薫紫亭別館


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 ハンジはひと通り兵舎を回ってから、コローナの林を目指した。
 林の中ほどまで来た時点で、リヴァイを抱いて向こうから引き返してくるエルヴィンと、リヴァイのブーツや立体機動装置のベルトを持ったミケと鉢合わせた。エルヴィンやミケや自分の上着でぐるぐる巻きにされたリヴァイの、膝から下だけが素足で覗いている。ぞっとするような青白さだ。
 びしょ濡れの髪、閉じられたまぶた、エルヴィンの腕の中でぴくりともしないリヴァイは、まるで精巧につくられた人形のように見える。
「ちょ、ま、まさか……じさ……!」
 自殺、とまでは言い切れずにハンジは語尾を濁した。
 ゆっくりとエルヴィンはかぶりを振り、
「いや、恐らく普通の貧血だ。壁外調査で目一杯動き回った所に、メシも食わずに水に浸かったんだ。頭に血も上っていただろうから、体温が奪われていくのに気付かなかったんだろう。気を失っても、流されなかったのは不幸中の幸いだった。……リヴァイは意外と重いからな」
 脂肪の余地がほとんど無さそうな、密度の濃い体をエルヴィンは改めて抱きかかえた。
「ただ、ひどく衰弱している。二時間近く水の中にいたんだ、無理もないが……冷えきっている」
 らしくもなくハンジはあわあわと狼狽えて、
「じゃ、と、とにかく風呂……沸いてたかな。早くあっためないと」
「風呂は駄目だ」
 エルヴィンは強い口調で否定した。
「こんな状態のリヴァイを普通の兵士達に見せる訳にはいかない。君も誤解したように、自殺と見られる可能性がある。もちろん事故だが、こんな事は往々にして噂の方が信じられるものだ。調査兵団の兵士長が入水自殺を図ったなど、噂でも認められない。これからの職務に差し支える」
「じゃ、どうすんのさ!?」
 兵士長、の呼称には気づかずハンジは叫んだ。
「私の部屋に連れて行く。一人ではもったいないので使っていなかったが、私の寝室には暖炉がある。分隊長の私室は寝室の前に書室があるから、誰かに突然入られてもリヴァイの現状を知られる心配はない。私が自分で看護する。君達も、他の者には他言無用だ」
「なに言ってるのさエルヴィン!? ちゃんと医者に診せて、診断して貰わないと……リヴァイ、ひどい顔色じゃん。シロウト判断で、リヴァイがどうかなったら……!」
「死なない」
 ハンジがあえて使わなかった言葉を、直接エルヴィンは口にした。
「リヴァイは私の役に立つと約束してくれた。まだ果たして貰っていない。それまでは死なせない」
 恐ろしく冷徹にエルヴィンは言ってのけた。
 ハンジが唸る。尚も言い募ろうとしたハンジを、ミケが止めた。
「よせ。お前はリヴァイを見つけた時のエルヴィンを見てない。後で話してやる」
「………」
 ハンジが取り乱しても不思議はないほどリヴァイの顔色は悪い。
 真っ白な死体のようなリヴァイを川から引き上げ、呼吸を確かめ、脈を測り、リヴァイが脱ぎ捨てたシャツで水気を取る。応急処置のお手本のような手つきに、意外と冷静だな……、とミケは感嘆しながら手伝っていたが、最後にエルヴィンはミケに上着を脱ぐよう言い、自分も脱いでリヴァイの体をくるむと、リヴァイの上に覆い被さり、こう漏らした。
「……間に合って、良かった……!」
 そこまで何とか平静さを貫いたエルヴィンの、心からの呟きだった。
 壊れものを扱うように優しく抱き上げ、できうる限りの速さで兵舎に向かう。その途中でハンジとぶつかった。懇切丁寧にハンジに説明してやる辺り、エルヴィンはまだハンジを気遣っている。ミケは先を促した。
「行こう。リヴァイを手当てしないと。先に行け、ハンジ。誰もいないルートを取るんだ。倉庫から薪も持ってこないと……見つからない内に」
 ハンジは頷き、駈け出した。そうだ、今は言い争っている場合じゃない。
 ミケもエルヴィンの先触れとしてルートを模索し、無事に誰にも見られずに、エルヴィンの部屋にリヴァイを連れて戻る事に成功した。


