俺、なにか悪い事をしましたか?



水の匂い
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 フットボールフロンディアを制覇し有名になった雷門中。全国のあらゆる学校から練習試合を申し込まれながらも、平和に過していた。
 とある日の放課後。練習も終わり、部室で部員が制服に着替えていると豪炎寺の携帯が鳴る。
「豪炎寺……鳴っているよ……」
 影野の細い呟きに豪炎寺は素早く反応して振り返り、携帯を持って部室を出て行った。
「すっげえ反射」
「妹さんからですかね」
「ありえるー」
 半田、目金、土門が言う。豪炎寺の妹は昏睡状態から目覚め、退院まであと少しと告げられている。
 そんな噂の中、豪炎寺は制服のボタンを留めながら部室裏に寄りかかり、メールを確認した。相手は二階堂修吾、去年在学していた学校の監督である。名前を見るなり、豪炎寺の口元が緩んだ。それだけで嬉しくてたまらないのだ。
 木戸川清修と豪炎寺は、去年のフットボールフロンティア決勝で彼が姿を現さず敗北という残念な結果となり、因縁の関係があった。しかし今年の試合により、わだかまりも解けて良好な関係に変わる。おまけに豪炎寺は在学時代から二階堂に想いを寄せており、月日を経ても変わらなかった想いを突き通し、晴れて受け入れてもらった。
 そう、メールの二階堂は監督ではない。いわゆる恋人なのだ。
 二人の立場からなかなか会う機会に恵まれず、禁じられた極秘の関係ではあるがこうしてメールのやり取りを行っている。豪炎寺は元生徒ではあるが、教え子だった事には変わらない。平等な立場である監督の二階堂からのメッセージは不謹慎ながら優越感まである至高のものなのだ。
「……………………………」
 メールを開こうとするだけで胸がどきどきと高鳴る。
 内容は木戸川の近況の事や選手の事、雷門の様子を伺っていた。終わりの方には予定を聞かれる。次の文章で、豪炎寺の瞳は丸くなった。


 良かったら、今度うちに来ないか?


 豪炎寺はすぐに返信を打った。頬をほんのりと染め、口は緩みっぱなし。身体全体から幸せのオーラを放っている。雷門の仲間が見たらギョッとするような、普段の豪炎寺からは想像できないような姿だ。彼は幸せだった。魂の底から幸せだったのだ。






 数日後、豪炎寺は二階堂の家を訪問した。二階堂の家はマンションの一室。去年も野暮用で訪れた事はあったが、泊まるのは初めて。“わくわく”と“どきどき”と“ときめき”と――――。豪炎寺の心臓はあらゆる期待で脈打っていた。
 期待の中には、お子様まるだしのはしゃぐ気持ちと、背伸びをしたい思春期の気持ちが渦巻く。恋人なのだ。俗に言う"えっち"な事に興味がある。二階堂は大人だ、知らない事もいっぱい知っている。サッカーの技術や勉強だけじゃない、いやらしい事も知識があるだろう。男同士なんてよくわからないし子供は出来ないだろうが、そういった事は全く出来ないものでもないとは思っている。
 円堂も、染岡も、鬼道も、みんなが知らない事を知らない場所で知っていく。人知れず大人の仲間入りをしていく。なんとなく、それだけで、豪炎寺は卑猥に感じた。
 恋に恋する中学生は、下に心をたっぷりつけてインターホンを押す。
『はい』
「二階堂監督。豪炎寺です」
『今開ける』
 ぷつ、とマイクがきれて扉の鍵が外されて開いた。
「豪炎寺、よく来たな」
「はい」
 こくんと頷いて、豪炎寺は二階堂に笑いかける。
 彼の様子に二階堂は内心驚く。豪炎寺は口数が少なく感情を表に出さない。しかし、訪れた彼はどうだ。それは嬉しそうに目を輝かせている。前から家に呼んだ事はあったのに、こんなに喜ばれるとは思いもしなかった。
 同じ年の子に比べて大人びた印象を受けた豪炎寺であったが、彼も年相応な子供のよう。微笑ましく思う一方で、彼の輝きが一心に自分へと注がれるのに二階堂はどうも落ち着かない。
「かんとく?」
 きょとんとして豪炎寺は瞳を瞬かせる。
「ああ、すまない。入ってくれ」
「お邪魔します」
 家に入り、居間へ通された。
「荷物、そっちへ置いておいてくれ。ここは距離あっただろう、ジュース用意するよ」
「水で良いです」
 素早く返す豪炎寺。ジュースはいかにも子供で嫌だったのだ。
「水なんて味気ないだろ。麦茶でどうだ」
「はい」
 二階堂に麦茶を貰い、雑談を交わす。それから夕食を二人で用意して食後はソファーに並んで座り、前にあるテレビを眺めた。
 チャンネルをバラエティに替えれば、豪炎寺はよく笑う。軽い菓子をすすめれば、無邪気に受け取って食べる。
「豪炎寺はこういう番組好きなのか」
「いいえ」
「楽しそうに笑うから、よく観ているものかと思ったよ」
「たぶん」
 二階堂を横目で見て、テレビへ視線を移し、ぽつりと呟く。
「二階堂監督と一緒だからです」
 どくん。二階堂の胸が高鳴った。
「そうか」
 二階堂もテレビへ視線を向ける。
 正直、豪炎寺は何を言っているんだと思った。木戸川の頃ならぶっきらぼうに視線を送るだけだったのに。けれども考えとは裏腹に胸はどくどくと鼓動を速める。
 正直、素直で可愛いと思った。純粋に愛おしさを感じた。けれども可愛いといっても生徒に向けるようなものではなく、血潮を沸かせるもの。例えば、恋人へ向けるような――――
 ああ、隣に座るのは生徒ではなく恋人なのだと二階堂は遅れて気付く。
「監督、二階堂監督」
 呼ばれて気付いて振り向けば、豪炎寺が上着を引っ張っていた。引っ張っても反応しないから、名を呼んだのだろう。
「ん?どうした?」
「あの…………その……」
 言葉を紡げず、俯く豪炎寺。そっと上目遣いで見上げてきた。
「……も……もう少し……寄っても良いです…………か」
「え?」
「……いけませんか……」
「先生は構わないが」
 豪炎寺の衣服を掴む力が強まり、二階堂へ身体を寄せる。腕と腕が触れ、ようやく二階堂は豪炎寺がくっつきたかったのだと悟った。
「……………………………」
 豪炎寺の横顔を盗み見る二階堂。豪炎寺の視線はテレビを向いているようで、内容に集中していない。彼は随分と緊張しているようだった。
 別に今日初めて出会った訳でもないのに。
 おかしな気持ちになる二階堂は、どうしても豪炎寺との関係が変わった事を自覚しきれないでいた。
 こうなったのは豪炎寺の告白を二階堂が受け入れたからだ。豪炎寺を好きは好きだが、彼の熱意に負けたという想いが強い。
 想いを一生懸命寄せてくれている豪炎寺を冷めた目で見ている自分がいる。
 元は自分のせいだろうに。嫌悪している自分がいるのだ。


