ROOM No.909/07
しかしどんなにフランシスと触れ合いたいと思っても、今日ばかりは我慢しなければならないのだ。
肩に触れた彼の手を払おうとしたとき、それより早く強い力で引き寄せられて、気が付いたらアーサーの身体はフランシスの腕の中に収まっていた。
「や、やめろよばかっ、……アルフレッドと菊が起きたら、…」
身を捩り声を上げると、彼の人差し指が唇に当てられる。
「アーサーがそうやって声を出さなければ大丈夫じゃないの?」
「なっ、…」
フランシスは薄く笑ってのんきな返事を返すとアーサーの上に覆い被さり、声にならない言葉を発しようとぱくぱくと開閉させている唇に柔らかく噛み付いた。
唇だけでなく頬、額、瞼へも何度も触れるだけのキスを落とされ、優しく口付けられる感触に彼に触れられたくて疼いていた肌がじわじわと熱を帯びていく。
求めていた熱にアーサーは思わずうっとりと瞳を閉じかけたが、すぐに我に返ってフランシスの胸に手を当てると乗り掛かる身体を押し返そうとした。
けれど何度も唇を重ねられ腰を支えるように抱きかかえられると、彼を押し返そうとしていたアーサーの腕から徐々に力が抜けていき、フランシスの背に回してしまうのにさほど時間は掛からなかった。
キスだけだ、それ以上は絶対だめだ、となけなしの理性を働かせるが、アーサーの腕が背に回されたことにフランシスは口元に満足げな笑みを浮かべて、シャツの中にそろりと指を滑らせてくる。
触れた肌の感触と熱を確かめるように、彼の大きな手のひらが脇腹の辺りをそろそろと撫で回し、冷たい指先が皮膚を辿る感覚にアーサーはひくり、と喉を反らせた。
フランシスはその晒された首筋に吸い付き軽く歯を立てて甘く食みながら、アーサーのシャツを一気に胸上まで捲り上げる。
「あ、……ぁ…フランシス…っ」
アルフレッドと菊の存在を気にしてか、アーサーは泣きそうなか細い声を上げる。
その様子すらかわいくて仕方ないと言わんばかりに、フランシスは宥めるようなキスを繰り返し熱を帯びた肌を撫でていると、突然 げふんげふん、 とやけにわざとらしい咳払いが聞こえて、さすがに彼も手を止めた。
二人揃って咳のした方に目線を向けると、菊がソファで爆睡しているアルフレッドの耳の辺りを、さりげなく毛布で覆っているのが見える。
さっきの妙な咳は菊だったらしく、薄暗い中でも彼が困ったように顔を歪めているのがわかって、アーサーは慌ててフランシスの身体を押し返し必要以上に距離を取って彼に背を向け毛布にくるまった。
ずいぶん酒も入っていたし、二人とも多少のことでは目覚めないだろうと思っていたが、よく考えてみれば菊はそんなに飲んでいない。
フランシスに触れられることに夢中になってしまい、いつのまにか周りが見えなくなっていたことが恥ずかしくて、アーサーは毛布の中で頭を抱える。
自分はなんとか我慢しようとしていたのに、フランシスが触ってきたからこんなことになってしまったのだ。
あとで百回殴ってやるから覚えてろ、と八つ当たりのようなことを考えながら、再び静寂を取り戻したリビングで二人は久しぶりに寂しい独り寝で夜を明かしたのだった。
**********
「おーい起きろよアーサー! 朝ご飯の時間なんだぞー!!」
突如響いたアルフレッドの大きな声に、アーサーは強制的に眠りの世界から引き戻された。
ご飯ご飯と騒ぐ弟の声に、目を擦り重い瞼を無理矢理開けるとキッチンからいい匂いがただよってくる。
「まったく寝てるのは君だけだぞ! だらしないなぁ」
「………………」
昨日あれだけ飲んでいたのに、二日酔いもしていないのか朝からえらいテンションの高さのアルフレッドについていけず、アーサーは無言で身を起こした。
