幼い頃、父と母の死を聞かされた。
春奈は涙と鼻水を流して、わあわあと泣いた。
あの子の顔を拭こうとポケットに手を入れたけれど、何も無かった。
泣けもせず、慰めも出来なかった私は一つの決意をした。
春奈が泣かなくてもいい世界を作ろう。
涙は拭いてやれなくても、全てをかけて春奈を守ろう。
私が姉で春奈が妹というのが、残された家族の絆。
その為ならば、鬼の道すら通ろう。
こころのあかり
- 2 -
鬼道の瞳が男たちを見据える。
「お前たちの気の済むようにしろ。憎らしいなら殴るなり蹴るなりすれば良い」
「嫌だなあ鬼道さん。それじゃ俺ら悪役じゃないですか。バラバラの学校に転校するはめになって、一つの目的でやっと集った俺らですよ」
中央の男が肩を竦めて両手を上げ、鬼道へ歩み寄った。
近付くと、顔から足、そうして顔へと鬼道の全身を眺めて放つ。
「それに、女の子がこんな場所でそんな事言っちゃいけませんよ」
さらに顔を覗き込み、笑いかけた。
「こうして見ると、結構可愛らしい顔をしているんですね」
「……………………………」
鬼道は表情を変えず、ただじっとしている。
そこには恐れはなく、感心さえも映っていない。
男は笑顔の下で拳を握り締め、震わせる。
「ですがね」
笑うのをやめ、氷のような鋭い表情に変容した。
「帝国学園に敗北して、我々は学びました」
胸倉を掴み、睨みつける。制服のリボンを止めていたボタンが微かな音を立てて片方外れる。
「お前ら帝国を女として見るのは馬鹿げた甘さだと」
「どうなっても構わない、殴るなり蹴るなりしろと言うなら、その通りにしてやる」
もう片方の手を上げ、拳を握って頬を殴りつけた。
硬い骨の音がして、鬼道は数歩よろけて後ろへ下がる。
「う」
鬼道は反射的に頬を手の甲で拭う。熱を持っており、時間が経てば痣へと変化するだろう。
「一発なんて言っていない」
男は鬼道の頭を掴み、腹へ膝を打ち付ける。たまらず彼女は床に転がった。そこをすかさず蹴りつけられ、腹を押さえて蹲る。
「お姉ちゃん!」
音無は青ざめ、急に熱を灯して涙を溜めた。
「私の事は、構うなと、言っただろう……!」
床に頬を擦り付けて咳き込み、苦痛に顔を歪めながら肘に力を入れて半身を起こす。
ガツッ。鬼道の手の横に男はわざと音を立てて足を置いた。そうして後ろを振り向き、他の男たちを見やる。
「なあ、俺だけじゃもったいないだろう」
「俺は結構です」
「俺も」
手をぱたぱたと振って拒否をする男たち。
「なんだ。つまらん奴らだな」
誘った男は話しながら足を軽く浮かせ、鬼道の手の上をやんわりと踏みつける。
痛みを与えないように、恐怖と緊張だけを与えるように。
「本当にやらないのか。何の為に集ったと思ってる……」
手の甲に触れるだけの足が重みを増し、痛みを走らせる。
男は苛立ったように仲間へ刺々しい視線を送るが、彼らは気付かず何か別のものを見て声を上げた。
「おお……」
「これは……」
「一体、どうした」
首を伸ばし、興味深そうに問う。
「これですよ、これ」
男の一人が良く見えるように持ち上げて揺らす。それはメモ帳だった。色からして女物――恐らく音無のものだ。
「何やってるのよ!」
音無が高い声を上げるが“僕たち女の子の持ち物に興味あるんでーす”と下品に笑い、相手にしてくれない。
「これによると、近々雷門は練習試合を行うらしいですね」
「へえ、熱心だな。…………ねえ?」
男の視線が鬼道を見下ろし、目を細めて笑いかける。
「帝国のお仲間が入院で動けない中、貴方は公式試合以外も元気にサッカーですか」
「どう思われようとも、私は戦う」
「高潔な人だ。貴方がどう思おうと勝手ですが、貴方の意志にどれだけ踏み潰された者たちがいるのか……」
男の言葉に、鬼道の写真を撮った男が呟くように放つ。
「なら、犠牲を増やさないようにしないと」
「そうだな……」
