女川訪問
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放課後練習の終わった木戸川清修の部室。
制服に着替えた一年の女川は適当な椅子に座り、お洒落を始める。
眉をチェックし、色のついたリップを塗り、指にはマニキュア――さも楽しそうに唇が弧を描く。
彼女はお洒落が好きで、ブランドの服や化粧に詳しく、いつもこうして運動を終えると自分を着飾るのだ。
「あ、それ可愛い」
茂木が後ろから女川の爪を覗く。
「見ても良い?」
「ええ」
女川が返事をすると、茂木がマニキュアの器を顔の前に持って眺める。
二人が雑談を交わしていると、入り口の扉がノックされた。向こう側から男性の声――監督・二階堂が話しかける。
「お前ら、着替えは終えたか」
「はーい!」
「入るぞ」
「はい!」
二階堂が扉を開けて入ってきて、明日の練習の大まかな説明をした。彼も選手と同じようにジャージからスーツに着替えている。
説明を終えて部室を出ようとした二階堂を女川が呼び止めた。
「監督」
振り返る二階堂は眉を潜める。女川は足を組んでおり、色の白いむっちりとした太股を曝け出していた。
「こら。行儀が悪いぞ」
「監督、どこ見てるんですか」
足をお行儀良く正し、スカートを引っ張って腿を隠す。こうして女川はよく二階堂をからかっていた。
いつもの事なので二階堂は反応しない。
「用が無いなら行くぞ」
「あ、待ってくださいよ。あの、監督、そのネクタイどこのですか?」
「ネクタイか?」
思わず持ってみて、どこのメーカーか確かめようとする。読み辛い名前で返答に困惑した。
「えーと、これは……」
「監督のネクタイって地味なの多いですよね。今度、選んであげましょうか」
「先生はこういうのが気に入っているんだよ」
「そんなだから彼女出来ないんですよ」
「…………余計なお世話だ」
女川の頭に軽く手を乗せる二階堂。
「あの、監督」
「まだ何かあるのか」
「監督は一人暮らしなんですよね。あそこの……名前忘れましたけどマンション」
「そうだよ」
「帰ったらずっと一人ですか」
「ああ」
「ふうん」
足の下に手を入れ、ぶらつかせる女川。
「先生はそろそろ行くぞ」
「はい、さようなら」
「あと」
二階堂は女川の足――の下の手を指差す。
「爪。あまり頻繁に塗るなら没収するぞ」
「はーい」
背を向けて部屋を出て行く二階堂。彼がいなくなった後で傍にいた茂木に声をかける。
「茂木先輩」
「ん?」
「最近、二階堂監督ってスーツの着方変わりましたよね。形が整ったというか」
「え?そう?」
きょとんと瞬きする茂木。
「変わりましたよ〜。あれはね、絶対女が出来たと思うんですよ」
監督に女?女川の発言に注目する木戸川部員。
「監督、いないって言ってたよ」
「あれはタテマエですってば。私の勘、結構当たるんで」
カラカラと笑う女川に茂木も他の部員も“どうだか”と半信半疑であった。
室内の雰囲気で“信じていない”という空気が伝わる。信用のなさにガックリと来る女川であるが、謎の闘争心が胸の内で揺らめきだしていた。
その日の夜。二階堂の住むマンションの一室のインターホンが押される。
「はい」
ろくに訪問者を伺わずに扉を開いてしまう。相手を見るなり、二階堂の顔が引き攣った。
「二階堂監督。こんばんは」
前で手を組み、可愛らしい声で挨拶をするのは女川であった。
「なんだ一体。もう夜だぞ」
「今夜、泊めてもらおうと思いまして」
「………………………………」
扉を閉められようとする所を、女川は身体を割り込ませて防ぐ。
「さっさと家に帰りなさい」
「家に帰りたくないんです。友達の所じゃバレるし」
「ご両親と喧嘩でもしたのか。きっと心配しているだろうから、帰りなさい」
「心配なんてしてませんよ。監督が泊めてくれないなら、野宿しかないです」
「おいおい」
さすがに年頃の娘を外で寝かせるのは放っておけない。二階堂の扉を持つ手が緩んだ。
すると隙をつかれて玄関に入られた。
「誰にも話しませんから、お願いします」
「………………………………」
はぁ。大きな溜め息を吐く二階堂。どんな言葉を並べても効果は無いだろう。
「大人しくするんだぞ」
「はい」
ころっと笑顔になる女川に先が思いやられた。
「お邪魔しまーす」
靴を脱ぎ、居間に入る。
中年男性の一人暮らしの割には二階堂の家は綺麗に整理されていた。
「意外と綺麗なんですね」
「意外とは失礼だな」
