俺にもちょーだい!
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沸騰した湯をポットに移し変えれば、湯気がふわりと浮かぶ。
周りを見渡せば、カップ、砂糖とミルク、菓子もが目に付き、豪炎寺は一人微笑む。
一年前。木戸川清修に通っていた頃。
この日、豪炎寺の家にサッカー部の監督・二階堂が家庭訪問をしにくる。
本来、来客への対応は家政婦のフクが担当していたが、今日は休みだったので豪炎寺が準備していた。父は仕事、妹の夕香は友達の家――――彼は一人だった。これは不運でもピンチでもない、狙い通りだった。わざとフクのいない日に決めたのだ。
理由は単純である。二階堂と二人きりになりたかっただけ。
生徒皆のものである二階堂を独り占めにしたかっただけ。
二階堂と、サッカーについて心行くまで話したかった。もっと小さい頃は両親に話していたが、母が他界して以来、父はサッカーに関心を示さなくなった。夕香はサッカーが好きだが、なにぶん幼い。話題は基礎的なものになって、本当に話したい話題が出せない。父の心情はわかるせいか無理は望めず、二階堂へと意識が向いた。
二階堂は豪炎寺の憧れの選手だけあって、サッカーは上手くて詳しくて、面白おかしく話してくれる。褒めてくれるし、指摘もしてくれる。おまけに優しいし、温かい。大好きな大好きな監督だった。
――――二階堂監督には、あの事とこの事を聞いて、それから。
豪炎寺の頭の中には、二階堂が来てくれたらなにを話すのかシミュレーションが行われていた。
ピンポーン。
インターホンが鳴る。豪炎寺はニッと口の端を上げて、玄関へと飛んでいった。
扉を開ければ、スーツ姿のいかにも先生という格好をした二階堂がいる。
「いらっしゃい、二階堂監督」
「やあ豪炎寺」
笑いかけてくる二階堂に、豪炎寺の胸は期待でいっぱいになった。
「か、鞄、持ちますねっ」
「え?いや、ちょっと待ちなさい。鞄は必要だから」
奪われそうになる鞄を慌てて抱きかかえる二階堂。
「すみません」
浮かれすぎて、おかしな行動をしてしまった豪炎寺は己を恥じて赤面する。二階堂がいつものジャージではないせいで、余計ミスをしたという思いが強くなる。
「謝るなよ」
二階堂は頭を撫で、慰めた。訪問した早々、落ち込んでしまった彼を元気付けようと、身を屈めて、そっと耳打ちに冗談を吐く。
「まるで奥さんみたいだったぞ」
「!」
吃驚してはじかれたように顔を上げ、目を丸くさせる豪炎寺。
期待で膨らんだ胸がどくどくと鼓動を急激に速めた。
そんな豪炎寺の視線を温かく見下ろしながら、もう一度頭を撫でる。落ち着いたように息を吐く豪炎寺に微笑みかける。
「さて、今日は合宿についてのプリントを渡して説明をしたいんだが、その……家政婦さんで良いのかな?」
二階堂は豪炎寺の家庭環境を理解しており、家政婦の名を口に出す。
「いえ、フクさん……家政婦さんは今日いません。俺一人です」
「今日はまずかったか?」
「俺ではいけませんか?サッカーは俺がやっているんですよ」
「わかった。先生の話を、後でお父さんにちゃんと言うんだぞ。念のためにメモも残しておこう」
「はい」
豪炎寺は落ち着いた返事をするが、内心二人きりになるのが成功してとても喜んでいた。
二階堂の手を引っ張るように居間へ連れて行き、ソファに座らせて紅茶と茶菓子を側のテーブルに置く。
「どうぞ」
「豪炎寺、そんな気を遣うなよ」
二階堂の隣に腰掛け、彼が紅茶を飲んでくれるのをじっと待つ豪炎寺。
カチャ。陶器の音を鳴らし、二階堂がカップを口元へ運び、紅茶を含んだ。
「うん、美味いな。豪炎寺、美味いよ」
「有り難うございます」
はにかみながら、豪炎寺は幸福な気持ちになった。
「じゃあ。話、いいか?」
「はい」
二階堂が鞄からプリントを取り出し、豪炎寺に説明を始める。
説明はシンプルに済ませ、二階堂は保護者宛の補足事項をプリントに付け加えた。それから豪炎寺はサッカーの話題を出し、はしゃいだ彼の表情に真意を悟った二階堂は困ったものだと思いながらも、憎めず耳を傾ける。
