水の匂い
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 豪炎寺は二階堂の寝室に入る。言われるままに来たが、初めて中を見る部屋であった。
 見回すのはなんだか悪い気がして、まっすぐにベッドへ潜り込む。
「…………………ふう……」
 息を吐き、吸い込んだ。すると二階堂の匂いがした。枕からはよく香る。
 確か理科の教師が、頭にはそういった細胞が凝縮していると聞いた。
 息を吸えば吸うだけ、香ってくる二階堂の匂い。ベッドというのは気持ちを落ち着かせて眠る場所だというのに、気持ちは高ぶり落ち着きを失う。
 寝返りを打つ豪炎寺の目は冴えてしまっていた。
 唇を固く結べば、先程自ら押し付けた口付けの感触まで蘇ってきて、一人頬を染め布団の中に潜る。
 ここへ来る前から意識はしていたが、想像以上にこの場所は豪炎寺には刺激が強すぎた。ある意味、拷問ともいえる。
「……んん」
 何度も何度も寝返りを打ち、ようやく眠気の波がやってきた。


 豪炎寺の次に風呂に入り、上がった二階堂は居間のソファーで眠る前に豪炎寺の様子を伺いに行く。
 音を立てぬように寝室の扉を開け、中に入る。
 豪炎寺は布団を抱きしめるようにして眠っていた。薄闇の中で布団に絡まる素足。日に焼けていない白い肌が、なだらかな線を描いて浮かび上がっていた。少年独特の細くも健康的な線――――しかし、この少年が抱く己への想いを察していれば、挑発かつ官能的な誘いにさえ見えてしまう。寝顔はあどけない子供そのものだが、豪炎寺にしては随分と無防備すぎる。それも俺のベッドだからか?などと自惚れた思いが過れば別の視点からも覗けてしまいそうで恐ろしくもなる。
 そう、二階堂は恐ろしいのだ。
 豪炎寺の想いに自惚れ、期待し、優越に浸った所で、彼に呑み込まれていくのが。そもそも彼は子供で生徒で男。二階堂の立場からして、禁忌に満ちた存在なのだ。そんな危険な存在が魔物のように大きな口を開けて、安全な素振りを見せて招きこんでいる。
 豪炎寺の気持ちを受け入れた時点で、あとは引きずり込まれる時期を待つのみ。ああ、わかっていたはずなのに、こんなのは地獄そのものだ。
 受け入れたはずなのに、これ以上惹かれるのは危ないと本能が囁いている。このまま平行線で保っていたかった。
「ん」
 不意に豪炎寺が喉を鳴らす。
「ん、う…………」
 呻き、寝返りを打った。腕から布団が離れた。
「……かんとく……」
 微かな呟きだが、確かに今“監督”と呼んだ。起こしてしまったかと目を凝らすが、どうやら寝言のよう。足が自然と彼へ向き、ベッドの横に膝をつく。
「…………ぅ……」
 薄く唇を開き、求めるように小さく開閉させた。
 二階堂は無意識に凝視していた。愛おしさが、胸が締め付けられるほどに高まっていく。
 知らず知らずに手を伸ばし、指先がシャツから覗く鎖骨を薄くなぞる。
「んっ」
 ひくんと反応し、声を漏らす。
 そっと指で肩の布をすくってずらした。肩が露になり、これを下ろしてやれば胸の突起が見えるだろう。
「……………………………」
 二階堂は生唾を飲み、瞼を痙攣させて手を止める。
 眠っている豪炎寺に一体なにをしようとしていたのか。悪戯にしては性質が悪すぎる。
 心の内で豪炎寺に詫び、立ち上がろうと思うが、呼吸する豪炎寺の唇に目が離せない。深く息を吸い、あの時口付けを交わした時に香った水の匂いを蘇らそうとしてしまう。
 触れてみたい欲求が、抑制できずに直球的に本能に訴えかけている。駄目だ――いけない――否定すれば否定するほど惹かれていく。
「……………………………」
 高鳴る鼓動、乱れそうになる呼吸、駆け巡る血潮の熱――二階堂は呼吸を静め、豪炎寺の唇へと口を寄せていく。頭の中では“これはさっきのお返し”だと、自己正当をしようとしている。
「……………………………」
「……………………………」
「……………………………」
「……………………ふ……」
「……………………………」
 豪炎寺の吐息が鼻の頭を掠めた。脳がゆさぶられて急速に熱が引き、ぞくぞくした寒気が覆う。
「く」
 歯を噛み締め、二階堂は顔を引く。立ち上がり、頭を振るって寝室を後にした。
 唇があと少しで届きそうだった刹那、自我が真ん中から折れそうになる感覚が電撃のように走って反射して避けた。二階堂は思う。やはり、彼をこれ以上好きになるのは危険すぎると。これ以上は、何か自分の中の大きなものが壊れてしまいそうだった。
 翌朝、豪炎寺が目覚めて居間に入れば二階堂が朝食の準備をしていた。
「監督、おはようございます……」
 欠伸を噛み殺し、挨拶をする。
「おはよう。こっちにご飯出来ているから。よく、眠れたか?」
「はい……」
 柔らかく口元を綻ばせる豪炎寺。だが瞼はまだ重そうだ。朝食が並べられているテーブルへ歩み寄り、椅子に座った。
「まだ眠いか?豪炎寺は朝練の時も目が冴えていたから珍しいものを見た気分だよ」
「え……。あ、すみません……」
 豪炎寺は軽く頭を下げる。頬がほんのりと染まっていた。
「はは、謝るなよ。ほら、これでも飲んで」
 向かい側の二階堂がコーヒーの入ったカップを豪炎寺の前に置く。
 ごと。置かれる音に豪炎寺は素早く目を瞬かせる。なぜだか、随分と遠くから渡された気分がした。
「あの、二階堂監督」
「ん?」
 豪炎寺の指がカップの取っ手の間に入り、持ち上げずに絡められる。
「また、来ても良いですか」
 じっと二階堂を見上げた。
「良いよ。おいで」
 豪炎寺は笑みを浮かべるが、二階堂の視線は新聞へと注がれていた。






