秘密の一夜
- 前編 -
二階堂が自宅であるマンションの部屋の扉を開けると、光が差し込む。
明るさの中へ足を踏み入れ、向こう側から足音が聞こえてくれば一人密やかに口元を綻ばせる。
「監督、お帰りなさい」
ぱたぱたとスリッパを鳴らし、豪炎寺が迎えに来た。
柔らかな笑顔とエプロンまでつけて。
「ただいま、豪炎寺。先に来ていたのか」
「はい。ご飯が丁度出来上がりましたよ」
鞄、お持ちしますね。
そう彼女が手を出すと二階堂は鞄の代わりに手を握って引き寄せ、肩を抱いて居間へと向かう。
二階堂が寝室で部屋着に着替えている間に、豪炎寺がテーブルに食事を並べて待っていてくれた。
「いただきます」
温かで美味しそうな料理を前に、二人は手を合わせて食事を始める。
木戸川清修サッカー部監督の二階堂と、元生徒であり現雷門生徒の豪炎寺が付き合いだしてから、もう一年が経つ。豪炎寺は中学三年になっていた。
世間には隠された関係ではあるが、二人きりで過ごす日々の中で親密に絆を深め合い、放つ雰囲気は監督と生徒を越え、すっかり恋人さえも越えて夫婦に近い。ほとんど半同棲であり、二階堂は豪炎寺に合鍵を預け、洗面所には歯磨きとコップが二つずつ、食器も二人分揃えられていた。
「監督、今日…………」
にこやかに近況を語る豪炎寺を、二階堂は穏やかな笑みで相槌を打っている。
お互いが大好きであり、想い合う二人であった。けれども、現実は厳しい。お互いを呼ぶ名前は“二階堂監督”“豪炎寺”と、豪炎寺が木戸川に在学していた頃、二人がただの監督と生徒だった頃より変わっていない。
「監督、今度の土曜日に来てもいいですか?日曜日、一緒にいたいです」
豪炎寺が次に会う約束を決めようとする。住む世界が離れている二人は、会うだけでもやっとであり、せっかく会うならば甘い時を過ごしたくなる。
「俺は空いているけれど、この日に台風来るらしいぞ」
「それでも行きます」
天気を気にする二階堂だが、豪炎寺は強引に会いたがった。
「わかったよ。気をつけるんだぞ」
「はい」
はっきりと返事をする豪炎寺。
それから食事を終えた二人は、先に二階堂が豪炎寺を風呂に入れ、洗い物を担当した。洗い物が終わり、テレビでも観てくつろごうとした二階堂は、ある事を思い出す。
「あ、歯磨き粉きらしていたな。予備のと取り替えなきゃ」
洗面所と脱衣所は同じ場所にあり、二階堂は一度ノックしてから脱衣所に入る。
すぐ隣では浴室で豪炎寺が湯船に入っているらしく、ときどきピチャ、という水音が聞こえた。
二階堂は急いで用を済ませようと歯磨き粉を新しいものと取り替える。そうして、豪炎寺に声をかけた。
「豪炎寺、歯磨き粉取り替えておいたから」
湯船に浸かりながら、豪炎寺は“はい”と返事をするが、同時に扉が閉まる音がする。
二階堂が告げたのは豪炎寺に後ろめたい思いがないという知らせに過ぎない。風呂の時の二階堂の気遣い用は過剰であった。それは、無理もないのだが――――。
「…………………………………」
豪炎寺は湯船の中で膝を抱え、溜め息を吐く。
二人は恋人同士であった。
二人で家の中を過ごす生活も慣れた。
けれども、まだ性的な接触をしていない。
口付けや、抱擁はする。だがそれだけであり、豪炎寺はまだ生娘のままだった。
この関係は禁忌のものではあるが、二人の想いは真剣であり、二階堂は豪炎寺のまだ幼い身体に決して手を出さない。たぶん、触れてくれるとしたら豪炎寺が結婚できる年齢までしてこないだろう。中学三年にはなったが、まだ結婚できる年齢からは遠い。
豪炎寺からすれば、非常にもどかしい気持ちだ。二階堂の自分を大事にしてくれる気持ちはとても嬉しいが、好奇心や不安が胸に渦巻いている。抱かない理由がまだ子供だからというのは言い訳かもしれないのだ。自分の身体に性的興味を抱いていないかもしれないのだ。
