薫紫亭別館


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 そして実際マァムとメルルにはポップを止めることが出来ずに、ポップは今こうやって崖の上にたっている。
 行かないで、メルルが言った。私も行く、とマァムが言った。
 だがポップが連れに選んだのは、たった一匹の、ポップが毛玉の頃から育てた黒猫だった。
 何を好きこのんでこんなのを、と思われる向きもあるかもしれないが、ポップにとってはこれ以上ないほど頼もしい相棒なのだ。
「な、ラテル」
 ラテルは耳だけをびくりと動かして返事をした。
 可愛げのない態度だが、猫にいちいち腹を立ててもはじまらない。猫というものはすべからく、人をナメきっているものなのだ。
「フニャアオ」
 ラテルが抗議の声をあげた。どうも考えを読まれたらしい。ラテルには人の心を読むすべはない。が、人の顔色を読むのはうまい。
「悪かった。怒るな。だから足にツメを立てるな」
 たいして怒ったふうもなくポップは言った。
 黒猫とじゃれながらポップはそのへんの棒きれを拾い、地面に円を描きはじめた。
 この日のために、徹底的に研究したのだ。複雑な呪文と図形、それらの合わさった魔法陣。
 今ではもう何を表しているのかわからない言葉も多かったが、ポップはそれらをひとつひとつ、丁寧に解き明かしていった。
 ずっと昔、ロン・ベルクが言っていた。
『天界や魔界の可能性もある』
 ホントに異世界にいるのかどうか、それさえわからないけれど、打てるだけの手は打った。
 あとは、行ってみるだけだろう。
 どこに辿りつくのか、そんなことは知らない。
 あるのはこの想いと、猫だけ。
 どんな結果になってもきっと後悔しない。
「ラーテール! こら、せっかく描いたのに砂をかけるな」
 ポップはラテルに言い聞かせた。
「いっかあ? 絶対この円の中から出るなよ。呪文の最中にここから出たら、よくて置いてけぼりか、それとも胴体があっちとこっちに泣き別れか、とにかくあまりかんばしくないことになるからな。わかったな?」
 ラテルはなんとなく意味を察したらしく、円の中に落ち着いた。ポップはそんなラテルを見て、安心してぴたりと目を閉じる。
 詠唱の準備に入る。精神を集中する。ラテルが足もとに寄りそっているのを感じる。
 いい子だ、そのまま大人しくしていてくれよ。
 自分の口から、自分のものとも思われぬ声が洩れる。この発音と抑揚を解明するのにとんでもなく苦労したのを思い出す。いかんいかん、思考が脇道に逸れてしまった。
 すかさず体勢を立てなおして、更に自分の奥深いところまで集中する。最後のことばを唱える。
「──アバカム!」
 途端、視界が爆発した。眩しくて何も見えない。
 軽い浮遊感と、それに伴うめまいと吐き気。足は地についているのに、その地面の感覚が、無い。
 ポップはめまいをこらえ、何度もなばたきし、目をこらした。
 視界は白一色に染まっている。
「ニャーオ」
 不意に、ラテルが鳴いた。
 止めるヒマもなく、ラテルは見えないがそこに描いてあるはずの魔法陣から出、何も危険など無いかのようにとっとと歩きはじめた。
「ラテル!」
 ポップは叫んだ。
 どうしよう、黒猫を追いかけるべきだろうか。でも魔法陣から出るということは、そのまま術の失敗につながらないだろうか? それとも、もうここは異界で、そんなこちらがわのことわりは関係ないのだろうか?
 しばらく行ったところで、ラテルがポップを振り返って待っている。
 どうしたの? 早くおいでよ。こっちだよ、こっち。
 ラテルがそう言っているような気がした。猫の方が、人間より感覚はするどいに違いない。それにポップはどこに行こうと、ラテルを置いてゆくつもりなどなかったのだ。
 このままだとポップがラテルを置いてゆくのではなく、ラテルにポップが置いてゆかれそうだ。
 ポップは苦笑し、覚悟を決めた。
「……よっしゃ、行こう、ラテル。失敗したら責任とれよ」
 ポップは一歩を踏みだした。
 地面の感覚が無いというのはずいぶんと落ち着かないものだ。そのまま下に落っこちてゆきそうな気がする。飛翔呪文を使いたいが、こんな大呪文の最中に、へたなことはしたくない。
 仕方なしにポップは自分の足で進んでいった。
 ずぶずぶと、足が白い底なし沼にめりこんでいくような気がした。めまいが更にひどくなった。そこに座りこんで何もかも吐き出したい衝動にかられたが、今はのんきにうずくまっている場合じゃない。
 こっちだよ。
 黒猫がひらひらと前を走る。ポップは必死で追いかける。ときおりその黒に金色が混じる。ラテルの目の色だ。
 黒と金と、そして、灰色。
 ……灰色?
 ポップは目を細め、その色の正体を見極めようとした。
 門だ。何もない上下もないただの空間に、ぽっかり浮いたはがねの門。
 あれが目指す扉なのだろうか?
 他に門は無いようだった。ラテルは既にその門に辿り着いて、平気な顔してポップを見ている。
 妖しく光る金色のひとみ、ポップを導く灯台の光。
 その光に導かれるようにして、ポップはようやく門に辿り着くことが出来た。
「……ふにゃあ、やっと着いた。ちょっと待ってくれラテル、オレ疲れた。休憩休憩」
 ポップは扉にもたれかかって深呼吸した。
 ラテルは後足で立って、その扉を引っ掻いている。
「おいおいラテル。ツメがもげるぞ」
「ミャウ」
 ラテルが満足そうな声をあげた。
 嫌な予感。
 がくん、と、体のバランスが崩れた。もたれかかっていた扉が開いたのだ。
「ち、ちょっと待った! オレまだ心の準備が……!!」
 ここに来るのだけでも大変だったのに、この先だと何が待っているんだろう。
 心の準備ならしてきたはずだが、往生際が悪くそう叫びながら、扉の向こうの白い闇の中へ、ポップはまっさかさまに墮ちていった。

>>>2002/5/25up


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