 それから数日後、再び豪炎寺が二階堂の家へ訪れる機会がやって来る。
 その日は前回とは違い、空は雲に覆われ、おまけに日直の仕事まで臨時で任された。練習も長引いて、時間はずれにずれる。
「じゃあな」
 練習後は手早く着替え、仲間に別れを告げた。
 ああこれから家に戻って私服に着替え、木戸川の地へ向かう。せっかくまた二階堂に会えるというのに、予定より随分遅れてしまった。
 一分、一秒でも長く、二階堂監督と一緒にいたい――――。
 家へと向かっていた豪炎寺の足が止まる。引き摺るように片足が下がり、別の方向を向いた。その先は駅。
 豪炎寺の優先順位が頭の中で切り替わったのだ。
 私服で生徒というのを隠すよりも、二階堂に会うのが上回った。
 いけないだろうか――怒られるだろうか――誰かにバレるだろうか――。不安はぐるぐる巡るが、止められない。
 とうとう乗り込んだ電車の中で、豪炎寺は家族へ泊まりのメールと、二階堂に家へ向かう旨のメールを送った。やっと木戸川の地へ来る頃には、辺りは真っ暗だった。外はどしゃぶりの雨が降り注ぎ、暗さはよりいっそう増している。
 駅前のコンビニエンスストアで傘を購入するが、斜めから注ぐ雨には効果が無い。
 二階堂のマンションへ着く頃にはずぶ濡れになってしまった。この日は湿気のある蒸し暑さで豪炎寺の制服は夏服の半袖シャツ。中のTシャツは急いで着替えたので、ユニフォームと一緒に鞄に詰め込んでいる。
 水の浸透が直接肌に染み込み、なんとも気持ちが悪い。張り付いたシャツは透けてしまっている。階段を上りながら、豪炎寺はシャツに空気を送り、傘の水気を払う。鏡がないのでわからないが、たぶん酷い姿をしているだろう。今日は本当についていない。二階堂の部屋の前で溜め息を吐く。


