ヴィアンカは覚束ないながらも自分で立ち上がり、よろよろと、ぎこちない足取りでエイクに近づいた。ちいさな白い手で、エイクのローブをつかむ。
「ヴィ……」
「しっ」
ポップが人差し指を唇にあてて、オレを押しとどめた。
目線だけで、静かに見ていろと言う。
エイクは突っ立ったまま、しばらくされるままにしていた。
ヴィアンカはきゅっと両手でローブをつかみしめて、そんなエイクの顔を見上げている。
もっとも、エイクの顔はフードで覆われていて、エイクがどんな表情を浮かべているのかは、オレ達にはうかがい知ることができなかった。
エイクの雰囲気が、ふっとやわらいだような印象があった。
エイクはいつも孤独に張り詰めたような空気を放っていて、それが少しでも解かれるのは、ポップに対してだけだった。
その気が、今、ヴィアンカに対してもひらかれたような感じがした。
オレは驚いて、エイクと──ヴィアンカを見つめた。
「ポップ様……」
しわがれた声でエイクは言った。
「ポップ様。この観用少女の名前は、何とおっしゃっておられましたか……?」
「ヴィアンカだ。いい名前だろう?」
すかさずポップが答えた。
エイクはゆっくりと、その名を反芻するようにくりかえした。
「ヴィアンカ。──ヴィアンカ」
エイクは初めてしゃがみこんで、正面からヴィアンカを見た。
枯れ枝のような手がローブの袖からのぞいて、ヴィアンカの頬にあてられた。
「ポップ様……この子を、私に譲っていただけませんか……?」
「ええ!?」
オレは叫んだ。
しかし、更に驚嘆する返答をポップはした。
「いいだろう。持ってゆけ」
ポップはまるでエイクがそう言い出すのを予想していたかのように冷静で、口元にはにやにやした笑みまで浮かべていた。
オレは声を上擦らせて抗議した。
「ポ、ポップ! なに考えてんだよ! ヴィアンカを、エイクなんかにあげちゃうつもり!?」
「もちろん代価は払います。無料でなどと、図々しいことは申しません」
オレの抗議が聞こえたらしく、エイクはすぐに訂正した。
「いらん。オレ達だって、タダでヴィアンカを貰ってきたんだ。それがオレ達からおまえに移っただけのこと。そんなもので金は取れん」
ポップはいつものポップらしくないことを言った。
確かにあまり商売熱心ではないけれど、安く仕入れて高く売るのが、商売の基本だといつも言っているくせに。
「ありがとうございます、ポップ様」
「よかないよ! い、いや、代金をと取ないことが悪いんじゃなくて、どうして、エイクなんかにヴィアンカをあげちゃうの? もっとほかに、ヴィアンカにふさわしい人がいるよ。なにもエイクでなくても」
オレの必死の訴えにも、
「うるさい、黙れ、ダイ。……あれを見ろ」
ポップが指でエイクとヴィアンカを指し示した。
……それでオレは、なにも言えなくなってしまった。
ヴィアンカはかがんだエイクの首に腕をまわして、見たこともないような顔で微笑していた。
エイクがヴィアンカを抱きしめているはずなのに、抱擁されているのはエイクのようにオレには思えた。
「ポップ……」
「わかったか? ヴィアンカはエイクを選んだんだ。エイクも、ヴィアンカを。エイクのもとで、ヴィアンカは幸せになるだろう。もしヴィアンカに会いたければ、いつでも会いに行ける距離だしな」
「──うん」
今度こそオレは素直にうなずいていた。
個人的にオレはエイクを嫌いだったけれど、ヴィアンカを幸せにできるのは、エイクだけだという気がした。
それだけ、眼前の光景は神聖で、侵すべからざる聖なる領域、という印象をオレに与えていた。オレは悔しいのか、嬉しいのか、それともうらやましいのか、いろんな感情がごっちゃになって湧き上がってきて、思わず目頭を押さえた。
どのくらいの時間がたったのか、エイクは照れくさそうに、それでも手はつないだまま、立ち上がってオレ達に向き直った。
「後日、あらためてお礼に伺います。今日のところはこの人形を連れ帰って、ゆっくり休ませたく存じますので」
「気にせんでもいい。それより、養育費の心配でもしてろ。プランツ・ドールは金がかかるぞ。人形用のミルクはもちろん、それを入れる器から、ドレスから、すべて安物ではダメだ。肌がかぶれたりするからな。あと、基礎化粧品、入浴剤、香水、必要なものを全部そろえてたら金がいくらあっても足りやしない。大丈夫か? エイク」
にやりとエイクは不敵に笑った。
「ご心配なく。観用少女の一人くらい、笑って養えるくらいの貯えはあります」
エイクがヴィアンカの手をひいて帰ってゆくと、オレは胸にぽっかり穴があいたような、そんな喪失感をおぼえた。
「なんだ、ダイ。もうヴィアンカが恋しくなったのか? さっきはあんなに感動してたくせに」
茶化すようにポップが言った。
オレはカウンターに頬杖をついて、
「それなんだけど……どうしてヴィアンカはエイクなんかを選んだのかな。あいつってば暗いし、絶対に人好きのするようなタイプじゃないのに」
「誰よりも自分を愛して、大事にしてくれるってわかったからだろう。エイクも、昔から人嫌いだったわけじゃない。エイクがああなったのは、奥さんが死んでからだ」
「エイクって結婚してたの!?」
驚いてオレは聞き返した。
「ンな意外そうな顔するなよ。エイクに失礼だぞ。かなりの早婚で、人もうらやむほどの仲だったらしいぞ。でも、奥さんは早くに亡くなってしまって、それからエイクは魔術にのめりこんだんだ。よっぽど奥さんを愛してたんだろう」
「それと、ヴィアンカとどういう関係があるの?」
オレにはよくわからなかった。
ポップはその質問を待ってました、とばかりに顔をほころばせて、
「エイクの奥さんはヴィアンカという名前なんだ。エイクはオレが知ってるとは知らないから、命名は偶然だと思ってるだろうがな。こんなこともあるかと思って、オレがかけといた保険だよ。観用少女なんてバカ高いもの、とてもオレ達じゃ育てられないからな」
うわ──────。
かさねがさね油断のならないヤツだ。
得意そうなポップを見ながらオレは思った。
「それにしても、そんなに貯めこんでるとは思わなかったな。金取っても良かったかな? まあいいや、これからエイクの店の商品ねぎり倒せば」
この店のマジックアイテムはほとんどエイクから仕入れてるから、これから先、エイクはかなり損をすることになるだろう。
「でも……」
ヴィアンカがエイクに向けた、雲間から光が射すようなほほえみを思い出して、オレは未練たらしくつぶやいた。
「でも、愛情なら、オレだって負けないのに。お金は無いけど、レオナもいるし、ふたり合わせればヴィアンカに、どんな贅沢だってさせてあげられたのに」
「ああ、そりゃ無理だよ」
ポップはこともなげに言った。
「だって、おまえ、オレが一番好きじゃないか。レオナも好きだし。プランツ・ドールのなによりの栄養は、愛情だって言っただろ? 自分より他人を愛している者を、ヴィアンカが選ぶわけないだろ。ま、そう気を落とすなよ。ダイにはオレがいてやるから、さ」
< 終 >
>>>2001/10/5up