「…………………ん……」
 風丸の瞼が震え、薄く瞳が開かれる。
 ぼやける光景はやがて姿を形成し、円堂を映し出した。
「風丸」
 どこか悲しそうな顔をして口元を綻ばせる円堂。
「円堂……」
 息を吐くように名を呼び、彼に触れようと手を伸ばそうとした。
 けれども腕が上がらない。風丸の手は円堂が握り締めていた。



その手を離さない
- 8 -



 円堂は風丸の手を両手で包み込み、顔の横に持っていって語りかける。
「風丸。さっき鬼瓦さんが来て聞いたよ。影山の残党に捕まっていたんだってな」
 手を包み直し、続けた。
「豪炎寺と二人で抜け出すなんて……。ホント、無茶するよ……」
「お前が言うなよ。円堂が……」
「ん?」
 風丸の瞳が円堂を真っ直ぐに見詰め、細められる。
「円堂、いつも言うだろ?諦めるなって。お前の言葉を信じて、ここまで来たんだ」
 唇が弧を描いたと思うと、突然笑い出す。
「なんだよいきなり」
「円堂……そんな顔するなよ。笑ってくれ、円堂。俺は笑っているお前の元へ帰るつもりだったんだからさ」
 円堂は口を笑みの形にする。しかし、目はどうしても悲しみが上回って笑えない。
「おかえり、風丸。……これで良いか?」
「60点」
 風丸が身を起こし、円堂の肩口に顔を埋める。
「手厳しいの」
 握った手を離し、風丸を抱き締めた。
 抱擁は短めに終えて身体を離すと、風丸は豪炎寺の具合を問う。
「豪炎寺はどうしている」
「ほら、そこの隣で眠っているよ」
「そうか」
 円堂の指差すベッドで、豪炎寺は眠っていた。
 彼の方が疲労は大きいはず。まだ目覚めるのには時間が掛かりそうな気がする。
「皆は」
「響木監督が残っている。あと、木戸川清修の二階堂監督もいるぞ」
「……………………………」
 風丸の眉が潜められる。円堂は説明不足と察して付け足した。
「豪炎寺の元監督だから心配なんだよきっと」
「……え、ああ、そっか」
 反応を僅かに遅らせて頷く。
 あの夜に豪炎寺と二階堂の関係を知ってしまった身として緊張が走った。


 コンコン。ノックがして振り向けばドアから鬼瓦が顔を出す。
「風丸。目ぇ覚めたか。具合はどうだ」
「はい、おかげさまで」
「話がある。来てくれるか」
「はい」
 ベッドから下り、医務室を出る風丸。円堂もついていこうとしたが止められた。
「すまん。お前さんは待っていてくれ」
「円堂。俺一人で大丈夫だから」
「……わかった」
 椅子の方へ戻ろうとした円堂に、またもや顔を覗く者が現れる。
「あれ、円堂くん。刑事さん知らないかい」
 二階堂だ。室内を見回し、瞬きをさせた。
「今さっき、目覚めた風丸と行ってしまいました」
 円堂は話しながら椅子を持ち、今度は豪炎寺の元へ向かおうとしていた。
「風丸くんは起きたのか……」
 二階堂は室内に入り、流れる動作で豪炎寺の傍へ行って布団をかけ直す。その際に手首を隠しておいた。
「豪炎寺も早く目覚めると良いな」
「そうですね」
 そう言って二階堂はまた出て行ってしまう。つい一緒に残るものかと思い込んでいた円堂は、やや呆気にとられていた。






