イングリッシュ・ローズ/02


イギリスの部屋の前に立った俺は、一つ大きな深呼吸をする。
ノックと同時にドアの前から声を掛けると、すぐに扉が開かれてイギリスがいつも通りの不機嫌丸出しな顔を覗かせた。

「…遅かったじゃねーか」

「あー、うん……悪い。待った?」

「待ったに決まってんだろ、早く入れよバカ」

部屋の奥に通されて、ドアの前で閉め出しを喰らわなくて良かった、ととりあえずほっとしながら奴の後について室内に入る。
三人掛けの大きなソファに、目線で座れと促され、素直に腰を下ろすとイギリスも少し間を開けて俺の隣に座った。

何気なく奴の方に視線を向けると、こいつも風呂に入ったばかりなのか、僅かに髪が湿っている。
隣に座るイギリスからシャンプーなのかボディソープなのか、どっちかわからないけどやけに甘ったるいいい匂いがして、心音が早まるのを感じた。

シャンプーやボディソープの銘柄にそんなに拘る奴じゃないから、寮の風呂場に備え付けてあるものをそのまま使っていると思うのに、どうしてこんなに甘い匂いに感じられるのだろう。
必要以上に手入れをしていない、少しばかり癖のある髪に指を絡ませ、その金糸と皮膚に口付けたい衝動に駆られる。

密室に二人きり。
しかも互いに風呂上がり。

……これはどう考えても書類を渡してハイさようならって状況じゃないだろ、常識的に考えて。
ほとんど無意識にイギリスの肩に手を伸ばすと、俺の指先が触れる寸前で奴はソファ横のテーブルに置いてあった厚い紙の束を手に取った。

「急ぎの案件から順になってるから、ちゃんと一番上から見ろよ。この付箋がついてるとこまでが明日提出厳守のやつな」

書類の束を突き付けられ、伸ばした手に掴んだのはイギリスの肩ではなく分厚い紙束だった。

「…こんなに? どさくさに紛れてまだ期限に余裕のあるやつも入れてんじゃねーの?」

「入れてねーよ。ってか、何でギリギリにやること前提に言ってんだてめーは」

「………」

渡された書類をペラペラと捲り、大きな溜息を吐く。
我ながらどれだけ溜め込んでいたのか、しばらくサボっていたツケが回ってきたにしてもすごい量だ。

明日までに終わるかなあ……これ………ってか、アレ?
この書類の束を今晩中に片付けようと思ったら、とてもじゃないけどこの後イギリスとベッドでイチャついてる暇なんかないんじゃ…。

「…マジで手伝ってくんないの?」

縋るような目で隣のイギリスを見つめると、奴は思いきり鼻で笑って俺の言葉を一蹴する。

「手伝うかバーカバーカ! 仕事がそんなに溜まったのは自業自得だろーが。はははは!」

なんだそのいい笑顔。
マジかよこいつホントに手伝う気全然ねーよ。
…いやいやじゃあなんでわざわざ俺を部屋に入れたんだ?

書類を渡すだけなら部屋に通す必要ないじゃん。
そろそろ俺を呼んだ本当の目的を言ってもいいんじゃないの?
俺がそんなことをうだうだ考えていると、イギリスは短く息を吐いてぼそぼそと呟くように言った。

「…けど目を離すとちゃんと仕事すんのかアテにならねーからな……ここでやってけ。手伝わねえけど見張っててやる」

「え? ええー…?!」

「えーじゃねえよ。何のために部屋に呼んだと思ってんだ」

素でそう返されて、俺は二の句も告げずに半ば呆然と奴の顔を見返した。

「……ああ……そう、そういうこと…」

イギリスの言葉を頭の中で何度か反芻させて、俺はようやくその意味を理解する。
繰り返し考えたところで、奴の科白からは言っている言葉以上のことは何も読み取れないし、イギリスの態度からもそれ以上の意味も意図も何もないことは明白だ。