二階堂は優しいから、豪炎寺を安心させる事しか言ってくれない、真実は口にしてくれない。
豪炎寺としては、今すぐにでも抱いてくれて構わないと思っている。いや、抱いて欲しいのが本心だ。あまり会えないから、心よりも肉体という証を求めたくなってしまう。もし口にしたら叱られて、せっかくの貴重な時間が嫌なものになる。だから、黙り込むしかない。
「…………………………………」
豪炎寺はもう一度息を吐いてから湯船を上がる。風呂から上がってTシャツと短パンという寝巻きに着替えて脱衣所を出た。
「かんとく、お風呂有り難うございます」
「温まったか?」
風呂上りの豪炎寺の姿を見て、ソファに座っていた二階堂はどきりとするがなんでもないそぶりで彼女に微笑みかける。
「お休みなさい」
「ああ、お休み」
二階堂は立ち上がり、豪炎寺を軽く抱き寄せて、お休みのキスをした。ほんの軽く触れるだけの、挨拶である。しかし、二階堂がやんわりと肩を押そうとすると豪炎寺は彼の上着を掴んだ。
「どうした?」
「…………………………………」
首を傾げる二階堂に、豪炎寺は唇を尖らせて見上げる。
――――いっしょに、寝たいです。
今夜こそ言おうと決めた言葉は、今夜もまた目で訴えるだけで終わった。
「なんでもありません……」
手を離し、寝室へ入っていく。
二人はどんなに甘く過ごしても寝る場所は別々であった。
ぱたん、と扉が閉じる。二階堂は軽く息を吐いた。
豪炎寺がなにを言いたいのかは察している。けれども、わからない振りをしなければならなかった。ただでさえ風呂上りでラフな格好に肌を露出した彼女にどきまぎさせられっぱなしだというのに、同じ布団で寝たりなどしたら理性を保てる自信がない。
二階堂は豪炎寺がそれなりの年齢になるまで抱かないと決めていた。これは彼女への想いもあるが、個人的なけじめでもある。いや、たとえ成長しても、結婚でもしない限りは踏み出せない気がした。結婚だなんて、遠い遠い夢かもしれないが。
もしも豪炎寺が生徒でも子供でもなく、普通の女性であったなら、今すぐにでも抱いていただろう。誰よりも愛していると惜しみなく伝えられる。あくまでもしもであり、ありえない話であった。
しかし、頑なに決めていてもどこかで限界を感じている。
お互い、どうしようもない想いが溢れてどうにかなってしまいそうだった。それを必死に押し込めながら、甘い世界で無理やり夢を見ようとしている。いつ壊れるかわからない夢に中に逃げている。
そして数日が経ち、会う約束をしていた土曜日になった。
二階堂の言っていた通り、台風が直撃して酷い雨風が吹き荒れている。だが幸い電車は止まらず、豪炎寺は木戸川の駅に到着できた。
傘は差しても斜めから降られれば雨を防げず、アスファルトが返す水は足元も濡らす。
しかし雨風はあるが気温は湿気が多く暑い。豪炎寺は普段着からジャンパーを持っていかずパーカーとズボン姿であったが、パーカーは水を吸いやすく貼り付いて気持ちが悪い。失敗であった。
ずぶ濡れで二階堂の家のインターホンを押す。
二階堂はすぐに出てくれて扉を開けた。
「大丈夫か?無理しなくても良かったのに……」
彼女の姿を心配する二階堂に、豪炎寺は首を横に振った。
「風邪をひいてしまうな。シャワーでも浴びて温めなさい」
「はい」
玄関を上がり、傘立てに傘を入れる豪炎寺を、二階堂は少し止まって見入ってしまいそうになる。
濡れたパーカーがブラジャーを浮き立たせてしまっていた。色は白でシンプルなものだが、未熟な色香が艶かしい。
「…………?」
二階堂の視線に気付いて彼を見る豪炎寺だが、なにを見られているのか察すると顔を赤くし、二階堂も上気させる。
「すまん、ボーっとしていた。すぐにタオルと着替え、用意するな」
足音が遠くなるまで、豪炎寺は俯いてしまっていた。