「だいぶ血の色が戻ってきたな」
「ああ。ありがとう、ミケ……摩擦はそろそろいいか。すまないが、毛布をかけてくれるか」
 暖炉の前にリヴァイを寝かせ、二人で乾いた布で全身を摩擦すると、リヴァイの肌に赤みが差してきた。
 エルヴィンはその場で服を脱ぐと、下着姿であぐらをかき、同じく下着を履かせただけのリヴァイを抱いた。ミケはエルヴィンとリヴァイ、まとめて上から何重にも毛布を着せかける。
 まだひやりとする体を出来るだけ密着させ、エルヴィンは自分の熱でリヴァイを温めた。
 ハンジは細々と、暖炉の火を調整したり水を用意したりと、雑用を請け負っている。
 ハンジは言った。
「ミルクあったまったよ。飲ませたげて」
 暖炉からミルクパンをおろす。
 アルコールは却って血管を広げ、熱を放出させるので良くない。ローゼでは貴重な牛乳に砂糖を入れて、温めたものをマグカップに入れて差し付ける。当然、それでは飲めない。エルヴィンがまず自分の口に含み、口移しでリヴァイに飲ませた。
「くそ。こんな事でお前との初キスを果たしたくなかったぞ、リヴァイ」
 ハンジとミケがいても、エルヴィンはもう自分の恋情を隠そうともしない。リヴァイを助ける為に、なりふり構っていられないのだろう。マグカップの中身がなくなるまで口移しで与える。ハンジとミケは、礼儀として目を逸らした。
 ミルクパンの代わりに薬缶をかけ、湿った空気をつくる。
 沸いたお湯でお茶を淹れ、ハンジはミルクと一緒に拝借してきたパンと共にエルヴィンに差し出した。
「エルヴィンもごはん食べてないんでしょ。これ、腹に入れときなよ」
「気持ちだけ頂いておくよ、ありがとう。動いてリヴァイが目を覚ましたらいけないからな」
 リヴァイの眠りを妨げないよう、エルヴィンは笑って断った。
 ミケが聞く。
「疲れたら代わるぞ、エルヴィン。いつでも言え」
「大丈夫だ。私が看病してやりたいんだ」
 口調は柔らかいが、確固とした拒絶を感じる。
 いとおしそうにリヴァイを見下ろすエルヴィンを見やりながら、ハンジは次の水を入れて薬缶をかけた。
 しばらく全員が無言で過ごしていた。
 静かな室内に、暖炉の火の爆ぜる音と、リヴァイの呼吸音が響く。
「……少し熱が出て来たな。風邪を併発したようだ」
 荒くなってきた呼吸と、汗ばんだ額。さっきまで良くなってきたと喜んでいた顔色は、行き過ぎて赤い。
「体温が下がると抵抗力が落ちるからね。……こんな弱ったリヴァイ、初めて見たよ」
 リヴァイは人より強くて体力も持久力も並外れていて、ほぼいつも無傷で、舐めれば治るようなかすり傷しか負った事がなくて……誰かを介抱する事はあっても、誰かにこうして無防備に体を預けた事などなかった。あのキツい目付きが隠れただけで、何故こんなにも頼りない?
 狭い肩幅と薄い胸、あれだけの力を生み出すとは信じられないほど細い手足、そのどれもが頼りなげではかなくて、守ってやらなければと思わせる。
 ただ、これはハンジが女だからそう思うのかもしれない。
 女なら、ハンジのように母性を刺激されて守る方向に行くだろうが、男の場合は……!? それ以上考えるのをやめて、ハンジは頭を振り払った。どうあれ、今はエルヴィンはリヴァイの回復だけを願っているように見える。
「ん……」
 暑くなってきたのだろう。エルヴィンの腕の中でリヴァイがもがく。
「リヴァイ。まだ駄目だ」
 エルヴィンが押さえる。次にリヴァイが吐いた言葉に、その場にいた全員が凍りついた。
「……や、もう嫌だ……、離せ……!」