「早く始めろよ、それが終わらなきゃ俺だって寝られねーんだからな」

不機嫌そうにこちらを見ているイギリスには照れ隠し的な様子もなく、真実俺に書類を片付けさせるために呼んだらしいというのが表情からも見て取れる。
悲しい現実にがっくり項垂れて、魂まで出てきそうな溜息を吐き出した。
あー……何を期待してたんだろ俺……。

そのイギリスの言葉は意外と言えば意外だったけど、まったく想定外というほどでもなく、そもそも俺が勝手に違うことを考えていただけなのだが、気分はもう完全に臨戦態勢になってしまっている。
今さら何もしないなんて、腹を空かせた馬の目の前にニンジンをぶら下げているのと同じようなものだ。

と言っても自分の欲望を一方的に押し付けるとろくなことがないというのは、これまでの付き合いで身に染みている。
こうなったらこの書類をとっとと片付けて、その後にでもそーいう雰囲気に持っていけばいいか、とかなり前向きに思い直した。

早速一枚目の書類に目線を落とし、表題と本文にざっと目を通してサインをする。
さほど重要事項ではなさそうなものなら、中身を完全に把握していなくても問題ない。
そんな調子でどんどん書類にサインをしていくと、いきなりイギリスがペンを持つ俺の手を掴んだ。

「お前ちゃんと内容見てんのか? いくら仕事が溜まってるからって適当にすんなよ」

「適当になんかしてねーよ。大体内容って言っても予算申請なんて申請者と金額のとこだけ見れば問題ないだろ。他の文章はテンプレみたいなもんなんだし」

「お前なー…そんないい加減な仕事があるか! どんだけ働くの嫌いなんだよ!」

俺の答えにイギリスは目をつり上げて怒った口調で言った。
大体お前は、と説教じみた小言が始まったが、俺はその様子をじぃっと見つめながら、黙ってイギリスの小言を聞いていた(聞いていた、と言っても話の内容は右から左へ素通りしていたが)。

イギリスの僅かに湿った髪や、乱暴な言葉を紡ぐ唇をぼんやり眺めていると、触れたいとかキスしたいとかそんなことばかりが頭の中をぐるぐる回って、どうにも抑えが効かなくなる。
まだイギリスの小言が終わっていないにも関わらず、俺は奴の肩に手を置くと吸い寄せられるようにそっと顔を近づけた。
肩に俺の手が触れたことでイギリスがこちらに振り向くのと同時に、互いの唇が軽く触れ合う。

驚いて身を引こうとした奴の身体をソファに倒し、その上に覆い被さるように乗り掛かるともう一度唇を重ねた。
ほんの少し皮膚が触れ合っただけで身体が熱くなり、触れるだけのキスでは我慢できず、薄く開いていた唇に強引に舌を捻じ込み絡め合う。

「…はっ、……」

散々口内を蹂躙し、ようやく唇を離した頃にはイギリスはすっかり息が上がっていた。
肩で息をし何とか呼吸を整えると、奴は無理矢理上体を起こして俺の身体を押し返す。

「いきなり何すんだ、…ばか…! 真面目に仕事する気あんのか?!」

「んー…あったけど………しょーがねえだろ、したくなっちゃったもんは、さ」

悪びれもせずサラリと答えた俺に、イギリスは心底呆れたように呟いた。

「…お前の頭の中はそれしかねーのか」

「まぁ今日は。お前がめずらしく部屋になんか呼ぶから、お兄さんそーいうことかと思ったんだけどね」

こいつにそんな気がなかったのがわかっていても、少しだけ恨みがましいような気持ちで本音を漏らす。
するとイギリスも誤解を招く言い方だったと思い至ったのか、顔を真っ赤にして目線を逸らした。

「そ、そそそんなつもりで呼んだんじゃねーよ! それに…、そうそう出来るかよ、お前なんかとあんなこと」

「お前なんか、って……そりゃないだろ。じゃあ俺以外の奴とならいいっての?」

……あ。
口に出してから しまった、 と思った。
イギリスのいつもの言い様に何がそんなに苛立ったのか、思わず棘のある言葉を返した直後、奴の表情が僅かに強張ったため俺は咄嗟に口を噤んだ。