二階堂が横を通り、台所へ入っていく。女川は手を洗いに洗面所へ向かう。
蛇口を捻って水を出して手を洗いながら、なんとなく正面の鏡を眺めた。側には歯磨き用のコップと歯ブラシが置かれている――――。
「あれ」
思わず声が出ていた。立てられていた歯ブラシは一本では無く、二本並べられていたのだ。
やっぱり。女川は口の端をニヤリと上げる。まさか潜入して早々、証拠を見つけるとは。
二階堂監督には女がいる。女川の勘は確信へと変わっていく。
一方、台所に行った二階堂は料理をする訳でも無く、携帯を開いてメールを打ち出していた。相手は雷門の豪炎寺である。二人は誰にも知られずに想いを通わせ、恋仲になっていた。ときどき家に呼んでは甘い時を過ごしている。歯ブラシも彼女のものだ。
今夜、豪炎寺が訪れる予定であったが、とても入れられる状況ではない。もう家をとっくに出ているであろう豪炎寺に詫びのメッセージを作っていた。
「二階堂監督」
「うわっ」
後ろから女川に話しかけられ、二階堂は大げさに驚く。
「何しているんですか」
「メールだよ」
「そんな隅で」
「お前に覗かれたらたまったもんじゃないからな」
「そんな事しませんよ。ねえそれより」
彼女の事をどうやって聞いてやろうか。女川の唇はニヤニヤと妖しげな笑みを形作る。口を開きかけた、その時であった――――。
ピンポーン。インターホンが鳴る。
「わっ」
女川は反射的に後ろへ下がった。二階堂が物凄い速さで玄関へ飛んでいったのだ。無理も無い、彼には最悪の事態が訪れたかもしれないのだから。訪問者が豪炎寺である可能性が非常に高い。
扉の向こうでは、やはり豪炎寺が二階堂の出てくるのを待っていた。表情の乏しい中にささやかな幸せと愛情を抱いて穏やかに待っている。
カチン。鍵が外されると豪炎寺の胸が高鳴った。いつもこの瞬間は、ときめきが抑え切れない。
「こんばん……」
言い終える前に豪炎寺は二階堂に強く引き寄せられ、口を塞がれる。愛おしい人の強引な態度に、危うく心臓が止まりそうになった。
二階堂は扉に背をつけ、レンズから覗かれるのを防ぐ。
「………………………っ……」
豪炎寺の鼓動は破裂しそうなほど早鐘のように鳴る。全身を真っ赤に染め、露出度の低いパーカーから見せる首筋は薄っすらと色付いていた。
「豪炎寺」
低く、囁きかける。見下ろされる二階堂の瞳に、眩暈を覚えた。のぼせてしまったように、ぽーっとしてしまっている。
「良いか、落ち着いて聞いて欲しい」
事情を説明しようとした二階堂の背後から、ノックが聞こえた。その拍子で二階堂の背が浮き、豪炎寺の瞳が瞬かれ、正気に戻る。
扉が僅かに開き、そこから女川の声が聞こえた。
「二階堂監督、そんなに急いでどうしたんです?エッチなDVDの通販でも届いたんですか」
「……ば、馬鹿、何を言って……!」
豪炎寺の口を押さえる手にも隙間が出来る。
「二階堂監督?」
見上げて問い、視線を声の主へ向けた豪炎寺の目が丸く見開かれた。同じタイミングで女川も驚く。
「……………………え……?」
吐息のような呟きが重なった。
豪炎寺の瞳には自分と似たような年だが全く雰囲気の異なる、美人でお洒落な少女が。
女川の瞳には二階堂の腕に抱かれている、簡単にここへ来られるはずも無い先輩たちの噂だった少女が。
ありえない現実を視界いっぱいに焼き付けている。
「………………………………」
二人の少女に阻まれる二階堂は修羅場の予感に青ざめていた。
衝撃から立ち直るのが早かったのは女川。二階堂と豪炎寺の必要以上に密着する姿はまるで、というより間違いなく恋人そのものであった。
元生徒、しかも中学生。バレたら大事どころの話ではない。
とにかく驚いたし、ショックも受けた。しかし、女川の心は沈まずに好奇心が上回る。
女川にとって二階堂は男性である前に監督であった。それが今、普通の人間、普通の男性に見える。嫌悪ではない。寧ろ好意に近い。
二階堂が、豪炎寺が、二人の関係が知りたくなった。
女川の純粋な興味が二人の秘めやかな世界へ向けられる。
例えるならそれは硬く、中身の見えない殻だ。一体、中には何が入っているのか。想像だけが暴走を起こす。
割ったのならたぶん、きっと、熟した鮮やかな実を曝け出し、甘い匂いのたつ果汁がいやらしく溢れさせて滴るに違いない。
秘密と危険。思春期には刺激の強すぎる組み合わせなのだ。
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