「………っ!!」
 意識が混濁している。
 ただうなされているのとは違う、明らかな拒否の声音。
 リヴァイが売り物だった事実を初めて目の当たりにして、ハンジとミケは立ち尽くす。
 エルヴィンは毛布でリヴァイの顔を覆った。
「……すまない。手伝って貰ったのに悪いが、今夜の所は出て行ってくれないか。リヴァイも、知り合いにこんな姿を見られたくないだろう。後は私一人で何とかするから」
 わかった、とミケが言ってすぐにドアのノブに手をかけた。後ろ髪を引かれながらもハンジも続く。
 パタン、とちいさな音を立ててドアが閉まると、エルヴィンはリヴァイをベッドに寝かせた。人肌が過去の記憶を引き起こすなら、まだ冷たいシーツの方がいいだろう。リヴァイがエルヴィンから逃げるように、奥までにじり寄ったのが悲しかった。
「………」
 悪夢に苛まれるリヴァイを見ないようにしながら衣服を身につける。
 エルヴィンはベッドの横に椅子を引いて、そこに座った。どんなに目を背けたくとも、今のリヴァイから離れる訳にはいかない。己の無力さに歯噛みしながら、エルヴィンはベッドの端に顔を伏せた。
「リヴァイ……リヴァイ……リヴァイ……っ!」
 こんなに近くにいるのに役に立たない。自分はリヴァイを苦しめるだけなのか?
 リヴァイにとってはエルヴィンの想いも、ただ迷惑なだけだろう。保護者として必要とされているだけでもありがたいのかもしれない。奇妙な偶然が重なってエルヴィンは運良くリヴァイを見出し、調査兵団まで連れてきたが、リヴァイにとっては大きなお世話だったかもしれない。
 幾らリヴァイの行く末を託されたといえど、こうなるとわかっていたら決して頼まれなかっただろう。
 自責の念に押し潰されそうだ。
「……エルヴィン……?」
 まずい。起こしてしまっただろうか。思わずエルヴィンは顔を上げた。
 リヴァイは熱に潤んだ目でエルヴィンを見つめた。リヴァイ特有の検分するような目付きも、今日だけは幾らか力を失って、見返すのもそれほど苦痛じゃない。そっとリヴァイが目を閉じる。
「エルヴィン……なら、いい……」
 夢うつつにリヴァイはそう言った。
 待ってくれ。今のはどういう意味だ。エルヴィンは叫び出したくなる衝動をこらえた。
 何処か安心したように、ようやく穏やかな寝息を立て始めたリヴァイを叩き起こして無理に問い質す事など出来ない。エルヴィンは一睡もせず、リヴァイの容態をまんじりともせずに見守りながら朝を迎えた。


 鍛え方が違うのか、リヴァイはあれから三日ほどで全快した。
 翌日からはエルヴィンの部屋から医務室に移り、リヴァイの班員が心配して何度も面会に訪れていた。リヴァイの班員はよく言えば自由な、悪く言えば身勝手な班長に慣れているから、事後処理のミーティングに現れなくてもそれが普通だと思い、自分達で処理していた。
 水浴びのし過ぎで風邪ひくなんて、何やってるんですか! の怒号が医務室に響く。
 低体温症で死にかけた事はエルヴィンとハンジ、ミケだけの秘密だ。
 リヴァイが通常任務に復帰したその日にキース団長は皆を集め、自身の引退を表明した。
 それに伴い、新たな人事を発表する。
 団長エルヴィン、分隊長ミケ、ハンジ……そして兵士長、リヴァイ。
 ――調査兵団第十三代団長の時代が、ここに始まる。

<  終  >

>>>2013/8/31up


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