ROOM No.909/01


「…もう酔ってらっしゃるんですね…」

「まだ酔ってないよっ」

呼び出されたバーで、顔を合わせるなり呆れたような声音で言った菊に、アルフレッドは声を張り上げてそう答えたものの、彼の頬はすっかり上気して若干ろれつも回っていない状態だった。
菊はアルフレッドのそんな様子に小さく溜息を吐くと、カウンター席に座っていた彼の隣に腰掛けた。
するとようやく姿を現した菊を見て気が緩んだのか、アルフレッドは真っ赤になった頬をテーブルに押し付けるようにして顔を伏せる。

「テーブルが冷たくて気持ちいいんだぞ…」

「駄目ですよ、アルフレッドさん。ほら、起きて下さい。すいません、お水いただけますか」

菊はカウンターの向こうにいるバーテンダーに声を掛け、アルフレッドの手に握られていた酒の残るグラスをそっと取り上げた。
もう一度起きて下さい、とアルフレッドの肩を軽く揺すると、彼は酔ったせいかとろりとした虚ろな瞳で見上げて、拗ねた子どものように 来るの遅いじゃないか、 と呟いた。

(…困った人ですね)

これでも呼び出しを喰らってすぐ、タクシーに飛び乗って急いでここまで来たというのに。
内心で何度目かになる溜息を吐き、バーテンダーから受け取った冷たい水の入ったグラスをアルフレッドの目の前に置いた。
なぜこの酔っぱらいの世話をする羽目になったのかというと、夕食の支度のため買い物にでも出掛けようかと思ったところに携帯が鳴って、うっかり相手も確認せずに出てしまったからだった。

『ちょっと付き合ってくれないかい? 反対意見は認めないぞ!』

返事をする前に電話の相手は一気にそこまで言い切り、菊は密かに嘆息する。
電話を掛けてきたアルフレッドは同じ大学に通う友人で、比較的親しく付き合っている相手だ(というか、どこが気に入られたのか何かというとアルフレッドにあちこち連れ回されて、気が付いたら一緒にいることが多くなっている)。
反論を許さない口ぶりはいつものことだが、それが普段よりさらに強い口調だったので、また憂さ晴らしの酒の誘いだと菊にはすぐにわかった。
憂さ晴らし、という言葉のとおり、このところアルフレッドは荒れている。
否、荒れている、というのは正確に言うと少し違うかもしれない。
ぼんやり遠くを見ていたかと思うと、大きな溜息を吐いてなにやらぶつぶつと独り言を言い出したり、元気がないとでも言おうか、とにかく少し様子が変なのだ。
その原因は菊にもわかっていたし、アルフレッドが沈む気持ちもよくわかる。
……なぜなら。
つい最近、アルフレッドの義兄であるアーサーが、生まれたときからの腐れ縁で事あるごとにケンカばかりしていた相手と、同居を始めてしまったからだ。

アルフレッドとアーサー。
二人は母親が違う義兄弟で、父親が早くに亡くなったため幼い頃にそれぞれの母親に引き取られた。
互いに存在くらいは知っていたけれど、数えるほどしか会ったことはなかったし、アルフレッドは自分に兄弟がいるという実感はあまりなかった。
アーサーが高校を卒業するまで離ればなれに暮らしていたが、その頃アルフレッドの母親が病死したことで、アーサーは一人きりになった彼を呼び寄せ、兄弟なんだし一緒に暮らさないか、と声を掛けたのだ。
ちょうど大学の進学で実家を出ることが決まっていたアーサーは、一人暮らしのためのアパートもすでに契約済みだった。
そこで二人で暮らすことは、アーサーの母に気兼ねせずに済むということでもあり、アルフレッドにとって悪い話ではない。
しかし義兄弟とはいえ、ほとんど顔を合わせたこともなく他人同然だったので、今さら兄弟として上手くやっていけるのか少し不安はあったが、アーサーは最初からアルフレッドを弟として扱ってくれたし何より優しかった。
アーサーに呼ばれ彼のアパートで何年ぶりかで再会したとき、少し遠慮がちに…、けれどとても嬉しそうにはにかんだ笑顔で出迎えてくれたことに、アルフレッドは心底安堵したものだ。
もしかしたらアーサーは離れて暮らしている間も、アルフレッドのことを家族の一人としてずっと気に掛けてくれていたのかもしれない。
そういういきさつで同居が始まってから、たまにケンカはしても兄弟仲は悪くなく、何だかんだでこれまで上手くやってきたらしい。
…それが菊がアルフレッドから聞かされた、彼ら兄弟の事情である。

