疑惑
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「ふぅ…………」
 温かい湯に素足を入れ、豪炎寺は湯船に浸かる。
 テスト期間が終わるなり、豪炎寺は二階堂の家へ泊まりに来た。
 次の日はさっそく練習試合があり、相手はしかも木戸川清修で二階堂に会えるのに、どうしても会いたくなって来てしまった。おまけにそのまた次の日は二人とも休みなので甘い時が過ごせる。
 幸せいっぱいの未来が待っている豪炎寺は、一人口を綻ばせた。湯船から上がればボディーソープで身体全体を泡立てて己の身体を綺麗にする。丹念に、よく洗った。
 もしかしたらこの後、身体を重ねるかもしれないからだ。豪炎寺にとっては久しぶりに感じる行為なので、清潔さが気になった。
 途中、己の抱く期待が下心に満ちていると気付き、ほんのりと頬を染める。それでも期待せずにはいられない。二階堂と交わす情事は、とてもとても気持ちがいいのだから。重ねる度に豪炎寺は二階堂によって快楽の扉を開かされていた。
 それから風呂を上がり、脱衣所で着替える寝巻きを抱き締める。それは二階堂の着古したYシャツ。頼んで貸してもらったものだ。顔を埋めて、すんすんと鼻を鳴らせば二階堂の家の洗剤の香りがした。二階堂の元へ訪れたのだから、全て二階堂に包まれていたい思いだった。
 袖を通した後、ハーフパンツに手をかけて止まる。
「…………………………………」
 尻はすっぽり隠れるので捲くらなければ中は見えない。本当に見えないか洗面台の鏡で確かめた後、ハーフパンツを小さく畳んだ。情事を交わすのなら、どうせ脱ぐのでいらないはず。
 これでは期待ではなく誘いであり、豪炎寺はまた頬を染めてシャツの裾を掴んで俯き、決意をした。


 一方その頃、豪炎寺が風呂に入り、一人きりの二階堂は居間のソファでくつろいでいた。その表情にはどこか疲労が見え隠れする。疲れたのは仕事のせいでも、豪炎寺のせいでもない。もっと別の理由があった。
 それは昨日の出来事。二階堂の卒業した教え子が家に遊びに来てくれたのだが、数年ぶりにあうその教え子は随分と、いやかなり姿を変えてやってきた。男が、女になってきた。そう、教え子は性転換した姿を見せにやって来たのだ。
 彼女になった彼は、それはそれは上機嫌でいきなり衣服を脱いで証拠を見せてきた。おまけに化粧も完璧にこなし、香水臭かった。女はいるのかとプライベートまで踏み込み、寝室まで侵入された。相手がいないなら監督の女になってもいいとからかってくるが、二階堂はきっぱりと断った。とにかく相手をするのに疲れてしまったのだ。今日やって来た豪炎寺がいかに大人しく、いい子なのを再認識したくらいだ。
 再認識したのはそれだけれはない。豪炎寺に対する愛情もだ。きっぱりと断りを即答できるほど、豪炎寺の存在は二階堂の中で大きくなっていた。大人げもなく、そこにモラルさえもないかもしれない、許されないものかもしれないが、豪炎寺が愛おしかった。豪炎寺からの愛情もしっかりと感じており、大事にしたいとより強く思うようになった。
「かんとく」
 豪炎寺の呼ぶ声に、二階堂は眠そうだった半眼の目を開かせる。
「お風呂有り難うございます」
 歩み寄り、頬を包むようにして啄ばむような口付けをした。なにかお礼をする時、二人きりの夜は口付けで返すといつからか決まっていた。
「湯冷めしないように早く布団に入りなさい。俺も上がったら行くから」
「はい。お休みなさい、監督」
 ちゅ。もう一度口付けをする豪炎寺。唇を離すと、耳元で“だいすきです”と呟き、寝室へ入って行った。
 二階堂が重い腰を上げて浴室へ入るのと同時に、豪炎寺はベッドの中に潜り込む。
 そうして枕に頭を置こうとした刹那、豪炎寺の頭に鋭い電撃のような衝撃が走った。


