親愛なる貴方へ。



その手を離さない
- 9 -



 ベッドから下りようとする豪炎寺を二階堂が胸に手をそえて制した。
「そうだ。待ちなさい」
 椅子から立ち、室内を見回す。目に入った棚を開けて包帯とハサミを取り出して戻ってくる。
 豪炎寺は布団を避けてベッドに座り直し、腕を差し出した。
 丁寧な手つきで手首に包帯が巻かれていく。余った箇所をハサミで切り落として問う。
「痛むか」
「いいえ」
 静かに首を振った。
「これを。響木監督が持ってきてくださった」
 豪炎寺の膝の上に制服を置く。
 着替える中、二階堂が呟くように話しかけた。
「さっき風丸くんにも言ったが、今日はゆっくり休めよ」
「あの、監督」
「ん?」
「……いけませんか」
 ボタンを留める仕種で豪炎寺は俯いた。
「泊まりに行っては……いけませんか」
「俺は構わないが。良いのか、豪炎寺」
 小さく頷く豪炎寺。
「今は、二階堂監督と離れたくないので」
「そうか」
 窓から差し込む光を避ける振りをして顔を逸らす二階堂。隠した表情ははにかんでいた。


 日は傾き、稲妻町を夕日が照らす。
 遠くで電車が通り過ぎる音がして、円堂は振り返った。
「円堂、どうした」
 先を行く風丸が呼ぶ。二人は河川敷を歩いて円堂の家へ向かおうとしていた。
「いいや。なんでもない」
 風丸を見て口元を綻ばせる。しかし、その笑みはどこかぎこちない。
「どうしたんだよ円堂」
 歩み寄る風丸。円堂の足は止まっていた。
「いや……」
「なにかあるのか」
 円堂の視線が彷徨い、意を決して風丸を見据える。
「あのな。たぶん今じゃなきゃ聞けそうに無い……」
「うん?」
「風丸、捕まっていた時に……何かされたか」
「ま、ちょっとな」
 苦味を含んだ笑みで風丸は答えた。
「……………………………」
 円堂の表情が、呆然、衝撃、沈んだものへと三段変化する。
「円堂、そんな顔しないでくれ」
「笑えっていうのか。そんなの出来る訳ないだろ」
 行き場の無い怒りさえ湧いて、円堂は顔を歪めた。
「俺は円堂に慰めてもらおうなんて思わない。円堂、俺を信じて欲しい。円堂が信じてくれれば、俺は」
「でもっ」
 円堂の手が風丸の腕を掴む。彼の震えが手を通して伝わる。
「俺は円堂、お前のものさ。それで円堂は俺のもの。誰のものにもならない」
 腕を掴む手に自分の手を重ね、握り締めた。
「な、もうおしまいだ」
 手を引いて歩き出す。円堂も足を動かし、二人は並んだ。
「風丸」
「うん?」
「好きだよ」
「ああ、俺もさ」
 手を大きく振るい、風丸は隣の円堂に笑いかける。腕を揺らされながら、円堂は目を細めて応えた。


 夕焼けの光を突っ切るように走る電車は木戸川の地へ着き、二階堂と豪炎寺は降りる。
「豪炎寺、買い物をしていこう。何か食べたい物はあるか」
「腹がとにかく減りました」
「それは大変だな。育ち盛りなのに」
 二階堂は豪炎寺の手を取り、人の群れを通っていく。
 駅前で買い物をして、二階堂の家へと向かう。ドアの前で鍵を取り出そうとする二階堂の持つ買い物袋を豪炎寺が受け取り、鍵が通されて開かれた。先に通された豪炎寺が買い物袋を置いて靴を脱ごうとした、その時であった――――
「あ」
 思わず漏れた吐息、まだ腕に引っ掛かっていた袋が落ちる固い音、ドアが閉まる音。これらが全て重なる。
 二階堂が後ろから豪炎寺を抱き込んだ。驚いて離れようとしてしまうが、身体を振り向かされ、今度は前から抱きすくめられる。布擦れの音と共に身体が締め付けられた。
「苦しい」
 胸元に顔を埋め、くぐもった声で訴える。
 背に回された手が豪炎寺の背を撫でた。
「やめてください」
 目を固く瞑る。そこからずっと懸命に堪えていた涙が滲み、頬を伝う。
 二階堂は手を下ろすが、豪炎寺は顔を埋めたまま離れない。豪炎寺の涙が止まるまで、二人は玄関に立ち尽くしていた。