そしてそのアーサーはアルフレッドと同じく、菊にとっては友人の一人だ。
最近アーサーが一緒に暮らし始めた恋人も、これまた菊とも友人として付き合いのあるフランシスだった。
フランシスはアーサーの幼なじみで、彼らを知る者なら誰しも二人の仲はすこぶる悪いと認識していた。
顔を合わせればけんか喧嘩ケンカの繰り返しで、よくまぁ毎度毎度飽きないものだと周囲も仲裁に入るどころか、もはや呆れて放っておいている。
菊としては幼なじみと言えばもはや王道、定番中の定番である萌え設定なのに、ここまで殺伐しているのもめずらしい、とアーサーとフランシスの関係は今以上に悪くなることはあっても、良くなることは決してないだろうと思っていた。
そんな彼らが恋人として付き合っていると知ったのは、アーサーがフランシスと暮らすために自分と住んでいたアパートを出るのだと、アルフレッドから聞かされたのがきっかけだった。
アーサーがフランシスと暮らす……それは彼らが四六時中を顔を合わせることになるわけで、ただでさえケンカばかりしているのに、一緒に住むだなんて狂気の沙汰にもほどがある。
初めてその話を聞いたときはそう思ったけれど、意識して彼らの様子をよく観察してみると、酷い罵倒の応酬でもフランシスは笑みを崩さないし、暴言を吐くアーサーもどことなく楽しそうなのだ。
要するに、ケンカするのは彼らのコミュニケーションの一つであり、もっと言えば彼らなりの愛情表現であるらしい。
思い返せばアーサーの傍には必ずフランシスが居た。
というより、居なかったのにいつのまにか現れて、気が付いたらいつもアーサーの隣に居て、からかったり笑い合ったり殴り合ったりしていた。
彼らがいつから恋人同士として付き合い始めたのか、アルフレッドもそこまで詳しく知らされていないらしいが、少なくとも高校くらいからではないかと菊は勝手に予想している。
アーサーの実家から大学までは確かに少し遠いが、通学出来ないほどの距離ではないのにわざわざアパートを借りて一人暮らしをすることを選んだのは、フランシスが関係していると考えれば何も不思議なことはない。
一人暮らしなら誰に気を遣うこともなく恋人を家に呼べるし、一緒にいる時間だって増えるのだから。
…とはいえこれは菊の想像なので、本当にアーサーにそんな思惑があったかどうかは定かではないのだが。

けれども急にアルフレッドと同居することになり、アーサーが一人暮らしで得られるはずだった自由な時間は、ほとんどなくなったと言って良いに違いない。
もちろん疎遠だった弟と良い兄弟関係が築けたことはアーサーにとっていい結果だったと思うが、代わりにフランシスと過ごす時間はこれまでの半分もなくなった。
アーサーは弟が居る家の中で平然と恋人といちゃつける性格でもなかったし、そもそもフランシスと付き合っていること自体を隠していたので、二人が会えるのは大学と休日くらいのものだ。
休日だって毎週出掛けるのではアルフレッドに怪しまれると思い、出掛けるのは月に一度か二度、それプラス、アルフレッドにも予定があって家に居ない日だけだった。
数年間そんな生活が続いて、いろいろと抑圧し続けた反動が一気に来たのかどうか、アルフレッドが高校を卒業し入学したばかりの大学生活にも慣れてきたことで、弟も一人でやっていくのに問題ないだろう、とようやくアーサーは家を出る決心をつけたらしい。