 インターホンを鳴らし、二階堂は出てくるなり目を丸くさせる。
 豪炎寺が制服姿でずぶ濡れなのだから、当たり前と言えば当たり前だ。
「豪炎寺……一度、家に戻れと言ったはずだろう」
「すみません……」
 頭を垂れるように豪炎寺は詫びる。影を背負う身体が、水で張り付いた輪郭を映し出す。冷えているせいか、日に焼けているはずの肌さえ青白く見えた。立てられた髪も濡れて乱れ、その形はその形で様になっているような気もする。
 豪炎寺の頭から爪先までを眺めた二階堂の頭の表面を、怖気が走り抜けた。
「……とく、に……」
「ん?」
 豪炎寺の発する呟きを聞き返す。
 漆黒の瞳が二階堂を見上げ、射抜いた。
「……監督に……すぐに……会いたくて…………」
 一瞬、二階堂の視界が歪みそうになる。誇張でもなく本気で眩暈を覚えた。
「わかった。次からはちゃんと家に帰ってから来るんだぞ」
「はい」
「入りなさい。冷えただろう」
「はい」
 二階堂は扉を大きく開けて豪炎寺を招く。
 重い扉が閉まると、玄関に影ができて閉鎖的になる。
 また、ぞくっと寒気がした。濡れていないのに、今日は暑いくらいなのに、豪炎寺の存在を感じれば身体の芯に風が吹き抜けてくる。
「着替えた方が良いな。服を貸すよ。大きいだろうがそれを着たままよりはましだろう」
「すみません」
 優しい言葉をかけてくる二階堂。豪炎寺は嬉しいはずなのに、どこか怖い気がした。
 二階堂がこちらを見てくれず、背を向けたままで言ってきたからかもしれない。
「こっちだ」
 寝室へ連れて行く。
「荷物は適当に置いておきなさい」
「はい」
 部屋の隅に荷物を置く。まだ二階堂は顔を向けてくれない。
「まず、これだ」
 タンスを開けてタオルを投げる。この部屋からも雨音がよく響いて、二人きりなのに声が通り辛い。
「次に、これ」
 ジャージのズボンが置かれ、後ろ向きのままで豪炎寺の方へ差し出す。
 豪炎寺はタオルで軽く顔と腕を拭い、ベルトのバックルに手をかけた。声は聞き取り辛いのに、金属音だけは通る。
 金具を外し、ベルトを引き抜く。ズボンは濡れて下ろし辛く、布が擦れる。
 二階堂のジャージ下は彼の言う通り大きく、履いた後にまくった。
「これで、どうだ?」
 ワイシャツを持って、二階堂が振り返った。丁度上着を脱いでいた豪炎寺と目が合い、二人は目を丸くさせる。男に見せる男の肌なのに、妙に気まずい。
「あ、有難うございます……」
 ただの呟きは、雨音が邪魔して微かな雑音のよう。腕を伸ばそうと動けば、制服のシャツが床に落ちる。
 その手がワイシャツを掴んだ時、寝室の明かりをつけていない事に二人は気付く。互いが気になって、明るさなど二の次、三の次へと回されていたのだ。
「……………………………」
 豪炎寺の喉が生唾を飲み、ワイシャツへ袖を通してボタンを留めだす。身を隠すように裾を引っ張り、下から留めるのだ。その様を二階堂は立ち尽くし、彼を見詰めていた。
「……………………………」
 豪炎寺は俯いて視線を逸らし、留める手を速めた。心臓に近い第二ボタンの所で、手が止まる。遮られたと言っても良い。二階堂が後ろから身を寄せ、手を回して重ねてきたのだ。
 ボタンから手が離れ、胸にあてられる。どくどくと心臓が鳴っていた。頭の後ろに二階堂の胸があたり、彼の心音を感じていた。
 二階堂の指が豪炎寺の手の甲の浮いた指の骨を伝い、手首を掴む。もう片方が肩を掴んでくる。
 強めの力に、内心吃驚した。


 二階堂監督。


 呼ぶはずの声は唇が薄く動くだけで音にならない。


 二階堂監督。何か言ってください。


 思いだけが頭の中に流れる。二階堂が何も言わないのは不安になってくるのだ。
 彼はいつも、行動の前には必ず声をかけてくれていたのだから。
「あ」
 背中から急に力を感じて、豪炎寺はよろけそうになる。
 転ばないように足で支えようとしたのに、二階堂の足にあたってベッドに倒れこんだ。
 身を起こそうとした時、ある考えが走り抜けた。


 今の、わざと足を引っ掛けましたか。


 そんな馬鹿な。理性では否定するのに、本能は身体を石のように硬直させた。










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