「ポップ……」
ダイは起きていた。ポップがじっと自分を見つめ、キスをして去ってゆくのを感じていた。
引き止めたかった。もう一度、腕をつかんで。
「行かないで」
と、言いたかった。
……なぜ言わなかったのだ?
もう一度、試せば、ポップはここに残ってくれたかもしれない。試して当たり前だ、昼間の状態なら。
がばとはね起き、ラテルと目があった。猫族の金色の目。なにもかも見透かされているような。
闇の中にその目を見つけて、ダイはなんとなくほっとして、首の周りを掻いてやった。
そうしているうちに、まだポップをこの手に抱いているような気になった。
「……ポップ、泣いてたよね。なぜ泣いたの? どうしてほしかったの? オレに」
残るとも、帰ろうとも、一緒に行こうとも言ってくれなかった。ポップが言ってくれたら、……もしかしてその通りにしたかもしれない。残してきた人々のことが気にかからなかったわけではない、でも今更、どのツラ下げて帰れるだろう。自分は逃げてきたのだ。逃げて、きたのだ。自分を必要としてくれるすべての人々から。
あのときはあれがベストだと思っていた。自分を犠牲にしてみんなを助けることが。残された人々の気持ちは考えなかった。自分だけで精一杯だった。
気づくと、船に乗っていた。
白髪の船長は≪永遠の都≫に行くと言った。てっきり自分は死んで、そこは死後の世界かと思っていたけれど、そうではなかったのだ。
自分はこの世界で成長した。この世界は居心地が良かった。ここにいればすべて忘れていられたし、住人もほとんど異邦人なら、それは既にタネローン人と呼んでもいいのではないか。ダイはここに順応し、いつのまにか十年間も経っていた。帰ろうという気もなくなっていた。
それが、あの日。
誰かが、呼んでいるような気がしたのだ。
入って以来、一度も越えたことのない、赤いドームの向こう、なつかしい誰か。
はたして、誰かはいた。ポップだった。少し髪が伸びていたけれど、十年前とほぼ変わらない、大好きなポップが。
黒い猫を連れた、ポップ。ずいぶん可愛がっているようで、ちょっとイヤだったけどラテルは元のゴメちゃんなのだ。ラテルをオレに渡すことが目的だったとポップは言った。そのあと会いたかったとも言ってくれたけど、だけど。
……あの涙の説明はつかない。
「ラテル。君は知ってるんだろう?」
黒猫に向かって、言った。
答えを期待したわけではなかった。しかし、それはもたらされた。想像もつかない方法で。
※
「……オレはねえ、ずっとダイと一緒にいたかったんですよ、船長」
少し気分の良くなったポップは、立ち上がって船の欄干にもたれかかりながら言った。
「……だが君は、戻ってきた」
「オレはね。でもオレの一部は、永遠にダイと一緒だ。覚えていませんか船長。船に乗ってまもなく、あなたはオレだけを乗せる予定だったと言った。それはある意味正しいんです。あの猫はもともと『神の涙』と呼ばれるアイテムで、それに願いをかけ、オレの魂の一部を移植しました。猫の姿に変えたのはオレの魔法ですが」
ダイに聞いて初めて知ったが、『神の涙』が自分の部屋に現れたのも偶然ではないと思う。ポップは、形見とばかりゴメのかけらをひとかけ持ち帰った。そして部屋にちいさな祭壇をつくり、そこに祭った。『神の涙』降臨のウラには、なるほど、そういう事情もあったのだ。
だが、そのおかげで長年の悩みが解決した。ダイと一緒にいること、ずっとずっと一緒にいること。
「……約束、したんですよ」
ポップは笑った。苦笑に似ていたが、そう言うにはあまりにはかない、蒼く透明な微笑だった。
「最後の最後までつきあってやるって。まあかなり一方的な約束だったし、ダイはもう忘れてるみたいなんですが」
今度は本当に苦笑してポップは言った。
「たったそれだけのために、元の世界を離れ、こんな所まで来たのかね?」
「それだけとは何ですか、失礼な」
ポップはぷっとふくれた。そうすると、やけに幼く見えることに船長は気づいた。
「ほかにもありますよ。それは目的の半分です。オレは探しに来たんですよ」
「ほう?」
船長は興味深そうに首を傾げた。
ポップは挑戦的に目を閃かせて言った。