「あいつがどうしても俺と一緒に暮らしたいって言うから、…その…どうしてもってきかねえし、ご飯も毎日作ってくれるって言うし、仕方ねえからちょっとだけ一緒に住んでやることにした」

と、必要最低限の荷物を持ってアパートを飛び出し、フランシスの住むマンションで同居(と思いたい)を始めてしまったのである。
初めてその話を聞いたときは心底驚いたが、今や菊は二人の関係を意外とすんなり理解することが出来た。
しかしアルフレッドはまだ、アーサーがフランシスと付き合っていることも彼と一緒に住むという決断も、受け入れられずにいるようだ。
アーサーと暮らした数年間、一番身近で彼と接してきたのは他でもないアルフレッドなのだ。
恋人がいるというだけでも寝耳に水なのに、その相手が友人と言うにも抵抗がある犬猿の仲であるフランシスだと言うのだから、アーサーが彼を選んだことを頭ではわかっていてもどうしても納得出来ないらしい。
唯一の肉親である母親が亡くなって一人ぼっちになったとき、頼れる者もいなかったアルフレッドに声を掛けてくれたのはアーサーだけだったのだから、たった一人の身内である兄を心配する彼の気持ちはわからなくはない。
だがこうしてことあるごとに呼び出され、毎度同じ内容の愚痴や憂さ晴らしに付き合わされるのは、いい加減遠慮したいのも本音だ。
今月に入ってこれで何度目になるだろうか。

「本当に信じられるかい? ケンカばっかりしてたくせに、いきなり俺たち付き合ってます、なんて言われても、こっちは一体どういう反応すればいいんだい」

アーサーが家を出てフランシスと暮らし始めてから、アルフレッドのこの科白はもう耳タコだ。
アルフレッドから呼び出しの電話を受けてから二時間、聞き役に徹していた菊はあまり酒は口にしなかったが、自分が来るまでにどれだけ飲んだのか、彼はすっかり出来上がって前も聞かされた愚痴を繰り返している。

「大体フランシスもどうかしてるよ! 何でアーサーなのかな。俺が知ってる限りじゃいろんな女の子にちょっかい出してたのに……なんでアーサーなのかな」

アルフレッドは不可解そうに眉を顰めて、疑問に感じる部分を強調するように二度言った。
これも何度も聞いた科白だったが、菊も何度も返した同じ答えを口にした。

「そうですねぇ……でもフランシスさんが特定の女性とお付き合いをしているという話は聞いたことはありませんし、ちょっかいを出していた女性たちとは友達のような浅いお付き合いだったのではないですか」

「そうだとしてもさ、アーサーじゃなくてもいいんじゃないのかな。フランシスの奴、もてないわけじゃないんだし……もっと選ぶ余地あったと思うぞ」

「フランシスさんはアーサーさんが良かったんですよ。きっと他の誰かじゃ駄目なんです」

「………そうなのかな。俺にはわかんないぞ」

アルフレッドは少しだけ頬を膨らませ、拗ねた口調で言うとぐい、と一気にグラスの中の冷たい水を飲み干した。
同居を初めて五年、その間自分が一番アーサーの傍にいて寝食を共にしてきたのだから、兄のことを他の誰よりわかっているのだ、とアルフレッドにはそんな自信があった。
アーサーはいつだってアルフレッドを優先したし優しかったから、まさか自分以上に大切な相手がいるなんて思いもしなかった。
それが長年一緒に過ごしてきた幼なじみのフランシスだと言うのだから、やはり傍にいたのが二十三年と五年では重ねた年月が違いすぎるのだと思い知らされてしまった。
その長い付き合いの賜なのか、フランシスはアーサーが求めるものを誰より心得ていた。
アーサーは自分の存在を誰かに必要とされたがっているのに、そのくせ変にプライドだけは高いものだから、近寄りがたい性格だと敬遠されていた。
生まれたときから傍にいたフランシスだけは、アーサーのそういう難しい性格も理解して受け入れていたし、遠慮のない言葉と態度で彼の心に踏み込んでいったのだ。
そうやってフランシスがアーサーの心に付けた足跡は、きっともう消えない。

