菜の花の沖
ふたりの少年の話をしよう。
厳密には私が知っているのはひとりだけだが、それももっと、ずっと後の彼しか知らないのだが、私は彼らをよく知っている。
私の名はノレル。
先代フス長老より百年ぶりに任命された、パプニカの大神官である。
※
彼らがパプニカを出奔したのはつい最近のことだ。
城を出たのは二月の終わりだったから、春というより、まだ冬の続きみたいなものだった。
春になったら旅に出ようと、どちらも言い出さなかったけれど、それは暗黙の了解みたいなもので、ふたりは重い冬のブーツを軽いものに履きかえ、長袖さえ早くも脱ぎ捨てて、まだ肌寒い空気の中を、待ちかねたように飛びだしていった。
大地はまだ固く眠っているようだったけれども、あといくらも経たないうちに新芽があちこちから顔を出し、細い道の両脇はちいさな碧の芽でいっぱいになるはずだ。
その今まさに目覚めようとしているパプニカの田舎道を、ふたりの少年はいたって気楽にのんびりと歩いていた。
「はっくしょん!」
「カゼひいちゃったの、ポップ?」
小柄なほうの少年が気遣わしげな声を出した。
ポップと呼ばれた少年──つまり大魔道士は、手の甲でぐいと鼻をぬぐって、
「いンや、心配しなくてもいいよダイ。レオナが噂でもしてんだろ。なんたって勇者と大魔道士が、そろっていなくなっちまったんだから!」
「いまごろパプニカでは大騒ぎだろうね」
ダイ、つまり勇者はちょっと後ろめたさそうに、でも今の旅には替えられないといったふうに笑った。
私は勇者を知らない。
だから、この少年が勇者だと言われてもピンと来ない。
それに私の知っている大魔道士は、もっとずっと威厳のある、それでいてどこか稚気の残る姿だ。しかし、ここでの彼はまだ威厳を身につける前の、ふつうの少年のように見える。
もちろん彼は十五歳で大魔道士となったから、この時すでに大魔道士と呼ばれていたはずだ。
だが、私は、いま彼らが呼びあっていたとおり、今の彼らを勇者のことはダイ、大魔道士のことはポップと呼ぼうと思う。
「いいから体には気をつけてよ。ここんとこ寒かったし、ポップはオレほど丈夫じゃないんだから」
ダイが自分のマントを背にかけようとするのを、ポップはあわてて飛びすさってよけた。
「ポップ!」
意地になったらしいダイが頭からかぶせようとする。走ってポップが逃げ出す。ダイが追う。
しかし本気で追いかけているのではない証拠に、わざわざ距離をあけて追っている。
二匹の子犬がじゃれるのに似ていた。
そのほほえましい光景を私はじっと見ていた。
彼らは私が見ていることは知らない。私がどこで見ているかもわからない。
しかし私はずっと彼らとともにいて、彼らと旅をしている。
どのようにしてかはおいおい話すことにして、今は彼らの行動を追おう。
道の両脇にはもうずっと向こうまで、広い、広すぎるほどの田畑が広がっていた。
もう苗付けの時期だというのに、はっきり言って人影はゼロで、はしゃいでいたダイもポップも思わず足をゆるめた。
「……あまり人がいないね、ポップ」
不安そうにダイが聞いた。ポップは首をひねって、
「つーか、人っこ一人いないぞ。いくらド田舎といっても、これはちょっと異常だ。そりゃこの辺は大都市に近いわけでもないし、主要な道添いというわけでもないけど」
田舎道を歩くのも、それなりに理由があるのだ。
彼らも一応はわきまえていて、勇者と大魔道士を連れ戻すために大がかりな捜索隊が出されているのを懸念して、人目につかない場所を選んで旅をしてきたのだった。
「ポップう、村が見えてきたよ」
ダイが遠くに見えるちいさな村を指さした。
もっともそれが見えるのは勇者の特別な視力を持つダイだけで、私やポップにはなかなか見えなかったのではあるが。
「どれどれ。……ああ、ホントだ。良かったな、ダイ。別に村が丸ごと伝染病で死に絶えたり、不幸ごとがあったわけじゃなさそうだ。お祭りだな、あれは。ラッキー、ちょっと遊んでいこうぜ」
「ポ……ポップ!?」
ポップは嬉しそうに駆け出した。
人目についちゃマズイんじゃないか、などという考えは、今のポップには薬にもしたくないようだった。大魔道士の面目躍如だ。長じてからも、ポップは祭りがあると聞けば、首をつっこんでいったものだ。
ダイはしょうがなさそうに息を吐くと、自分もポップの後を追った。
止めてもムダだと知っているのだ。私はなんとなく、この勇者に親近感を覚えた。
祭りは夜かららしく、村の広場には村人総出で花や提灯を飾りつけたり、テーブルを出したりしていた。村の大きな通りには市が立っていて、それはパプニカの王都の市とは比べものにならなかったが、人々は活気に満ちてあれやこれやの今日のためのごちそうや、新しい陶器や娘たちはリボンやアクセサリー、青年たちは意中の少女のために彼女の好きそうなものを物色していた。