皺になったシャツに顔をしかめて洗面所へ向かうと、とことことアルフレッドが後をついてくる。
「…なんだよ?」
「なんで君たちまでリビングで寝てたんだい?」
「なんでって……俺とあいつだけ部屋で寝てたら、あとからお前らに何言われるかわかったもんじゃないからな」
「ふーん、空気を読んだというわけかい! 起きたら二人して床に寝てるから、逆にびっくりしたよ」
逆に、という言葉は、アルフレッドは昨夜アーサーがフランシスと一緒に寝なかったことに驚いたということで、一緒に寝るのが当たり前だと思われていることにアーサーの頬がぐんぐん熱くなる。
急いで冷たい水で顔を洗うが、冷えるどころか余計に火照ってしまった。
「もうそんなことはどうだっていいだろ、部屋に戻るぞ」
「そうだね、朝ご飯出来てるかなぁ」
アーサーは熱くなった顔をタオルで隠すように水滴を拭きながら、なんとか平静を装って答えるとアルフレッドものんびりした口調で返事をした。
リビングに戻ると菊が散らかった缶の後片付けをしていて、アーサーの姿に気付くと少しだけばつが悪そうに目線を逸らしたあと、控えめに声を掛けてきた。
「…アーサーさん、おはようございます」
「あ、菊……お、おはよう…」
ぺこりとおじぎをした菊にアーサーも挨拶を返すが、昨夜のことを思い出してますます頬が熱を帯びる。
恥ずかしいところを見られてしまったことを思い出すとまともに菊の顔を見ることが出来なくて、アーサーが俯いてもじもじしているとアルフレッドが二人の間に割り込んだ。
「なんだい二人とも、変な顔して」
「な、なんでもない!」
否定したい気持ちに比例したのかつい大きな声が出てしまい、そのアーサーの反応にアルフレッドは訝しげに顔をしかめ子どものように頬を膨らませた。
「なんでもないって感じじゃないじゃないか。二人して俺に隠し事かい?」
「いえ、違いますよ。実は私、フローリングで寝るのに慣れないもので昨夜はあまり眠れなくて。少しご迷惑をお掛けしてしまったんです」
「え? 菊はいつも床で寝てるじゃないか」
「床じゃありません、畳です」
菊が上手くフォローしてくれたがご迷惑をお掛けしたのはむしろこっちの方で、アーサーはいたたまれない気持ちになるが、ともかく彼のおかげでこの場はいったん収束した。
「…ところでフランシスは?」
「向こうで朝ご飯の用意してるぞ」
「そうか。じゃあ手伝わないとな」
アーサーは酷い寝癖がついたままの頭でキッチンへ向かう。
中を覗き込むように顔を出したアーサーに気付くと、フランシスはフライパンの上に二つ目のたまごを落としながら、
「おはよう、アーサー。昨夜はよく眠れた?」
といつも通りに微笑って言ったが、彼の目の下にはほんのりクマが出来ていた。
昨夜のことを思えば無理もないかもしれない。
「…まぁ、ちょっと身体が痛いけどな」
「ああ、俺も痛い……やっぱ床で寝るもんじゃないよな。あ、手伝いに来たならコーヒーでも淹れてよ」
「ああ、コーヒー淹れたら毛布片づけてくる」
「じゃあそれまでに朝食の準備しておくよ」
フランシスの言葉に頷いて、使うことなく戸棚の奥にしまってあった来客用のカップを二つ取り出し、もうコーヒーメーカーに出来ていた熱いコーヒーを注ぐ。
二つのカップを手にリビングに戻ると、ミルクと砂糖を添えてテーブルに置いた。
「毛布を片づけてくるから、二人ともコーヒーでも飲んで待っててくれ」
「朝ご飯はまだかい?」
「もうすぐ出来る」
二人にそれだけ声を掛けて、アーサーは出しっぱなしの毛布をたたんで忙しなくリビングを出て行く。
アルフレッドは砂糖とミルクをたくさん入れて早速コーヒーを口にしたが、菊は床に散らばった空き缶を片付けてからテーブルにつき、コーヒーカップを手に取った。
