薫紫亭別館


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「……出航しないんですか? 船長」
 ひととおり事情を話し終えてポップは聞いた。
「まだ三日間経っていない。朝になったら出航しよう」
「朝、ねェ……」
 ポップの目には来たときと同じ、薄暗い空と海しか見えない。
「それに、私の役目も──」
「え?」
 船長は何か言いかれたが、ポップの耳に届く前に口中に押し殺した。
「もう休みたまえ。君は病人だ」
「いえ。もうここも見納めですから、ずっとここにいます」
 ポップは船長の持ってきてくれた毛布にくるまって、船の舳先に座った。
 もうここからは、彼の守り神であった黒猫もいない。特に頼ったことは無かったが、『神の涙』のこと、無意識にポップの願いを叶えてくれていたのだろう。
 明日、船長にどこかの土地に下ろしてもらって、またあの呪文を唱えよう。願わくは、またエルウェストランドのような世界に行きたいものだけれど、今度はそう甘くはないだろうな。
 自分一人であの呪文を唱えられるかどうかも不安だったが、なに、やってやれないこともあるまい。保護者つきでも、一度は成功したことでもあるし。
 ラテル。オレの願いを、ずっとダイについててやって。なかなか波乱万丈な人生だった、平凡な武器屋の息子が大魔道士にまでなって勇者のお共をして世界を救って。パプニカでは全魔法使いの頂点にも立ったし、いち庶民としては申し分のないほどの出世だよなあ。心残りはランカークスに残してきた両親とパプニカにいる二人の女。財産はすべてその人達に残してきた。自分がいなくても、一生不自由はしないだろう。
 お金ですむことではないけど、感謝してる。この旅に出してくれたこと。知らない世界できっとオレは自分に戻れる。自分で蒔いた種とはいえ、なんだか事後処理のために生きてきたみたいだもんなあ。はた目には大成功と映るだろうけど。
 ポップは死にたかったのだ。
 あのとき、ダイと一緒に、空のチリとなって消えたかった。自分は何度、死に場所を失えばいいのだろう?
それなりに楽しかったしやりがいもあったけど、あまりに濃い内容の思春期を過ごしてしまっただけに、あとのことが空虚に思える。ダイとの約束も果たしたし、パプニカでの仕事もやり終えて、まるでポップは隠居している老人のようだ。
 ここから始めるのだ、新たな自分を。長生きしたいとは思わなかった。美学に反する。
 タネローンの曙光は浴びないように気をつけていたはずだが、なんだか生まれ変わったような心地がする。うん、ここに来て良かったよ。
 すぐそこに、タネローンが赤く浮かびあがっている。さよなら、ダイ。さよなら、タネローン。忘れずに、全部持っていくよ。
 ……と、思っていたのだが。
 あれ?
 誰かが、こちらに駆けてくるような気がする。ポップは立ち上がり、目をこらした。まさか。
「……ダイ!?」
 そのまさかだった。ダイが走ってくるところだった。ラテルが肩に乗ってる。どうして!?
 ポップより先に船長が行動を起こした。船長は縄ばしごを投げ、ダイを船に招き入れた。
「君を待っていた。ここでの私の役目は終わりだ。だが、そのあとどうするかは君の問題だな」
 ダイは答えず、ゆっくりとポップに近付いた。
 ポップは思わず、後ずさりしていた。
「ポップ」
 射竦められたかのようにポップは動けなくなった。
 ダイが恐い、と思ったのもずいぶん久しぶりだ。以前はダイの純粋な戦闘力にだったけれど、今は。
「ニャー」
 ラテルが鳴きながら、足にまとわりついた。
 ダイがここに来たのは、ラテルに無関係じゃないと思う。どうやってかは知らないが、ダイには黙っていたことを、ラテルがダイに教えたのだ。でなければ、どうしてこんなに怒った顔をしている? 人恋しさで駆けてきたのなら、怒る必要など無いはずだ。
 近付いてきたダイが手を取っても、ポップにはそれをふりほどくことが出来なかった。ダイの、いつでも人を正面から見る瞳がポップを射抜いている。蛇に睨まれた蛙のようだ。
「……ダ……ダイ……」
 やめろ。これ以上オレを誘惑するな。
 心がくじける。ダイに甘えてしまいたくなる。せっかくタネローンを出て来たのに、元のもくあみになってしまう。それは駄目だ。絶対。
「……ポップ。怯えないで」
 意外なほど優しい声音でダイが言った。ポップの前に膝立ちになって、上目遣いにポップを見上げる。
「ポップ、オレを連れていって、ポップの行く所に。オレがポップを守ってあげる。魔法の応援はほとんど出来ないけれど、物理的な力なら、オレの方が役に立つよ。ボディガードに雇って。お願い」
「ダイ」
 ダイの申し出に、ポップは驚いて目を見張った。
「ポップについて行きたいんだ。ポップのおかげで、ようやくオレはタネローンを出ることが出来た。ポップがくれたんだよ、その勇気を」
 いつだって、最後の一歩を踏み出す勇気は君がくれた。ポップ。どんなに感謝しているか、君は知らない。
「……駄目、だよ。だって、オレは……」
 もうすぐ死んでしまうのに。
 ラテルはどこまで教えたのだろう? 言ってしまっていいものかポップは悩んだ。目をそらしたポップの顔をダイは両手で包みこんで、
「……うん。知ってる。聞いてたから、全部。ラテルが中継してくれてね、ポップと船長の会話、すべて聞いたよ」
「それなら……なん、だってそんな実の無いこと言うんだよ……せっかく出て来たんなら、オレみたいに先の無いヤツにつきあってないで、さっさとパプニカに帰ってやれよ。オレがあれだけ説明してやったのに、まーだわかんねえのかおまえは」
 ポップは詰まりながら言った。ダイの言葉は嬉しい、だけど。
「……先が無いからだよ」
 ダイは包みこんだ手に力をこめた。
「あと少ししか一緒にいられないなら、そのあと沢山の時間が残されているレオナよりポップを選ぶよ。レオナは待ってくれるよ。今までも待っててくれたんだから」
「……おまえ、それってすっげーワガママだぞ」
 人のことは言えないが。
「それでもいい。ポップと行く。行きたい。ポップが連れていってくれないなら、勝手に追いかけてやる。今はレオナよりパプニカより、ポップの方が大事なんだ。連れていって!」
 このような展開は予想していなかった。≪泉の女王≫の言うとおり、最悪の事態だけを想定していたせいかもしれない。ダイが帰らないだろうと言うのは予測していた。でも、≪女王≫。これは……あなたのおかげなのですか? あなたが加わったことで未来が変わったのですか?
 この未来を享受してもいいのですか?
「……馬鹿」
 嬉しい。必死にしがみつくダイを、ポップはしっかり受け止めて、言った。
「やっぱり子供だな、ダイ。約束したろう、最後の最後までつきあうって。最後の意味はちょっと変わっちまったけれど、それでもいいのか?」
「うん」
 たくさんの時間を過去にしてしまったけれど、約束は守るよ、君が望むなら。二人でした、約束。一方的なんかじゃない、それは誓約に近い。
 二人はしばらく、声もなく抱きあっていた。
 幸せだった。
 こうしていると何も心配など無いような気がした。海の音が聞こえる。これからは海も好きになれる。きっと。
「見たまえ。タネローンに朝が来る」
 船長の声に、ダイとポップは我にかえってタネローンを見た。
 それまでもほのかに赤く光っていたタネローンが、更にまぶしく輝きはじめた。不思議にその光はドーム内にとどまり、≪あるはずのない海≫には何の変化ももたらさなかったが。
「……ここにはあの光は届かないのですか? 船長」
 ポップが聞いた。
「ああ。あれはドーム内にのみ有効だからな。そこの……ダイ君といったか、あと少し遅ければ彼はまだあのタネローンで過ごしていただろうな。あの朝の光には、すべての執着を捨てさせる作用が働いているから」
「何ですか? それ」
 ダイのズレまくった発言に、ポップと船長は顔を見合わせて笑った。
「なんだよ、二人だけでわかってんなよおッ!」
 ポップは腹がよじれるほど笑って、ダイに腕を絡ませながら言った。
「いい、いい! おまえは何も考えなくて! オレ、おまえのそーいうとこすげえ好き。十年も住んでて一体タネローンのどこを見てたんだとか、わからずにやってたのかとか、その馬鹿さかげん、鈍感さかげん、だからおまえは大物なんだ。大好きだよ、ダイ」
 どれだけのものを置いてきたのか、きっとダイにはわかっていない。知っていても、追いかけてきてくれただろうとポップは思ったる
 何か言い返そうとしたダイは、突然のポップのあからさまな告白に照れて頭を掻いた。ポップはまだ笑い続けている。涙まで浮かべている。
 船長がワインとグラスを盆に載せて運んできた。
「君は勝った。君はふたつながら望んだ『夏への扉』を、その両方とも手に入れた。乾杯しよう、グラスを取るがいい」
「ありがとうございます」
 ポップはグラスを取り、三人はささやかに乾杯した。