 昼間もおでんぐらいしか食べなかった風丸と豪炎寺は、夕飯をたらふく食べた。
 円堂の母は“風丸くんの食べっぷりは気持ちが良いわね”とのんびりと喜び、二階堂も“たらふく食べろ”と満足するまで食べさせる。風呂で身体を流し、疲れを癒した。
 辺りは暗くなり、再び夜はやってくる。昨日は恐怖で凍えそうだった夜も今日は温かい。溢れんばかりの幸せに包まれている。


 薄暗い自室で円堂は天井を見上げて呟く。
「俺の部屋じゃ、しないんじゃなかったのか」
 円堂の視界に風丸が顔を出して見下ろす。下ろされた長い髪が胸に流れて模様を描く。
「考えが、変わった」
 二人は同じベッドに入り、風丸が円堂の身体に跨っていた。
 風丸の手が円堂の手を組んでシーツへ押し付ける。離れぬように、硬く握り締めていた。
「途中で止めたくなんかない。出来る時に、しなきゃ」
 顔を近付け、鼻の頭に口付ける。
「いや、でもさ、まずいって」
 断ろうとする円堂であったが、二人はズボンと下着を下ろして自身を曝け出していた。床には潤滑剤代わりのチューブ式軟膏が転がっている。
「こんなにして、それは無いだろ」
 身を起こし、昂った円堂自身を握って彼に見せつけた。
 風丸は深い息を吐き、慣らした己の窄みにあてがう。そうして腰をゆっくりと沈めていった。
「ふ――――っ…………」
 もう一度息を吐き、挿ったのを知らせるかのように円堂に微笑む。昼間とは異なる色を秘めて、微笑むのだ。
「円堂……」
 低く呻き、呑み込んだ円堂自身を締め付ける。
「……あ……」
 円堂が熱い息を吐き、快感に身を捩じらせる。
「風丸」
 手を組み直し、腕を引くように身体を揺らしだす。
「……はっ、……あ、あ…………」
「ん………………ん、う」
 胸で息をして、呼吸を合わせて身体と身体を重ねる快感に浸る。
 息遣いと水音、ベッドが軋むのに、なぜだか頭は冷めており静寂を感じていた。しかし熱は加速し、静から動へと変わりゆく。脳が快感で浸され、快楽をひたすらに追う。
「あ、………っん、………あっ、あっ」
 風丸は俯き、口をつぐんで声を押さえ込もうとする。その隙間から出る音は却って淫らであった。
「………風丸、………風、丸……っ」
 円堂は風丸を求め、腰を突き動かす。それでも二人の手は硬く結ばれ、離そうとはしない。互いに高め合った二人が限界に達するまで、それほど時間は要さなかった。
「……………っは……!」
「は―――――………」
 円堂自身を引き抜き、風丸はそのまま円堂に倒れこむようにもたれ、横に転がる。
 向き合い、同じ視線の高さで二人は見つめ合う。また手を組み直し、今度は指を絡めて身体を寄せ合った。
「……………………………」
「……………………………」
 整えようとする息が顔にかかる。息を合わせて目を閉じ、唇と唇を合わせた。
「円堂」
 耳元に口を寄せ、囁く風丸。
「お前の傍にいられるって、とっても気持ち良い事なんだな」
「なら、ずっと気持ち良くいよう。ずっと」
 円堂は風丸に頬を摺り寄せる。自然と笑みが零れた。やっと、風丸に本当の笑顔を見せられたような気がした。