和やかに時間が流れる中、不意にインターホンが鳴った。
「夕香か?」
豪炎寺は立ち上がり、二階堂に軽く頭を下げてから玄関へと向かう。
相手の顔を見るなり、豪炎寺の目は驚きに見開かれる。
「よお、修也!」
サッカーボールを脇に抱え、親しげに挨拶をする少年。彼は豪炎寺真人、豪炎寺の従兄弟であった。
「真人、なんでここに?」
豪炎寺の顔が予想外の事態に熱くなり、冷えていく。
「なんでって、たまたま近くを寄ったから。なぁ、時間ある?暇ならサッカーやろうぜ」
ボールを前に出し、ニッと笑う。ボールの汚れ具合で、ここへ来るまで蹴ってやってきたのだとわかる。彼は親に道路で蹴るのをやめるように注意されているはずなのに、一向に改善が見えない。そんな性格から、なにも連絡なしに家にやってくる事が多々あった。
「今日は用事あるんだ。家も俺一人だし、留守に出来ない」
「え?フクさんも夕香ちゃんもいないのか?」
「そうだよ」
「そっかー。せっかくさ、二階堂選手に鍛えてもらってるっていう修也の腕を見せて欲しかったんだけどな。自慢できんのも今の内だぞ、俺だってさ」
冷めた熱が羞恥で再び上がる。
状況が状況だからか、恥ずかしくてたまらなかった。
真人の言う通り、豪炎寺は自慢していたのだ。元日本代表選手の二階堂が監督なんだぞ、と。二人とも二階堂のファンだった。優越感に浸りたい気持ちが、真人相手にはストレートに表れた。それが、最高のタイミングで最悪の裏目に出てしまった。
「ま、いいや。なー喉渇いた。ジュースくらいいいだろー。良い子のお留守番は、お客様にジュースと菓子と漫画をもてなせー」
今日この時ばかりは真人の相手などしていられないというのに、どうして面倒くさい真似をしてくるのだろうと心底うんざりする。
「わかった。わかったから、ちょっとそこで待ってろ、な」
靴を脱ごうとする真人を、手を前に出して制しながら豪炎寺は二階堂への言い訳を頭フル回転にさせて考えだす。
ところが――――。
「大丈夫か?豪炎寺」
二階堂がひょっこりと頭を出してきた。
なかなか戻って来ない豪炎寺を心配して様子を覗いてきたのだ。
「かっ…………!」
「二階堂選手だ!!!!」
豪炎寺が口を開き、二階堂の名前を呼ぶより早く、真人が二階堂の存在を知って豪炎寺を押しのけてボールまで押し付け、玄関に上がられてしまった。
「二階堂選手ですよね!!あの、俺、豪炎寺!いえ、豪炎寺真人っていいます!修也の従兄弟です!!」
二階堂の元までやってきて、目をキラキラさせて自己紹介をする。
「あ、ああ!豪炎寺、……のか。うんうん、二人とも従兄弟だけあって似て」
「似てません」
二人声を揃えて否定した。
真人はズボンで手を擦り付けてから、二階堂に差し出す。
「あの!握手、してください!」
「うん、いいよ」
「…………サインとか、駄目ですか?」
「いいよ」
「やったー!」
無邪気に喜ぶ真人。けれども豪炎寺がやってきて注意をする。
「真人。二階堂監督は遊びで来たんじゃないんだぞ」
「まぁまぁ豪炎寺。真人くんはサッカーやるのか?」
「はい!修也より超強いですよ!」
「ほー、そりゃ凄いなぁ」
感心されて、真人は上機嫌だ。
対して豪炎寺は面白くない。せっかくの二人きりの時間を邪魔され、しかも真人“くん”なんて呼ばれて。胸は期待から、むかむかとした苛立ちへと変化して、嫌な気分だった。
仕方なく真人も居間へ連れて行くと、彼は目ざとく二階堂の為に用意した菓子に気付く。
「これ、食べていい?」
「二階堂監督に聞いてくれ。監督に出したものだ。それと、ジュースでいいんだろ」
「あ、待って。俺も紅茶がいい」
「…………わかった」
豪炎寺は真人分の紅茶をトレイに乗せて持っていくと、彼はさっきまで豪炎寺が座っていた二階堂の隣に座り、ちゃっかりと許可をもらって菓子を食べていた。
「ほら、真人」
「うん」
受け取った真人の飲み方はやや品性に欠けるもので、ずず、と啜る音が妙に気になった。
「うわ、熱っ。苦っ」
「はは。真人くん、ほら砂糖あるぞ」
「はーい」