 一方。喫煙室では鬼瓦が風丸に影山の残党に捕まった経緯を質問していた。
「なるほど。狙いは豪炎寺だったと」
「はい」
「それで……ふむ……そうなのか……」
 風丸から得られた情報を手帳に取る。ウラゼウスの企みが明らかになっていく。
 そして大まかな話を終え、鬼瓦は手帳を閉じて風丸を見据えた。
「詳しい事は、今度別の日に署で聞く事になる。今聞いた話だけでも、かなりの収穫だったがな」
「はい」
「それで風丸。忍びないが、これから辛い話になる。正直に答えて欲しい」
「……はい」
 頷く風丸。辛い話が何を指すのかは、だいたい察していたので覚悟はしていた。
「残党にされたのは監禁束縛だけだったか」
「……………………………」
「何か……暴力は受けたか」
 首を横に振るう。
「その、な。猥褻行為を受けたか……」
「……………………………」
 項垂れるように頷いた。
「すまなかったな。押収物の中にまとまった数のコンドームがあってな、まさかとは……」
「…………………え………」
 風丸がゆっくりと顔を上げる。搾り出すように声を発し、その瞳は衝撃で見開かれて強張っていた。
「俺、じゃない」
「どうした風丸。落ち着け」
 鬼瓦が風丸の肩に手を置き、腕を擦ってやる。
「そんな……そんな事……」
 己を抱き締る風丸の声は震えていた。
 昨夜の出来事がフラッシュバックされる。
 今にも泣き出しそうな顔で笑って部屋を出て行って、戻ってきたと思えば死んだように眠ってしまった豪炎寺の姿を――――
 あの外の様子が聞こえ辛かった空白の時間に、彼がそんな目に遭っていたなど、想像も出来なかった。
「風丸。どういう事なんだ」
「俺たちは別々に引き離されたんです……俺は……豪炎寺が何をされたかなんて知らなくて……」
「そうだったのか……」
 鬼瓦は風丸の腕を擦り続けた。慰めてやるしか出来ない。


「……………………………」
 喫煙室の外で、硝子を引き摺るようにして座り込む影。
 二階堂が愕然とした表情で膝をついていた。自販機を背にして盗み聞きをしていたのだ。エンジン音がうるさいが、人気の無い廊下は話が聞き取り易かった。
 風丸と豪炎寺が猥褻行為を受け、豪炎寺にコンドームが使われるような行為が行われたらしい事。悪賢い探りをしてでも手に入れた真実は、あまりに過酷であった。
「あんた……」
 廊下で待っていた響木が二階堂を見つけ、前に立つ。
「いくら心配だからといって、こりゃまずいだろ。私情を挟みすぎだ」
「すみません……」
「詫びる相手が違う。風丸に謝るんだな」
「そうですね」
 立ち上がる二階堂。
 喫煙室から鬼瓦と共に出てきた風丸を呼び止める。
「風丸くん」
「はい?」
 振り返り、二階堂と風丸の視線が交差した。
 互いに潜む後ろめたい気持ちが、表情を硬くする。
「刑事さんの続きで悪いね。少し、話を良いかな」
「はい」
 二人は廊下の隅へ行き、まず二階堂が口を開いた。
「さっきの刑事さんの話を盗み聞きしてしまった。申し訳ない」
 頭を深々と下げる。対して風丸は慌てて頭を上げさせた。
 嫌悪は沸かない。そんな行動をしてしまった理由を察していたからだ。
「頭を上げてください。俺の方こそ、二階堂監督に謝らなければならない事があるんです」
 前で手を組み、指を絡ませながら言葉を選び、風丸は放つ。
「昨夜……二階堂監督にメールを出したのは俺なんです」
「……………………………」
「豪炎寺の代わりに、俺が出せと命令されて……その……。ごめんなさい」
 今度は風丸が頭を下げた。
 “ごめんなさい”の言葉が含む意味に、プライバシーへの侵入もあるのだと悟る。
「君が謝る必要は無い。仕方の無い事だったんだ」
「でも……あの……」
 顔を上げ、頭を振るう風丸。感情が昂って、言葉は頭の中で溢れ出すのに浮かんでは次々と消えていく。
「……豪炎寺は俺を庇ってくれたんです……。俺の分まで……」
「豪炎寺はそういう奴だ。君が責任を感じてしまったら、却って悲しんでしまう」
「よくご存知なんですね、豪炎寺の事」
「どうかな。よくわからないのも、豪炎寺の性格の一つだし」
 頬を掻いて苦笑いをする二階堂。風丸は安堵を覚えて表情が和らいだ。
「辛かっただろう。色々あるだろうが、まず無事に戻って来られた事が第一だ」
 背を屈めて肩を軽く叩き、目線を合わせて頷いてみせた。
「今日はゆっくり休みなさい」
「はい」
 微笑む風丸。二人は医務室へ戻る事にした。