「なんだかこの雰囲気、故郷のランカークスに似てるなあ。ランカークスもちいさい村だったから、娯楽なんてほとんどなくてさ、年に数回の祭りが来るのを、オレも大人達も待ってたもんだ」
市の立っている通りをそぞろ歩きながらポップが言った。
ダイも面白そうにあちこちの店をのぞきながら歩いていたが、心から楽しんでそうしてるのではなく、不審なものを見つけだすために、油断なく目を光らせているようだった。
ダイが何を危惧していたかはすぐにわかった。
なんとなく、村人達がひそひそとこちらを窺っているような気がするのだ。敵意は感じられないし、旅人が好奇の視線にさらされるのはよくあることだ、が……。
そのとき、ひとりの子供が駆け寄ってきた。
「ねえねえ! おにいちゃん達が歌ったり、話をしてくれる吟遊詩人なの!?」
ダイとポップはびっくりして顔を見合わせた。
ひとりが話しかけるとほかの子供も勇気が出たらしく、あっというまにふたりは大勢の子供に取り巻かれていた。
「うーん……どうも人違いされちゃってるようだな」
「ど、どうしようポップ。オレ、歌なんか歌えないよ」
ダイとポップは自分達だけに聞こえるように、口の中でもごもご言った。
「オレもだ。たぶんこの村は、祭りにあわせて盛りあがるように、吟遊詩人を呼んだんだろう……まだ到着してないみたいだけど。でも、ここまで期待されちゃ、そうじゃないなんて言えないよな」
「へ?」
ハトマメのダイを無視してポップは愛想よく手を広げ、子供たちに向き直ると、
「残念ながらオレ達は歌ったり話をしたりはできないけれど、ほかのことができる。……そら!」
ポップが指をぱちんと鳴らすと、その音から透きとおった虹のような羽を持つ蝶が生まれ、蝶はひらひらと子供たちの頭上を飛びまわり、誰かがおずおずと手をのばしてふれようとすると、ぱちんとしゃぼん玉が割れるようにはじけてしまった。
「蝶、死んじゃったあ……」
泣きそうな声でさわろうとした子供が言った。
「だいじょうぶ、本当の蝶じゃないから。それに」
ポップはぱち、ぱち、ぱちと連続して指を鳴らした。すると、今度は赤や青やとりどりの色の蝶が生まれ、でもやはり半分透きとおって、淡く光をはなっていて、周りに群がって見ていた子供たちに歓声をあげさせた。
歓声をあげたのは大人達もだった。
誰かがこの様子を注進に行ったらしく、ほどなくして、ここの村長と名乗る老人がふたりの前に進み出てきた。
「ようこそこのニアーク村へ、旅のかた。……失礼ですが、魔法使いでいらっしゃるのですか? なにやら虚空から、透きとおった蝶を生みだされたとか」
「私は幻術師です。初歩の魔法も使えますが、私が得意とするものはああいった目眩ましの幻術でして、名はデリンジャー。王都の魔道士の塔で学びました。こちらは友人のチェスタトン。助手兼ボディガードみたいなこともしてくれています」
顔色ひとつ変えずにポップは嘘をついた。
ダイが困ったようにひじでつんつん突っつくのをさりげなくやめさせてから、ポップは村長と会話を続けた。
「ふたりとも、あまり才能がなかったものですから……この春で魔道士の塔を出てきたんです。村長様も知っておいででしょう? パプニカの城の敷地内にある、大魔道士様がおつくりになった魔道士の塔のことは」
「塔の名前だけは。そうですか、魔道士の塔……しかし、そこで学んでおられた方が、何故このようなへんぴな村にやっていらしたのですか?」
「それは……恥ずかしい話ですが、輪たちは中途で塔を出てきたもので、お互いの故郷に帰る決心がなかなかつかなかったのです。それなら恥かきついでに、いろんな土地を廻ってみようと。田舎を選んだのは今まで王都にいたからで、他意はありません」
見事な口からでまかせだった。
これなら、よほど疑り深い人間でないかぎり、大抵の者は騙せるだろう。
かくいう私も、彼らについて知らずにこの話を聞いたなら、苦もなく信じてしまったかもしれない。
いわんや、素朴な村の村長においては。
「よくわかりました。とても、筋のとおったお話です。どうでしょう、今日から三日間この村ではお祭りがあるのですが、そのあいだここに滞在して、幻術を披露していただくわけには参りませんか? この日のために吟遊詩人を呼んであったのですが、どうやら間に合わないようです。あなたがたが今のように、座を盛り上げてくれたなら、村人も大変喜ぶと思うのですが」
村長の提案に聞き耳をたてていた村人達はわっと声をあげて、口々にふたりに頼みこんだ。
「わしらからもお願いします、幻術師さま」
「私はさっきの蝶を見損ねてしまったんです。どうかもう一度」
「おにいちゃん、もっとやってよー」
ポップはくつくつと苦笑してうなずいた。
「お祝儀をはずんでいただけると嬉しいのですが。なにせ貧乏学生だったもので、路銀も少なくなってどうしようかと途方に暮れていたのです。こちらこそよろしくお願いします」
ダイとポップは、こうしてこの村に三日滞在することになった。
>>>2001/3/6up