                    ※

 船はすべるように走っている。タネローンがどんどんちいさくなる。ダイはポップと甲板上に二人まりになると、いや、ラテルもいたが、いかにもこっそりと切り出した。
「……ね、ポップ。『夏への扉』って何?」
 おいおい、船長との会話はすべて聞いたんじゃなかったのかよとポップは思ったが、
「そうだな。どこから説明しようか……」
 今だけは、素直に話してやってもいいと思った。ここに至るまでの、すべての人々に敬意を表して。自分を待つ運命は変わらないけれど、ダイがいてくれるなら、その道ゆきもずいぶん違ったものになるだろう。
 ごめんよ、レオナ。もう少しだけ、ダイを貸しておいて。その日はそんなに遠くない。だから、それまで。
「それはたとえば、冬の猫が夏の空を求めるようなものなんだ……」
 気楽な風が吹いてる。ポップの足もとにも黒猫がいる。もともとは猫ではないけど、自分の正体を忘れたかのように、毛並みをととのえている黒猫が。
 この旅はラテルに始まり、ラテルが幕を引いたようなものだ。ポップとダイの想いを叶えながら、いちばん良い方向へと導いた。ラテルも、この状況が気に入っているに違いない。
 そしてもちろん、ポップはラテルの肩を持つ。


<  終  >

>>>2002/8/13up


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