初対面だというのに、すっかり真人と二階堂は打ち解けている。本当に、どこまでも豪炎寺は面白くなかった。ムスッとした顔で二階堂を挟んだ反対側に座る。
豪炎寺の横で、真人は豪炎寺が聞きたかったサッカーの技術に関しての質問をしている。
二階堂は豪炎寺を気にして話を振ってくれるが、機嫌が悪くて素直になれない。
楽しかった気持ちがどん底まで沈んでいる。
なんでこんな目に遭うんだろう。
早くこの嫌な時間が過ぎ去るのを、豪炎寺は望んでいた。
「あ」
偶然、突き出た肘が二階堂にあたってしまう。
「ごめんなさ」
詫びようと振り向いた視線の先で、二階堂の身体が傾く。打ち所が相当クリーンヒットだったのだろう。
「あ、いや。だいじょう」
二階堂の身体は傾いていき、真人が押さえて止めてくれるが、真人にあたって止まったのも同然だ。
真人の伸ばした手は緩く、彼の顔に二階堂の顔があたっていた。彼の唇は、二階堂の頬にあたっていた。豪炎寺の視界からは見えなかったのだが、真人がご親切にも告げてくれる。
「二階堂選手とキスしちゃった〜」
「すまんすまん」
「サインよりお得かも。なんて」
「はは」
真人が明るく返してくれたおかげで、気まずい雰囲気は逃れられた。しかし、あくまで雰囲気だった。
キス、という二文字に豪炎寺の胸がぎゅううと締め付けられる。たった二文字の、有り触れた言葉に、だ。
二階堂とキスをしたいとは思わなかった。
好きは好きでも、愛だの恋だのの感情ではない。
嫉妬というより、楽しみとプライドを崩された気持ちが強い。
偶然が偶然を呼び、豪炎寺の胸に小さくも熱く滾る炎を点した。
月日は流れ、豪炎寺は二年生になった。
あれから彼は夢にも思わない運命の荒波に揉まれ、木戸川から稲妻町の雷門へ転校し、宇宙人の野望を打ち砕いた最強チームのストライカーとなっていた。仲間たちと導いた平和の世界の中で、穏やかな学園生活を過ごしている。
二階堂の元から離れてはしまったが、二人の絆は薄まる事無く、より深く、濃密になっていた。
とある休日。豪炎寺は自室の鏡の前で服装を正しては、向きを変えて、どこかおかしな所はないか確認していた。
机に置かれている携帯は開かれており、画面はメールで差出人は二階堂。待ち合わせについての返事が表示されている。豪炎寺と二階堂は都合の合う時に予定を組んで出会っていた。それは監督と生徒ではなく、もっと特別な関係としてだ。一度引き離された二人の絆は、超えてはならない一線を超え、誰にもいえない関係となった。けれども本人たちは幸せであり、不満があるとすれば二階堂が豪炎寺を子供だからと進展をさせてくれない事くらいである。
支度を済ませたら、駅で二階堂と待ち合わせをして二人でドライブをする予定を立てていた。進展はまだ望めないが、二人で一緒にいるのはとにかく楽しい。まだ時間は早いが、外に出ようと鞄を持った時、扉をノックされた。
「お兄ちゃん。夕香だよ」
「入っていいぞ」
夕香も豪炎寺同様、運命の荒波に放り込まれたが、無事回復して元気に生活をしている。
「わー、お兄ちゃんカッコいいね」
兄のおめかしに、妹は感嘆の声を上げた。
「またお出かけ?」
「ああ。帰りは夜になるな」
「そっかー」
夕香は少しだけ残念に言う。あくまで、少しだけであった。
兄妹は互いにそれぞれの苦難を乗り越えたせいか、今は互いのやりたい事に対して正直になっている。夕香もよく友人たちと遊びに行いって家を開ける事が多い。
「さっきね、真人くんから電話があってウチに夕飯食べに来るって。お兄ちゃんに会いたがってた」
「後でメール出しておくよ。サッカーバトルしたがっていたからな。そうだ夕香、お土産リクエストあるか?」
「うん、甘いお菓子か可愛いの!いってらっしゃい」
夕香に手を振ってから家を出て、豪炎寺は駅へ向かいながら真人へメールを出す。
駅前商店街に入れば見慣れた車を見つけ、歩調を速めようとした彼の肩を何者かに引き止められる。
「よお、修也!」
そこにはサッカーボールを脇に抱え、親しげに挨拶をする少年・真人が立っていた。
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