 医務室のドアを開ければ、すぐに円堂が反応する。
「風丸っ」
「なあ円堂。俺着替えに控え室へ行こうと思う。一緒に来ないか」
 ユニフォームの上着を引っ張ってみせる。それを見て、円堂は自分もまだユニフォームのままだったと気付いた。
「わかった」
「じゃ、行こうぜ」
 風丸が円堂の手を引き、二人は出て行ってしまう。必然的に医務室は豪炎寺と二階堂の二人きりとなった。二階堂は円堂が座っていた椅子を借り、豪炎寺の傍に寄る。
「豪炎寺」
 布団に隠されていた豪炎寺の手を出して、包むように握り締めた。
 二階堂の呟きに反応したのか、豪炎寺が薄っすらと瞼を開ける。
「……………………………」
 半眼のまま、瞳を二階堂へ向ける豪炎寺。唇を薄く開き、くぐもった声で話す。
「……二階堂監督……昨日は、来られなくて申し訳ありませんでした」
「……………………………」
 小さい頷きを数回する二階堂。豪炎寺は微かに微笑む。
「何も……おっしゃらないんですね……」
「豪炎寺は自分が話す気になるまで言わないだろ」
「最近は、そうでもないんですよ」
「そうなのか。雷門に行って変わったな、お前は……」
 豪炎寺の瞳が天井へ移った。視線が自分の方へ向いていないのを伺ってから二階堂は言う。
「豪炎寺。お前まで眠って起きないでいて、どうする気だったんだ」
「……………………………」
「そんな事したって、誰も喜ばないぞ。悲しませるだけだ」
「……俺は、どこかで望んでいたんです……」
 呟くように豪炎寺は言う。
「夕香の痛みを代わってやりたい。他の誰でもなく、俺に矛先が向かう事を」
「馬鹿だな……お前は……」
 吐かれる二階堂の声は掠れていた。
「二階堂監督は、よくご存知じゃないですか」
「こんな時だけ甘えるなよ」
 豪炎寺の手が握り返してくる。
 二人の喉で笑う音が、室内によく通った。


 しばらくして着替えを終えた円堂と風丸がやって来る。
 豪炎寺は身を起こし、二人の方へ身体を向けた。
「豪炎寺。大丈夫か」
「ああ、休んで楽になった」
 豪炎寺の瞳が風丸の制服の肩を映す。脱出をする際に硝子で切ってしまった跡が悪夢を思い起こさせる。
「名誉の負傷って奴さ」
 振り切るかのように笑ってみせる風丸に、豪炎寺も口元を綻ばせた。
「鬼瓦さんが今度、署で話を聞きたいって言ってた。俺と一緒に行こう」
「ああ、わかった」
 柔らかな表情で了承する。
「俺たち、そろそろ帰るけど豪炎寺はどうだ」
「俺も着替えて帰るさ」
 豪炎寺が頷くと、風丸は間を見計らったように円堂の肩を掴んだ。
「俺、今日は円堂ん所に泊まるんだ。昨日そんな予定だったし」
「そうなのか」
「豪炎寺もゆっくりしろよ。じゃあな」
「じゃあ」
 二人は手を振って医務室を出て行く。
 すると廊下に出てすぐに、円堂が囁いてきた。
「あのさあ」
「しっ」
 風丸が人差し指を口元に添えて遮る。突っ込みなど、言わずともわかっていた。
 話している間、豪炎寺はずっと傍にいた二階堂の手を握っていた。あまりにも極自然で、うっかり見過ごしそうになるが、確かに握っていた。恐らく本人たちも忘れているのだろう。










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