お前の存在が。
お前の幸せが。
お前の笑顔が。
こころのあかり
- 3 -
すう。と、鬼道は息を呑む。
彼女を押さえつける者も緊張に口を閉ざした。
そして、彼女の足にカッターを突きつける男は、怖い目つきで刃の先を睨んでいる。
どんなに顔が狂気に歪んでいるのか。恐らく本人は気付かないのだろう。
汗に滲んだ手でカッターを握り締め、少しずつ――ほんの数ミリずつ――手の震えの分だけ。カッターをもう一度、微かにずらして沈めていく。
切っ先が、柔らかい肉の弾力を持って、神経の集中された痛点へ触れる。
薄い皮が裂けて、肉へ到達した。
「……っふ」
鬼道が吐息を漏らす。刺される痛みに、ゴーグル越しの瞳を細めた。
「く」
歯を食いしばる。裂け目から血液が滲み出て薄く広がっていく。
もっと深い痛みに耐えようとするが、刃は上げられた。
「くそっ」
男は急に立ち上がってカッターを床へ投げつけ、ズボンに手を擦り付けて汗を拭う。まるで急性蕁麻疹で掻き毟るような姿だ。彼が発する苛立ちの気をビリビリ感じた。
「くそ……」
背を屈め、カッターを拾い上げて、再び鬼道の前に座る。
握り締めて――足へ狙いを定める――だが、震えて思うように集中できない。足など線のような細さでもないのに。
「っくしょう!」
「おい!」
周りの男が声を上げた。鬼道も目を丸くさせる。
カッターを握った男は、事もあろうか自分の太股に突き刺しだのだ。黒い学生服のズボンが濡れていく。
「気でも違ったか」
「いや……」
聞こえるほどの呼吸を荒げ、カッターを抜いて顔を上げた。
「これで落ち着いた……」
刃を持つ手を高く上げて、一気に振るい下ろす。
「落ち着いた!」
先程傷付けた、鬼道の傷口へと突き刺す。
「ああ!」
鬼道の全身が震えた。
「まだまだ!」
数回突き刺し、止めとばかりに刺した所で手を止める。
「くう……ふう……っ……」
鬼道の額に汗の滴が浮かぶ。虚ろな瞳で足を見下ろしていた。目の周りにも汗を掻き、まるで涙のように睫毛を濡らす。
脳天を突き抜けそうな痛みは、頭で思考を拒否して麻痺する。
何度も傷付けられた足は血で汚れ、内出血も起こして足自体が赤くなっていた。
「痛いか」
問いに鬼道は呟くように言う。
「気は済んだか」
男は刺さったカッターを横に揺らす。
っふ、という吐息が鬼道の口から漏れた。
「痛いかって聞いてる」
「なあ、もう……」
鬼道ではない声に男は周りを見回す。彼女を押さえ付けていた共犯者たちは、見ていられないといったように目をそらした。
「だらしねえな。なあ鬼道さんよ、あんたはあいつらみたいに腑抜けた真似しないでくれよ。それでどうだい、痛いかい」
「……さっきから……意味のない問いだと、私は思う」
「なに?」
ひくりと瞼を震わせる男。周りの者たちは空気の危うさに鬼道から離れる。
「もし……だ。痛いと言えば……お前はやめてくれるのか……。恨みは……晴れるのか」
「鬼道さんの知ったことじゃないでしょう」
「そうだな。私から言わせれば、やめまいと恨まれようと、私は戦う」
く。男の口から、舌打ちと息の混じった音が出る。
「なんなんだよ!どこまでもてめえは!」
カッターから手を離し、鬼道の両肩を押さえつけて床に倒す。
「舐めやがって!暴力だけだと思ってんなよ!」
襟を両手で掴み、引き裂いた。肌が露になり、下着が見える。
けれども鬼道は動じず、男を射抜くように見上げるだけ。周りの者たちもただ見詰めるだけ。
男は自分一人だけが衝動的に荒れる事態に羞恥がこみあげた。
しかし、そんな恥ずかしい思いをさせたのは誰かと責任転嫁すれば、全て矛先は鬼道へ向かう。
「お前、滅茶苦茶にされて殺されるかもしれないんだぞ!妹が安全だったらそれで良いのかよ!」
「愚問だ」
静かに、だがはっきりとした口調で鬼道は放つ。
「これは、私の自業自得だ。何が起きようと、私が撒いた種に過ぎない。春奈は、春奈が生きてさえいてくれれば……私は……私は構わないんだ……」
声は細くなっていき、最後、微かな震えが耳に届いた。
「く」
男の鬼道の衣服を掴む腕がぶるぶると痙攣し、彼は床に拳を叩きつける。
その腕で身体を支えるように立ち上がった。
「行くぞ」
「え」
「帰る……」
男は階段を下りていき、仲間たちは彼を追って去っていく。階段を靴が鳴らす音が遠くなっていき、やがて静寂が訪れる。
「…………………ぐ………」
鬼道は低く呻いて身を起こし、足に刺さったカッターを引き抜いた。おぼつかない足取りで音無の前に歩み寄り、彼女を縛り付ける縄を切っていく。
「おねえ……っちゃん……っ…………」
音無の顔は真っ赤にさせて涙でぐしゃぐしゃになっており“う、う”と喉を鳴らして泣いていた。
「春奈。すまないな、痛かっただろう」
赤く色付いた縄の痕を優しく擦る。
「お姉ちゃん!」
拘束が解けると、音無は鬼道に抱きついた。姉はよろけて尻をつき、妹もつられて床に膝をつく。