やがてフランシスがキッチンから戻ってきて、四人分の目玉焼きと香ばしく焼き上がったトーストをテーブルに運ぶ。
いつもより多めに作ったサラダを手際よく四皿分盛り分けながら、アルフレッドと菊に声を掛ける。
「簡単なものしか用意出来なくて悪いな。パンはバターとジャムどっち?」
「チョコレートがいいな!」
「ねえよ、そんなの。ジャムで我慢しろ」
まるで家政夫のようにこまごまと食事の準備をするフランシスを見つめていたアルフレッドは、トーストにたっぷりとジャムを塗りながらぽつりと言った。
「フランシス、君に言っておきたいことがあるんだけど」
「俺に? なに」
「アーサーのことなんだけど、よろしく頼むよ。あんなんでも一応俺の家族だし、悲しむところはあんまり見たくないんだ」
「……え」
まったく予想もしていなかったアルフレッドの言葉に、フランシスは驚きを通り越したせいか酷く間抜けな表情で振り向いた。
そのフランシスの反応にアルフレッドも恥ずかしくなったのか、ジャムまみれのトーストを囓りながら続ける。
「か、勘違いしないでくれよ! アーサーがうちに戻ってきたらうるさいから、いない方が都合がいいってことなんだぞ!」
それが照れ隠しの言葉なのだということは、彼の少しだけ赤くなった顔を見ればフランシスにも菊にもすぐわかった。
きっとこうして二人が暮らす様を間近で見て、アルフレッドなりにアーサーとフランシスが付き合っているという現実を受け入れる決心がついたのだろう。
「アルフレッドさん……」
アルフレッドの発言に驚いたのは菊も一緒だ。
もっと早くここに連れてきていれば、あれだけヤケ酒に付き合わされることもなかったかもしれない……と思う一方、アルフレッドの気持ちが吹っ切れたことが菊には何より嬉しかった。
菊にしてみればそれがアルフレッドをここへ連れてきた、一番の目的だったのだから。
「心配しなくてもアーサーは俺が一生大事にして可愛がってやるよ」
「勝手にすればいいじゃないか。……フランシス、トーストもっとないのかい」
「ああ、三枚でも四枚でも焼いてやるからちょっと待ってな」
アルフレッドにはアーサーと付き合うことをあまり歓迎されていないのではないかと思っていただけに、先の科白にすっかり機嫌を良くしたフランシスは、早速席を立ちキッチンに向かう。
その浮かれた様子に呆れたように溜息を吐いたアルフレッドの表情は穏やかなもので、菊もほっとしたように笑った。
「あれ? フランシスは?」
ようやく毛布を片付けて戻ってきたアーサーは朝食の用意が完璧にととのっているのに、姿の見えない同居人を探してリビングを見回す。
「俺のパン焼いてるぞ」
「お前少し遠慮しろよ! また食パン買いに行かねーと…」
ぶつぶつ言いながらアーサーも席に着き、自分の分のトーストにバターを塗り始めた。
しばらくするとフランシスは本当に四枚もトーストを焼いてきて、アルフレッドは大喜びだがアーサーはじっとりとした視線で睨み付ける。
「ずいぶんと気前がいいじゃねえか。誰がそのパン買ってくると思ってんだ」
「だって可愛い弟が食べたいって言うから」
「誰が誰の弟なんだよ!」
アーサーとアルフレッドは綺麗にはもってそう言ったが、フランシスは 似たようなもんじゃん と意味深に笑った。
いつもはアルフレッドに対してそんなふうに言うことなんてないのに、と彼の言動に少し違和感を感じたが弟を可愛がってもらうことに悪い気はしないので、アーサーはそれ以上文句は言わずトーストに齧り付いた。
四人でフランシスの作った朝食を摂り、久しぶりに賑やかな朝を迎えたアーサーは、楽しそうにアルフレッドや菊と会話を交わす。
そんなアーサーの様子を見るのはフランシスにとっても楽しいものだったが、昨夜あまり眠れなかったこともあり、さすがに精神的な疲労はピークに達していた。
