処遇はどうなるんだ? 会長」
唐突に、アルター会長に質問をした。
「あいつ、魔人になるって言って出てったんだろ? バスター協会としては、どうするつもりなんだ!? 追い掛けて殺せばいいのか? それとも、もう一度処刑する為に連れ戻すのか!?」
「ち、ちょっと、ビィト……!」
ポアラは焦った。
ビィトは魔人のいない世界をつくると言っていた。その魔人の中にはキッスも含まれるのだろうか。
ぎん! ときつくビィトはアルター会長を睨みつけた。
アルター会長は目をそらし、
「……いいや、彼の事は放っておこう。彼の言葉なら私もよく覚えている。キッス君は去り際に、人間と敵対しない最初の魔人になる、と言っていた。その言葉を信じよう。我々は、それくらいの負債を彼に対して負っている。我々が動くのは、彼が何事か起こしてからでいい」
会長らしくもない弱々しい口調で、だがきっぱりと、言い切った。
「キッス君が消えて、私も考えた。我々は、トロワナが黒の地平となってしまった事の罪悪感と責任を全てキッス君にひっ被せて、解決した気持ちになってはいなかったろうか。フィカス博士の言われた通りだ。今はもう、感謝こそすれ、刑罰を与えようとは思わない。私が間違っていた。すまん、ビィト君。この通りだ」
アルター会長は深々とビィトに向かって頭を垂れた。
ビィトはそれを受け入れて、キッスについて書かれた書類の全てを破棄するよう求めた。
これで、キッスと呼ばれたバスターはいなくなる。
その罪も、功績も、ビィトの仲間だった事も。ビィト戦士団は、ビィトとポアラの二人だけだ。
最初からキッスはいなかった。公式には、これが事実として残される事になる。
ポアラもいつのまにか泣いていた。
日頃、あれだけやかましいビィトは、別人のように表情の消えた顔で、アルター会長が自ら取り出した書類を一枚一枚、蝋燭の火にくべていくのを、厳しい目で見ていた。
※
その日、一夜にして黒の地平に城壁が築かれた。
それは黒の地平に新たに現れた、新たな魔人の命令だという。
その魔人は一説には人間と見紛う程の金髪の少年だというが、真偽の程は定かではない。
城壁が築かれてからこちら、魔物や虫は人間のいる地帯には出没せず、壁の向こうだけで生息するようになった。魔物と人間の間には、明確な境界線が引かれた。人間が手出ししない限り、向こうから襲われる事もなくなった。それは、新しい共存の方法とも言えた。
いつしか人は、彼を、黒の地平を統べる王――『黒の王』、と呼んだ。
< 終 >
>>>2010/6/17up