居間に入れば二階堂からバスタオルと彼のワイシャツとジャージのズボンと、豪炎寺の鞄を交換して彼女はシャワーを浴びた。湯を浴びると解凍されるかのような感覚がする。すっかり身体が冷え込んでしまっていたようだ。
浴室を上がり、脱衣所で水気をバスタオルで吸わせてブラジャーとショーツをつける。次に二階堂のワイシャツだが、大きすぎて尻まですっぽりと隠れそうだった。そしてボタンをつけている最中に、事件は起こった――――。
ぷつ。
突然、辺りが真っ暗になった。
停電と悟ると同時に、二階堂が扉を開けてくる。
「ごうえ…………っ!あ、ええと……!」
着替え真っ最中の豪炎寺に、目を丸くさせてから扉を閉じ、背中をつけて話す。
「停電、みたいだ。着替えたら、こっちへ来なさい」
「はい」
急いでボタンをつけ終える。頭には目を丸くさせた二階堂が焼きついていた。あんなに驚く様は見た事がない。ジャージのズボンを履こうとするが、長さも腰周りもぶかぶかだった。撒くって履くが垂れ下がり、脱衣所から出た第一歩で裾を踏んで転んでしまう。
「うわ」
「足元気をつけろよ」
起き上がる豪炎寺は仕方なくジャージを脱ぎ、ワイシャツの裾を押さえながら二階堂を探して寄り添う。
「転んだのか?」
「ジャージが大きくて……ゆるいので脱ぎました……」
「そうなのか」
チラリと豪炎寺の足元を見れば、すらりとした素足が映った。二階堂は盗み見しているつもりなのだが、あからさまな視線に豪炎寺は羞恥に身を焦がすのだが、息を吸えば二階堂の匂いがして、着ている衣服にも香っており、彼に包まれている空気にどきどきと胸を高鳴らせた。
「豪炎寺。懐中電灯を取りに行くから、離れるなよ」
「はい」
手を握り合う二人だが、闇の恐怖に豪炎寺は二階堂の腕にしがみつく。
ふに、と柔らかい感触がして、とくとくと鼓動の音が二階堂に伝わる。
懐中電灯は台所の棚にあり、側には蝋燭もあった。取り出す際、二階堂は豪炎寺を胸の中に抱き、守るような体制をとる。その時、二階堂の鼓動を豪炎寺は聞いてしまう。
二人はぴったりとくっついたまま電灯で照らし、居間のソファに座ると前にあるテーブルの上に皿を載せてから蝋燭を立て、二階堂がライターで火を灯す。
「二階堂監督、お上手ですね」
「たまたまだよ」
小さな明かりの中に入るように、豪炎寺が二階堂の方へ寄り、膝に置かれた手に触れてくる。
「……怖いか?」
問えば、豪炎寺は首を横に振った。だが瞳はなにかを言いたそうに、じっと二階堂の瞳に注がれている。
「…………………………………」
二階堂は目を離せず、二人は見詰め合う。
寄り添えば感じる熱、聞いてしまった相手の鼓動。闇が視覚以外の感覚を研ぎ澄まさせ、想いを昂らせる。
「豪炎寺」
二階堂の手が豪炎寺の手をやんわりと離させ、彼女の頬に添えられた。
それが合図のように豪炎寺は目を閉じ、二階堂も閉じて顔を寄せ、口付けを交わす。
「………………ん」
唇と唇を合わせてから、豪炎寺は離そうとする。けれども二階堂の手が解放させてくれない。
「ん、う?」
眺めの口付けにやや苦しくなり、二階堂の胸を軽く押すがびくともしない。そうして漸く解放されると、つい熱い息が漏れる。
「ぷは」
開かれる瞳は、視界いっぱいの二階堂の顔を映す。豪炎寺だけに注がれる、あまりにも近すぎる距離と視線に、顔の熱が急上昇して眩暈を覚えそうになった。
「……っあ」
もう一度、口付けをされて手首を捉えられ、身体がやんわりと傾いていく。
背丈の違う二人が座って口付けるには二階堂が背を屈めなければならない。屈む角度が増して、二階堂が覆い被さるように豪炎寺を寝かせた。耳元でソファが鈍く軋む。
「か…………ん、とく」
呼ぶ声は緊張で喉に絡み、上手く発せない。
反射的にもがいて上がった足がテーブルに当たってしまい、載っていた蝋燭の火が消えた。
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