「別にアーサーが誰と付き合おうと俺には関係ないけどさ! それなら隠したりしてないで、もっと早く言えばいいんだよ! 俺の知らないとこでこそこそして、そういうの、なんか嫌なんだぞ。ねえ菊、君もそう思わないかい?!」

空になったグラスを手に項垂れるアルフレッドを横目に、菊はまた密かに溜息を吐く。
本当に、一体いつまでこんな無意味な愚痴を聞かされることになるのだろう。
アルフレッドの気持ちの整理がつかないのも、言いたいこともわかる。
実によくわかる、のだが。

認めなきゃ、現実を。

菊としてはそろそろアルフレッドにこの現実を受け入れて欲しいのだ。
こんなふうに頻繁に呼び出されては学校の課題も趣味の原稿も進まないし、迷惑とは思わないまでも少し困っている。
誘いを断れば済むことだけれど、日本人独特の遠回しな断り方ではアルフレッドにはまったく通じないのは実践済みだ。
それに誘いに応じなければ後々面倒だし、何だかんだで毎回彼の愚痴に付き合う羽目になっている。
とはいえ、いつまでもこうして愚痴っていたって何も解決しない。
ただ菊のHPと時間が削られ、心労が増えていくばかりである。
ここは一つ、アルフレッドが納得するように、付き合っている理由を本人たちから聞き出して、無理矢理にでも現実を受け入れさせるしかないような気がする。
彼らがケンカしているところしか見たことがなかったから、アーサーとフランシスが付き合っているという事実に違和感を感じるし、彼らのケンカは殴り合いも日常茶飯事なので上手くいっていないんじゃないかと心配にもなるのだ。
二人が幸せに暮らしているところを自分の目で見れば、アルフレッドも納得せざるを得ないに違いない。
……というかそうであって欲しい。

「…これから、アーサーさんのところへ行きましょう」

「え? なんでだい?」

突然の提案に目を丸くしているアルフレッドを残し、菊は席を立つとさっさと店を出て行く。

「ちょ、待ってくれよ! 菊! 菊ってば!」

慌てて会計を済ませ、アルフレッドはわけがわからないまま菊の後を追いかけてきた。

「アーサーのとこに行くって、何しに行くんだい?! それに一緒に住んでる奴らの家にいきなり行くなんて、それはKYって言うんだぞ!」

「…アルフレッドさんからKYなんて言葉を聞くとは思いませんでした。というか、まだ夕方ですし大丈夫ですよ。いくらあのお二人でも、夕飯前から事に及ぶなんてことはないと思いたいですし」

にこにこ笑ってサラッと答えた菊の言葉に、アルフレッドの酔いは一気に覚めたらしく、赤かった顔が一瞬で青くなった。

「君……本気かい?」

「お二人が付き合うことになった理由、私に聞かれてもわかりませんし、アーサーさんに直接聞いた方が早いと思いますよ」

ときどき、菊は驚くほど思い切った行動を取る。
いつもはアルフレッドの押しの強さに負けて、滅多に自分の主張を通そうとはしないのに、開き直ると何をするかわからない菊の意外な行動力の一つだ。
それはありがたかったり怖かったり、そのときによっていろいろだが、今回に限っては前者だ。
結局のところ、アルフレッドは自分が入っていけない彼らの生活が気になって仕方がなかったのである。

「行くんですか? それともやめますか?」

「い、行くよ!」

唐突に選択を迫られて咄嗟に行く、と答えたが、アルフレッドは彼らが住む家へ行くのはこれが初めてだ。
心の準備も出来ていない、何とも複雑な心境のまま、菊と二人でアーサーの居るフランシスのマンションへと向かったのだった。





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