そりゃー俺がこいつとそーいう関係になったきっかけは成り行きとかその場の雰囲気とか、まぁはっきりした理由もない何とも曖昧なものだったけど、それでも傍にいたら触れ合いたいなぁとか思うし、その互いの心も身体も溶け合う瞬間は自分が誰よりも奴に近しい存在であることが実感出来て好きだった。
イギリスは俺と繋がることを少しでもそんなふうに思ったりはしないのだろうか。

…と言っても別に付き合ってるわけじゃないし、最初から感情の伴わない関係だ。
もともと俺とイギリスの仲はお世辞にも良いものとは言えないし、こんなふうにすれ違うのも仕方ないよな、と思いながらも胸に小さな穴が空いたような、何とも言えない気持ちになってしまう。

「あー、嘘だよ、冗談。お前俺だけだもんなぁ?」

によによ笑ってからかうように言いながら、宥めるようにまだ少し濡れている髪を撫でてやると、案の定イギリスは耳まで赤くして頭に置いた俺の手をはねのけた。

「へ、変な言い方すんな! 何だよ俺だけって気持ち悪ぃな!!!」

「ホントのことだろー? まぁ俺だってやることしか考えてないわけじゃねーし……、お前がしたくないなら何もしねえよ。うーん、俺って紳士だなぁ」

「自分で言うかお前……」

今日のことは俺が勝手に勘違いしただけで、イギリスに非はない。
それがわかっていて無理強いする気はないし、奴を困らせるのも本意ではないのだ。
いつも通りの軽口の応酬に、さっき垣間見たイギリスの強張った表情が消えていることにほっとした。

「さーてじゃあ真面目に仕事しよっかな。生徒会長様直々の呼び出しだしなー」

再び書類を手に取り途中まで見ていた用紙を捲ると、イギリスは安堵のためか小さく息を吐く。
それを見たら今回はイギリスの望む通り、きちんと仕事をするだけにしておいた方が良いのだと思えた。
冷静になってみるとちょっとがっつきすぎていた気がしないでもないので。

……結局その日は何とか明日提出期限の書類だけ仕上げて、何事もなくイギリスの部屋を後にした。
ああ疲れた、と自室に戻ってすぐ倒れるようにベッドに転がる。

ベッドに横になった途端、思い出したようにもやもやとした熱が全身を包み、どうにもならない疼きに呵まれる羽目になった。
身体は熱いがそれとは対照的に頭は妙に醒めていて、自分の手で処理しようとかそんな気分にはなれなかった。

それなのに目を閉じると瞼の裏に浮かぶのは、さっきキスしたときのイギリスの上気した頬だとか、滲んだ涙の被膜で潤んだ瞳だとか、熱い舌の感触だとかそんなことばかりだ。
こんなんじゃ眠るどころじゃねえじゃん……もうー……。

少し頭を冷やして気分を落ち着けようと、ベッドから降りて冷たい水で顔を洗った。
多少は身体の熱は引いたが、ベッドでぼんやりしてるとやっぱりあいつのエロい顔とか声とかを思い出してしまって、数日分の仕事をまとめてこなして疲れているはずなのに眠れない。

(あれーおかしいな……せめて女の子とか考えようよ俺…。あー…でも俺ももうずっとイギリスとしかしてないしなぁ……最近性的なことっていうと女の子よりあいつの方が先に浮かぶんだけど、やばいよなこれ……嫌じゃねえのが余計…)

実際肌に触れるまでイギリスをそういう対象として見たことはなかったのに、今ではそれを当たり前のことのように受け入れてるんだから、何が起こるかわかんないもんだよな…。
とりあえずしばらくは俺が溜め込んでた書類の確認とかその他の仕事で忙しいだろうから、俺も出来る範囲で手伝ってやって……あとはあいつがその気になるまで気長に待とっかなー、とかそんなことを考えながら、何度も寝返りを打って小さく溜息を吐いた。





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