唇が歪み、弧を描いた。
「もう私は犠牲を生むようなサッカーはしない」
男が足を上げ、鬼道の手を容赦なく踏みつける。
「がっ……!」
痛みに頭を垂れる彼女の髪を掴み、顔を向けさせた。先程、叩いた頬に痣が浮かび上がっているのが見える。だがゴーグル越しの瞳に絶望の色は無く、ぎらぎらとした生命を感じさせた。
その輝きに別次元の人間なのだと、到底敵いはしない相手なのだと思わされる。だがしかし、どうにかして彼女の心を折らねば気が済まない。ここにはその手段が溢れている。なのに、だ。仲間は使えず、自分自身でさえ完全に狂気へ走りきれない中途半端な位置に留まり、自身への怒りがくすぶっていた。
けれども解放させてくれる一言を、仲間が放ってくれたのだ。
“犠牲を増やさないように”と――――。
自分のエゴを正当化させ、尚且つ相手を思うという美しさへ昇華させてくれた。
「鬼道さん」
「……………………………」
瞬きする度に男の瞳の温度が下がっていく。
「信頼というものは積み重ねてこそ意味を成すものです。貴方の言葉に嘘偽りがなくても、我々は貴方を信頼するだけの土台が無い。帝国の卑劣なプレーで新たに傷付く選手がいるかと思うと大変心苦しいのですよ」
男が捉えていた手を離して軽く上げ、仲間に指示を出す。
「おい、カッターを持ってこっちへ来い。こいつを押さえつけろ」
「へーい」
先程、鬼道を殴るのは拒否したくせに、カッターを持ってくるのは受け入れる男たち。とうとう音無が耐え切れずに叫んだ。
「お姉ちゃん!私の事はいいから逃げて!お姉ちゃん!」
「出来るか!」
音無と同じくらいの音量で叫ぶ鬼道。
「ですよね。出来るわけ無いですよね。一人残された妹ちゃんが何をされるか」
男たちが口を挟む。ニヤニヤとした笑いは不快を通り越して、心無い残酷なものに映る。
「押さえろ」
複数の手が伸びて、鬼道は後ろから羽交い絞めにされ、足を伸ばした体勢で押さえられた。さすがに鬼道の顔に変化が表れて、音無に対してではなく自身に対して緊張に強張る。けれども抵抗の声は出さず、唇は硬く紡がれていた。
「そう難しい顔しないでください。選手生命を奪おうって程、鬼でもないので」
男は安心させるような口ぶりで、仲間から受け取ったカッターの刃を出す。
「数試合、出させないだけですよ」
「世宇子の試合にも出られなくなったりして」
「それは……ご愁傷様としか……」
視線を合わせて言葉を交わす男たち。これから起こる狂った宴に笑いを押し込めて唇だけを歪めている。彼らは何度も笑いを堪えていた。ただのからかいだと思っていたそれは、彼らが極限で保っている最後の理性のような気がして来た。
「さて」
しゃがみこみ、鬼道と視線の高さを合わせようとする。
カッターの刃を横に倒し、足の肌に置いた。冷やりとした感触がして、やがて触れているそこだけ金属になってしまったかのように固まる。
「足はサッカー選手にとって命だ。足の大切さはサッカーをやっていた俺たちはよくわかっている」
刃を浮かせ、今度は立たせて置いた。置くだけでは傷はつかないが、鬼道の脳裏に裂かれた足のイメージが過り、後頭部に悪寒が走る。
「大事なものは大事な程、守りたくなる。守りたい気持ちが強くなると、神経がぴりぴりする。神経がぴりぴりしすぎると、どうにでもなれって思う。俺たちは帝国から居場所を取られて、そんな気持ちを一通り味わったつもりだ。回り回って、貴方に復讐がしたくなった。いけないなんてわかってる。だけどさ…………」
声を発さず、唇だけを動かして続けた。
もう、どうにでもなれ。
「っ」
鬼道の瞼が震えて、細かく瞬きされた。
密かな力を持って、刃が下へ押されたのだ。
カチッ。プラスチックと金属の混ざった音を立てて上げられるカッター。
引き締まった、健康的かつ柔らかそうな色白の肌に、小さな小さな赤が浮かび上がり少しだけ大きくなった。
→
←
Back