夏への扉
……いつの年も、末ちかくあらわれ、丘に霧が、川に狭霧がたちこめる。
昼は足早に歩み去り、薄明が足踏みし、夜だけが長々と座りこむ。
地下室と穴倉、石炭置き場と戸棚、屋根裏部屋を中心にした国。台所までが陽の光に横をむく。
住む者は秋の人々。
秋のおもいを思い、夜ごと、しぐれに似たうつろの足音を立て……
『十月はたそがれの国』レイ・ブラッドベリ
ちょっと執念深いカモ。
などと思ってみたりする、ポップ二十五歳の春。
かたわらには態度のデカい黒い猫。
尾をピンと立てて、前足で地面をひっかき、早く行こうぜとばかりこちらを見上げている。
「ああ。わかってるよ、ラテル」
総務返事はしたものの、ポップは崖の上に座ったまま、のんびり空を見上げていた。
青い、青い空。いつかダイと見た、ダイと二人ならそこへ吸い込まれてもいいと思った。なのにダイは、ヒトを蹴り飛ばしてたった一人でお空の星になってしまった。
当時はダイを恨んだものだが、さすがに十年も経つと頭が冷えて、少しは冷静に考えられるようになる。きっとダイは、竜の騎士の使命とやらに従って自分を地上に返してくれたんだろうな、とポップは推測している。
しかしまあ、それとこれとは別問題で、やはりポップとしてはあのときのことを、ダイに文句をタレてやらなきゃ気がすまない。
だから、そろそろ行こうと思う。
眼下にはパプニカの町並みが広がっている。ポップが十年、ラテルが一年と少々暮らした国だ。
「ラテルもおいで。もしかしたら、もう永久に見納めかもしれないから」
ポップはラテルを抱きあげて、膝の上に座らせた。
ダイがいなくなって十年。
パプニカの宮廷魔道士として、それなりにこの国と世界とを飛び回って、少しは再建の役に立てたとポップは思う。壊れた建物も見当たらないし、きちんと仕事をしていれば飢えないまでに食料も豊富だ。もちろんここまでに復興したのはポップの力だけではないが、芸術家が自分の作品を可愛がるように、ポップもこの国が大好きだった。
帰って来られるかわからない。ダイが見つかるかどうかもわからない。それでもいいとポップは思う。
自分が今から行こうとしているのは、今まで誰も行ったことのない世界だ。いや、以前は先人が行っていたのかもしれないが、それはもう記録にも残らないほど遠い昔だ。
ポップがその呪文を見つけたのは、何か手がかりのひとつもないかとマトリフの蔵書を漁っていたときだった。
ダイはこの世にいないだろう。それがポップの持論だった。レオナは今も捜索隊を組織して、ダイの行方を捜させているが、それらしい情報はすべてガセで、まったくの徒労に終わっていた。それにこの世界にいるのなら、いいかげん帰って来てもよさそうなものだ。
マトリフが七年前に物故したとき、彼の残した膨大な蔵書や資料は、その肩書きとともに二代目大魔道士であるポップに引き継がれた。マトリフには弟もいたが、その弟がポップに譲ってくれたのだ。ポップはありがたく、彼の好意を受け取った。
そして、発見した。
扉を開ける呪文──アバカム。
あれは、ただ単に封印された扉を開けるだけではないのだ。唱えかたによっては、この世界ではない別の次元の扉を開けることも可能なのだ。
これを知ったとき、ポップは真面目に勉強していた自分を褒めてやりたくなった。
「ラテル、見てくれよコレ。これでダイを捜してやれるぞ……っと、聞いてないな、おまえ」
ポップは喜び勇んでラテルに報告したのだが、黒猫は馬鹿にしたようにあくびしただけだった。
いささか傷ついて、ポップはレオナに報告しに行った。もちろん、ひまを貰うためだ。
「どうしても行くの? ポップ君」
髪をまとめてすっかり女王らしくなったレオナは、複雑な表情でそう問いかけた。
「うん」
ポップは軽く返事をした、ちょっと遊びに行く、というのと同じような口調だった。
「……やめといたほうが良くない? そんな怪しげな魔法書から見つけた呪文なんて、使えるかどうかもわかんないし」