 豪炎寺が想うほど、俺は立派な大人じゃないのに――――


 胸の奥に風が抜けるように、ふと示してやりたくなるような悪い気持ちが囁く。
 そっと――気付かれないように――音を立てないように――腕を豪炎寺の背へ回し――肩を抱いた。
「っ!」
 豪炎寺の肩が大きく上下する。さらに引き寄せ、いかにも恋人のように包む。
「豪炎寺?」
 声のトーンを下げて呼ぶ。
 豪炎寺の肩は小さく奮え、顔は伏せているので見えないが赤く染まった耳は隠しようも無く曝け出されていた。
「どうしたそんなにガチガチになって」
「違いますっ」
 反論し、豪炎寺は二階堂の腕を解いて離れる。
「もうこんな時間だ。豪炎寺、風呂に入りなさい」
 彼の真っ直ぐな視線から逃げるように、わざとらしく時計を見て言う。
「わかりました。先にお風呂、お借りします」
 豪炎寺は立ち上がり、風呂へ向かった。
 脱衣所に入るなり、洗面所の鏡に自分の顔を映す。真っ赤に染まっていた。胸を押さえれば忙しない鼓動を感じた。
 ただただ驚いた。二階堂があんな風に抱き寄せてくるなんて。
 望んでいたはずなのに、実際されれば心臓が飛び出そうだった。嬉しいはずなのに、二階堂の知らない一面に不安が沸き起こり怖くなった。
 二階堂から抱き寄せてくれただけでこれだ。この先、二人はどうなってしまうのだろう。
 考えても先は見えず、豪炎寺は衣服を脱ぎだす。脱いだ衣服の置き場所をどこにしようか見回せば、この脱衣所は二階堂の生活が染みた生々しい場所だと気付く。
 歯ブラシに洗顔剤や髭剃り、吊るされて干されている下着。つい下着へ注目しそうになる。
 監督はこんなのを履いているんだ――――。つい自分のと見比べそうになる。
「なにやってるんだろう」
 呟きを漏らした。


「二階堂監督」
 風呂から上がった豪炎寺が声をかける。
「おお、上がったか」
 豪炎寺は寝巻きとしてのTシャツとハーフパンツに着替え、湯上りらしくほんのりと頬を染めていた。髪も洗ったので立てられたいつもの髪型は下ろされている。
「湯冷めしない内に早く眠りなさい。先生のベッドを貸すから。私はここで寝るよ」
 にっこりと微笑み、自分の座るソファーを指す二階堂。
 先程、興味本位で豪炎寺を抱き寄せたのを反省し、機嫌を取ろうと出来るだけ優しく笑いかけた。
「そんな監督、悪いです」
 もごもごとした喋りをする豪炎寺。
 一緒に眠りたい――――言いたいのに言い出せない。
「良いから良いから、子供はしっかり睡眠取れよ。おやすみ豪炎寺」
「……………………………」
 豪炎寺は歩み寄り、二階堂の肩に手を置く。そうして顔を近付け、頬に軽く口付けた。
「おやすみなさい、二階堂監督」
 身体を離し、ぺたぺたと足を慣らして豪炎寺は寝室へ入っていく。
「……………………………」
 豪炎寺の背を二階堂はなんとなく目で追ってしまった。
 彼の顔が近付いた時、鼻先を熱気が、鼻腔をシャンプーの香りが掠めてくる。
 後に残る、湯の匂い。


 水は匂うのだと、ふと思った。










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