「……お姉ちゃん……どうして逃げなかったの……。酷いよ……あんまりだよ……」
鬼道の無残な姿を間近で見て、音無は大粒の涙を零して床に染みを滲ませた。
「春奈」
音無の涙に鬼道は困った顔をして手を伸ばし、彼女の頬を濡らす涙を拭う。
「どうした。どこか痛むのか」
「違うよ。痛くないよ、全然、痛くないよ」
鬼道の肩口に顔を埋め、歯を食いしばって泣く。声は抑えられるのに、涙はとめどなく溢れた。鬼道は彼女が泣き止むまで、背を撫で続けた。
いくらか落ち着いた音無は鞄からタオルと水が半分入ったペットボトルを取り出す。
「あくまで応急処置だけど。ジュースじゃなくて良かった」
タオルに水を染み込ませ、鬼道の血を拭う。
「いた」
痛覚が戻ってきたのか、鬼道は痛そうに目を瞑った。
「我慢して。あと、服も直して。お姉ちゃんは女の子なんだよ」
「わかった」
肩を縮ませて、ボタンを留める。
血は拭けるが傷はどうしようもない。鬼道は財閥の娘、このまま帰れば大事になる。
「ねえお姉ちゃん、こんな姿で帰ったら大騒ぎになるよ」
「だが仕方ないだろう」
「あの、ね。私からの提案なんだけど」
鬼道の傷口から視線を彼女の顔へ移し、上目遣いで見詰めた。
「今日、私の家に泊まらない?」
「………………………え?」
ゴーグル越しの瞳が素早く瞬いた。
「その、良いのか」
「うん。友達を泊めるって事で。本当の事は気を遣わせちゃうし。お父さんお母さんや、お姉ちゃんにも」
「……わかった。友達、か」
「うん、友達」
視線を交差させる姉妹は、なんとなくはにかむ。
廃ビルを出た二人はまず仲間に音無の無事と鬼道家・音無家に泊まりの連絡をし、薬局で必要な治療道具を買う。次に適当な場所で鬼道の傷を消毒して薬を染み込ませたガーゼをあてて包帯を巻く。最後に音無の家へ向かった。
「ただいまー」
玄関に入ると、音無の母が迎えてくれる。
「お帰りなさい、春奈。遅くて心配したわ」
「ごめんなさい」
「その娘が、貴方のお友達ね」
「うん」
音無が横に動き、鬼道が一歩前に出た。
「初めまして、おば様。春奈さんと仲良くさせていただいています、鬼道と申します」
深々と頭を下げる。音無は焦って鬼道の背を叩き“お姉ちゃん”と言いそうになって自分の口を塞いだ。
「あ、あら、こちらこそ鬼道さん。どうぞ上がってくださいね」
「お邪魔します」
靴を脱いで上がるなり、音無が腕を強引に引っ張って自室へ連れて行こうとする。
音無の母は“彼氏みたいな挨拶ね”と、のんびりと呟いた。
自室に入るなり、音無は鬼道の胸の上をぽかぽか叩く。
「お姉ちゃんの馬鹿っ。変な挨拶しないでよっ」
「変?どこが変なんだ?」
「もうちょっとフレンドリーにして。と・も・だ・ち・なんだからっ」
首をかしげる鬼道であるが、妹が怖いので頷いておいた。
音無の家族と鬼道は四人で食事をし、風呂に入って音無の自室へ戻る。ちなみに鬼道は音無よりパジャマを借りた。
「春奈。私はベッドの横で眠らせてもらっても良いか」
「え?予備の布団ないよ」
音無はベッドに座り、足をぱたぱたさせて続ける。
「一緒に寝ようよ、お姉ちゃん」
「さすがにそれは……。私たちはもう小さくないんだから」
「ねえ、良いでしょ」
「……………………………」
妹にお願いされれば、断れない。
姉妹は同じベッドに横になり、音無が明かりを消した。
目を瞑り、眠りに入ろうとする中、背中合わせの音無がそっと呟く。
お姉ちゃん、ごめんなさい――――。
鬼道は喉を鳴らすだけであった。
翌日、医者へ行き容態を問う。しばらくは運動をするなと告げられた。
だが数日後に行われる練習試合、鬼道はグラウンドへ立つ。足に包帯を巻き、走りはしないが適切に仲間へ指示を送る。彼女は戦うという意志を曲げなかった。
さらに数日後、雷門中の体育館裏へ続く道に行こうとする音無の姿があった。途中、鬼道が走ってきて腕を掴む。
「春奈」
「お姉ちゃん……」
「また、選手を探しに体育館裏か」
「そうだよ」
春奈は口を尖らせて構えた。仲直りはしたばかりだが、またもや姉に対するわだかまりが蘇ってくる。
「止めろって言ったって、今度は駄目だよ」
「わかった」
「え?」
音無は目を丸くさせ、大きな瞳をぱちくりさせた。
「一緒に行こう」
「それなら、良いけど」
鬼道は捉えた腕を離し、手を握る。少々恥ずかしいが音無は握り返した。
体育館裏へ仲良く入っていく姉妹。さっそくいかにも助平そうな男が音無をナンパしだし、完治した鬼道の上段回し蹴りが男の頭に炸裂する。
「お姉ちゃん!暴力は駄目だよ!」
「春奈!お前は黙って尻を触られる気か!」
「まだ声をかけられただけでしょ!」
姉妹喧嘩のゴングも鳴った。
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