「──死に場所を」
※
「死に場所、だって!?」
ダイは叫んだ。
ラテルがポップと同調して、ダイに聞かせていた。
船長の声は聞こえなかったが、内容からその会話を中継しているのだとわかった。ラテルの金の瞳は空洞と化し、まばゆい光があふれ、口からはポップの声が漏れていた。それはラテルではなかった。ポップの魂を移植された、『神の涙』の力だった。
『神の涙』はさらに続けた。
「ここだけの話、オレの人生はもう終わってんじゃないかと思うんです。実際、一回死んだんですが、そのときは運良く生き返ることが出来たんですね」
「ダイと組んで、世界も救ったし、まあ厳密にはすべての人々が力をあわせて救ったんですけど、その中でもけっこー中心にいたんじゃないかと」
「そのために禁呪や大呪文もかなり使ったし。使えばどうなるかは師匠を見て知ってたんですが、んなこと言っとる場合じゃなかったもので。うん、後悔はしてませんよ。誰かがやらなきゃ世界すべてが終わってたんですから」
「……待てるものなら、レオナみたいに待ってたかったんですけどね。レオナってダイの彼女ですけど。師匠は前大戦から十八年生きていた。だからオレの寿命もそれくらいだ。十年かけて、オレは大戦の処理をした。ダイがいつ帰ってきてもいいように」
ポップが淡々と話す内容が、どれほどの意味と重みを持っているか、ダイにはしばらく理解できなかった。
「もしラテルが現れなくても、いつかはダイを探しに行こうと思ってました。そのへんで帰り道がわからなくてウロウロしてんじゃないか、またどこぞで戦いに巻き込まれたりしてないかと心配でしたから」
「だから、ダイがタネローンにいてくれて良かったと思います。ダイはあそこで幸せだったんだ。それなのに無理に帰らせることは出来ません。オレ自身ももう、帰るつもりはありませんし」
そこで、ポップはひときわ染み入るような言葉を吐いた。
「……オレは、以前大魔王にすっげえタンカ切ったことがあるんです。残りの人生が五十年でも五分でも、まぶしく燃えて生き抜いてやるって。今考えるとすごいえらそうなセリフだけど、今こそそれを証明するときだと思ってます。大魔王はダイがやっつけてくれたから、オレが死んだら死後の世界で会うかもしれない。きっとオレは胸を張って言える。充実した生だったって。オレの寿命はあと十年足らずですけれど、その死の瞬間まで、オレは異世界を放浪したいと思います」
自分は──、
何をしていたんだろう。
オレはタネローンで何をしていた? ただ諾々と過ごしていただけだ。羊水に首まで浸っているような、穏やかなこのタネローンで。
ダイが自問していると、唐突にほかの思念が飛びこんできた。
……早くしないと、手遅れになるよ。
その思念は、ダイのすぐそばから発信されているようだった。
早くしないと、一番大切なものまで無くしてしまうよ。
「……ラテル!?」
ダイは愕然としてラテルを見た。ラテルはただの黒猫に戻ってしまっていた。もう、ポップの声も聞こえない。では今のは。
「……そうか。ドームの向こうから呼んでいたのは君だったんだね、ラテル」
彼の一部。彼に姿と名前を与えた彼の飼い主、ポップのために。
「ミャウ」
黒猫は床に降り、扉の前まで行くと追いかけろと言うかのように一声鳴いた。
「わかってる。行こう、ラテル。ポップを一人で死なせるわけにはいかない」
なにもかも、明瞭になってゆく気がした。
ラテルを肩に乗せ、船着場に走りながらダイは思った。
ここは永遠の都なんかじゃない。出ようと思えばいつだって出られたのだ、ポップのように。
必要なのは勇気だけだ。ここを出る、勇気。ダイはようやく気がついた。タネローンの安息は永遠じゃない、気づかなければ生き腐れてたった一人で死ぬしかないのだ。ここは傷つき疲れた者どもが、もう一度生まれ変わるための彼岸の地、このまま羊水に浸っていたければそれもいい。それは死と同義かもしれないけど。
ダイは初めて帰りたいと思った。
彼を待つ人々のいる、なつかしい元の世界、帰りたい。でも今は、
今は……。
「ポップ」
ダイはそれだけをつぶやき、祈るように夜を駆けた。
>>>2002/8/12up