「使ってみなくちゃわからんだろう。それに、今すぐってわけじゃない。もっと勉強して、もっと研究してからだ。もしこれが本当に効くのなら、オレはこの呪文を使ってダイを捜しに行ってくる。レオナは心配しなくていいよ、危険なのはオレだけだから」
「そこよ」
レオナはびしっとポップを指さした。
「キミは自分のことに執着が無さすぎるのよ。キミが出ていくと、泣く女が最低二人はいるわ。私だって泣くわよ、これで三人ね」
「オレはもう何年も二人を泣かせている。このさい、オレがいなくなったほうがさっぱりするかもしれない」
「殴るわよ」
レオナはこぶしを握りしめた。
「ダイ君の代わりが誰にも出来ないように、あなたの代わりもあなたしかいないのよポップ君。どうしても行くと言うのなら、私より先にメルルとマァムを説得してからにしてちょうだい。もっとも、あの二人が素直に言うことを聞くとは思えないけど」
ポップは初めて困ったような顔をした。マァムとメルルもパプニカにとどまって、それぞれの才能にあわせた仕事をしている。
レオナは、自分ではポップを引き止められないと知っていた。だからこそ、二人を引き合いに出した。
「レオナから言っといてくれないか?」
「嫌よ。私だって、まだ二人に殺されたくないもの。どうして黙ってたのって、問い質されるに決まってる。いいわね、出て行くと言うならまがこの条件をクリアして」
レオナは話を打ち切り、ポップを退がらせた。ポップはまだ宮廷魔道士のままだったので、おとなしく女王の命令に従った。その後ろ姿を見ながら、レオナは、ポップに命令する資格など自分には無いのだ……と、思った。
ポップはパプニカで生まれたのではなかった。ポップほどの力があれば、ロモスでもベンガーナでも、好きなところに伺候することが出来た。
それがパプニカにとどまっているのは、ここにダイの剣があるからだ。
レオナが持ち帰り、パプニカの岬に設置した、剣。
いつかダイが帰ってくるときのための……指標となる、剣。その願いはもう半分あきらめてしまったけれど、宝玉は今も光を失わず、どこかにいるダイの無事を知らせている。
まるで墓みたいだ、そうポップは愚痴った。
レオナはレオナなりの考えがあって、ここに剣を設置したのだが本当は、この剣はポップに渡すべきではなかったかと後悔している。
この世界はダイと、ポップが救ったようなものだ。
自分よりも誰よりも、二人は近しい関係であったはずなのだ。
レオナが設置するのに誰も意義は唱えなかったけれど、もっとポップの気持ちを思いやるべきだった。剣がどこにあろうと関係ないのだ。これだけ長い時間が経ってもダイは帰ってこないのだから。
ダイの剣はかつての大戦の象徴として、パプニカの新名所にさえなっている。
世界中から巡礼の名を借りた観光客が訪れるたびに、レオナは自分の愚かさを思い知らされた。
あれは、たったひとり勇者を犠牲にした自分達の、罪悪感を覆い隠す行為だ。
それを設置した自分が、もっとも罪深い。
レオナはダイの偉業を見せ物の域にまでおとしめてしまった。
ポップに手渡さずとも、せめて、神殿に奉納するなりなんなり他の方法があったはずだ。
ポップが毎日のように、剣に何事か報告していると知ると、その思いはますます強くなった。内容はきっと、パプニカの復興状態や人々の暮らしぶりについてだろう。そのためにこそ、ポップはここにいるのだから。
だから、いつポップにこの国を出てゆくと言われても、レオナには引き止める権利など無いのだるそれにもっと、直接的なやめる理由がポップにはある。このまま放っておいてもいずれはそうなるだろうが、レオナとしても、あんな無謀な計画を安々と許すわけにはいかないのだ。
ダイには見つかってほしいが、そのためにポップを危険にさらすわけにはいいかない。出来ればもうずっと、引退してゆっくり過ごしてほしい。言っても聞かないのはわかっていたが。
レオナは大きくため息をついた。
おそらく、マァムとメルルでも無理だろう……と、思いながら。
>>>2002/5/21up