 降り注ぐ水音。立ち昇る湯気。栓を閉めれば音は止む。
 浴室から脱衣所に上がった二階堂はバスタオルで身体を拭い、寝巻きに着替えた。首元にタオルをかけ、髪を拭いながら寝室へ入る。
「豪…………」
 先に風呂に入った豪炎寺は、二階堂のベッドで寝息を立てていた。点けられたままの明かりを落とし、音を立てぬようにベッド下に敷かれた今夜の寝床である敷き布団に入る。
「ん…………監督……」
 目を擦り、豪炎寺が目覚めてしまう。
「すまん。起こしてしまったか」
「いいえ……。監督が上がるまで待っているつもりだったのに」
「なあ、豪炎寺」
 二階堂は身を起こし、豪炎寺の手を握る。
「そっち入って良いか」
 別々に寝るように言ったのは二階堂であり、矛盾を諭すように声のトーンを落とした。
 ずれて二階堂のスペースを設ける豪炎寺。布団を上げ、二階堂は入り込んだ。
「さすがに狭いな」
「……………………………」
 顔を見合わせれば、豪炎寺は瞬かせるだけであった。
「一緒に眠りたいだけなんだ。何もしないよ」
「二階堂監督」
「ん?」
「手、握っていて良いですか」
「ああ、良いよ」
 布団の中から手を出して、顔の前で握られた手を豪炎寺に見せる。
「あの、甘えても良いですか」
「もちろんさ」
「監督、甘えるなって言うから」
「…………言葉の綾だろ」
 些細な事を気にしていた彼に困りそうになったが、そんな二階堂を見詰める豪炎寺の目はとろとろと瞼が重くなり、開かなくなっていく。
 二階堂の胸に顔を寄せ、豪炎寺は眠りに入った。
「お休み、豪炎寺」
 二階堂も目を閉じて眠りに着く。
 温もりに包まれながら、豪炎寺は思う。
 昨夜は大人の一方的な力に屈せられ、二階堂の手を、大人の手を握れるのか一抹の不安があった。
 しかし、それは思い過ごしであった。握ってくれた二階堂の手は温かく、安らぎを覚える。
 この手が二階堂だからこそ抱く心地良さがあった。愛おしさが込み上げ、幸せが心を満たす。特別な手であった。
 自分の手もまた、人にそんな幸せを与えたいと願った。
 まず、明日出会うであろう夕香の手を握り締めようと決めた。






 夜は明け、朝が訪れる。
 ぱち。顔に何かが当たって、豪炎寺は目を覚ます。手で掴んで見れば、それは二階堂の手であった。
 身を起こし、ベッドの様子を眺めれば彼の寝相の悪さを察する。
 起きる気配を見せない額に、唇を押し付けてベッドを下りた。支度を整えて制服の着替えが終わろうとする頃、漸く二階堂が目を覚ます。
「寝坊してすまない……豪炎寺は稲妻町に帰るんだったよな……」
「朝御飯、先に食べてしまいました。監督の分はそこに用意してありますから」
「何から何まですまないな。昨日はよく眠れたか」
「はい」
 頷くと、二階堂は顔を洗いに洗面所へ行ってしまう。その間に豪炎寺は玄関へ向かい、二階堂が出る頃には靴を履き終わっていた。
「二階堂監督、お世話になりました」
「また遊びに来いよ」
 中腰になって視線を合わせ、肩に手を置く。
 “はい”と返事をしようとした豪炎寺の唇は口付けによって塞がれた。離して見詰め合えば、豪炎寺の頬が少しずつ熱を持って赤らんでいく。
「その時は……お前がもし良ければ、俺はもっと近付きたい」
 近付きたい――――意味を察すれば、ますます唇は固まった。顔は火を噴きそうに、熱を持つ。
「無理はしなくて良いから」
「無理……とかじゃありません」
 大げさに首を振って否定する。
「いってらっしゃい」
「行って、来ます」
 扉を開け、豪炎寺は朝の白い光の中へ消えていった。


 そして稲妻町。円堂と風丸が二人並んで雷門への通学路を歩いていると、駅前の曲がり角で豪炎寺と出会った。
「おはよう、豪炎寺」
「おはよう」
 挨拶を交わす風丸と豪炎寺。円堂は豪炎寺と彼の来た道を交互に眺める。
「あれ、豪炎寺ってこっちだったっけ?」
「たまには違う道も通る」
 声は平然としていたが、顔は動揺を隠せず目を合わせられない。
「なあ豪炎寺。昨日、二階堂監督と話して思ったけど、優しい人だな」
「え?あ、ああ」
 風丸は狙って話題を出したのだが、豪炎寺はなぜそんな話題を出すのかと肝を冷やしていた。さらに追い討ちをかけるように、鞄の中で携帯がメール着信を知らせる。取り出してみれば相手は二階堂で、添付にかつて消させたと思っていた木戸川時代の写真が送られてきた。
「え、なんだその写真」
「ベストショットだな」
 円堂と風丸が豪炎寺の携帯を勝手に覗き込む。
「優しくなんかない、嘘吐きだ」
 携帯を閉じる手は羞恥で震えていた。
 立ち止まっていた三人を、横から鬼道が抜かす。
「おい、遅刻するぞ」
 先を行って振り返り、言い放つ。
「また練習試合を申し込まれた。油断するなよ」
 だが三人に動揺や緊張の色は無い。
「油断なんかしない」
「全力で戦うまでさ」
「そして勝つ」
 鬼道は肩を竦めて“野暮だった”と呟く。
 円堂、風丸、豪炎寺は止めていた足を動かし、歩き出した。
 踏み込む力に迷いは無い。何事にも立ち向かい、諦めない勇気を持って前に進んだ。









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