もちろん表情にはそんな疲れは微塵も出さないが、寝不足のせいか食欲もあまりなくなかなかフランシスの皿は綺麗にならなかった。
アーサーと二人きりの朝食よりもだいぶ長い時間を掛けて、テーブルの上に並んだ料理がほぼ片付くと簡単に後片付けを済ませる。
そして食後のコーヒーを飲み終えると、ふいに菊が席を立った。
「ではそろそろおいとましますね。一度家に帰って着替えたいですし、この後学校にも行かなければいけないので…」
「じゃあ俺も帰るぞ!」
「そうか……もう帰るのか」
帰り支度を始めた二人を見つめ、帰ってしまうとなるとやっぱり寂しくなるな、と思いつつアーサーはフランシスとともにアルフレッドと菊を玄関まで送り出す。
フランシスは玄関を出て行こうとする彼らの背を眺めながら、やっとアーサーと二人きりの日常が戻ってくるのだと実感して、意図せず頬が弛んだ。
二人を見送るアーサーの寂しそうな表情には胸が痛むが、彼らが訪ねてきて二度も邪魔が入ってしまったので、にやけるくらいは許して欲しい。
「二人とも、気を付けて帰れよ。じゃあ、また学校で」
「はい。お邪魔しました。長居してしまって申し訳ありません」
「いいんだ、気にしないでくれ。アルフレッド、今日の講義遅刻すんなよ」
「わかってるよ、うるさいなぁ…」
相変わらずな素直じゃない返事に なんだと、 と拳を振り上げるとフランシスに後ろから押さえられた。
その隙にバタン、とドアが閉まった瞬間、アーサーは全身から力が抜けて、たった一晩のことだったのに巨大な台風でも通過したかのようだ。
ほぅっと長く息を吐いて後ろにいるフランシスに振り向くと、彼はアーサーにだけ見せる柔らかな微笑みを浮かべて優しい声音で名を呼んだ。
「アーサー」
「……フランシス…」
アーサーはゆっくりとフランシスの目の前まで歩み寄り、少しだけ躊躇いながらも彼に身を擦り寄せる。
するとフランシスは昨晩触れられなかった分も埋めるかのように、アーサーの身体をしっかりと抱き締めた。
「アーサーといちゃいちゃ出来ないのが、こんなに辛いとは思わなかったなぁ…」
彼のこういう科白は嬉しいと思う反面、アーサーにとっては少し大袈裟で恥ずかしいものだった。
けれどこちらを見つめるフランシスの瞳は熱っぽく溶けていて、その煌めく水面のような色の双眸に見つめられると、アーサーは頭がぼんやりして何も考えられなくなってしまう。
廊下の真ん中で抱き合って、何度もキスをした。
唇を重ね合わせたまま壁に背を押し付けられ、フランシスの指先がシャツの中に潜り込んでくると、昨夜抑えた身体の熱が一気に全身を巡る。
アーサーの唇から甘ったるい呼気が零れ始めたとき、シャツのポケットに入っていた携帯からメールの着信音が廊下に響き渡った。
この着信音はアルフレッド専用に設定しているものだ。
「…、……悪い」
忘れ物かもしれないと思い、アーサーは携帯を開いて受信メールを確認するが、内容はたった一行の簡潔なものだった。
【昨日は楽しかったぞ! また遊びに行ってあげるよ】
そのメールの内容をこっそり覗き見たフランシスはもう彼らが訪ねて来られないような、どこか遠くの土地に引っ越しをしようかと一瞬本気で考えたが、苦笑いを浮かべつつ嬉しそうにメールを眺めているアーサーを見ていると、アーサーが喜ぶのならたまになら我慢しようかなぁ、と結局甘やかすような結論しか出せないのだ。
それにアルフレッドもアーサーとの付き合いを認めてくれたようだし、また今回みたいに邪魔をしに来るとは限らない。
…………多分。
なるべく良い方に良い方に考えながら、フランシスは目の前の愛しい恋人の身体を強く抱き締めた。
→Top →ex(※米日です)
もっと甘い仏英同棲話はまたの機会に。