 ――――変な匂い。


 頭を浮かせ、枕や布団に鼻を寄せて匂いを嗅ぐ。整髪量とは違う、香水の匂いがした。女性がつける、男性のものではない匂いがしたのだ。直感的に女物だと悟ったのだ。
「???」
 訳がわからなかった。今まで何度も二階堂の家に泊まりに来た事はあるが、こんな匂いは初めてであった。
「??????」
 ただただ混乱した。胸がどきどきした。締め付けられるように、きゅうきゅうと痛み出す。
「…………………………?」
 己の胸を衣服後と掴み、深呼吸をする。豪炎寺は動揺していた。手に汗が滲み、額に冷や汗が浮かぶ。
 苦しくて、とても悲しくなった。
 手をだらりと垂らし、呆然とベッドに座り込んだ。
 思考の追いつかない脳裏の中でも、ある単語だけははっきりと浮かぶ。


 ――――浮気。


 このベッドで、二階堂が他の女性を、豪炎寺ではない人間を抱いたのかもしれない。
 想像しようとするだけで、ぞわぞわと表面の毛がざわつき、気持ちが悪くなる。胸が嫌悪で息が詰まる。
 二階堂は大人で、豪炎寺よりも長く生きている。豪炎寺が知らない女性と出会い、情事を交わした経験もあるだろう。それはしょうがないと思っていたのに、最近では二階堂を愛おしく想うあまり嫉妬もするようになった。
 昔の彼女でさえ嫌な気持ちになるのに、今、しかも抱くというのは豪炎寺にとって負った傷はあまりに大きい。
 なぜ。どうして。そんな真似をするのか本当に理解が出来ない。
 豪炎寺は二階堂だけをただ一人愛し抜いた。なのに、二階堂にとってはただ一人ではなかったのだ。
 好きだ、大好きだ、愛していると何度も愛の言葉を囁いた。衣服を払い、素肌を曝け出し、秘部さえも見せ、触れさせ、愛し合ったと思っていたのに。
 生徒には見せない、男の顔で俺もだよと言ってくれた言葉は二階堂にとって大したものではなかったのか。
 ただの、遊びだったのか――――。
「…………………………………」
 頭がぐらぐらした。信じられなかった。
 しかし、もう一度ベッドの匂いを嗅げば、現実だと知る。
 ――――あんまりです。
 絶望の淵から、こみ上げるようなマグマの怒り。
 風呂から上がってきたら問いただしてやる。そう意気込んでいたのに、いざ二階堂が寝室に入ってくれば怖くなった。怯えたように、身体が硬直する。
「豪炎寺。眠ってなかったのか?布団に入れと言っただろう?明日は練習試合があるんだから」
 豪炎寺の隣に座り、彼を抱き寄せるようにして共に布団の中に入ろうとする二階堂。
 豪炎字を呼んでくれる温かい声、肩を抱いてくれる暖かい手はなにも変わらない。変わらないからこそ、余計になにがなんだかわからなくなる。勘違いだと思いたいが、思えない証拠がある。
「どうした?顔色がよくないぞ」
 豪炎寺の様子に違和感を覚えたのか、二階堂は心配して顔を覗きこんできた。
「か、んとく。二階堂、監督」
 豪炎寺は己の手を握り締めながら、勇気を出して二階堂を呼ぶ。
「うん?」
「あ、あの…………」
 どう聞けばいいのかわからない、冷静になれない。
 ならば確かめようと、豪炎寺は放つ。


「監督、セックス、したいです」


「え?」
「セックス、です」
 二階堂の胸に顔を埋める。声がやや震えてしまう。
「豪炎寺、明日は試合だろ?男はな、試合前にキメると試合本番にキマらなくなるって前に言ったよな。先生と約束しただろう?試合前日はしないって」
 豪炎寺の異変がわかるからこそ、二階堂は諭そうとする。
「本当に、どうした?のぼせて具合が悪いのか?」
 ここで聞きたい事を聞ければいいのに、頑固に自分の意思を押し通そうとしてしまう。
「大丈夫です。試合だって、そうです。木戸川には勝ちますよ。ですから、しましょう、監督」
 二階堂には豪炎寺を大事に想うからこそ、様子のおかしい彼を抱いて身体に負担をかけたくなかった。思いつめたような彼を少しでも元気付けようと、からかったような口調で豪炎寺の顔を上げさせて頬を摩るように揉む。
「うーん?豪炎寺、木戸川をナメてないか?明日の木戸川は一味違うぞ。なんてったって副監督までいるんだからな」
「……副監督?」
「そうだぞ。先月、教育実習生が副監督としてサッカー部を一緒に担当する事になったんだ。若くて可愛い女教師だぞ〜」
「……!」
 豪炎寺の目が驚きで見開かれる。顔をくしゃりと歪め、握った拳を二階堂の胸に置いた。
「聞いて、ません」
「はは、ヤキモチ妬かれるかもしれないから秘密に、……なんてのは冗談で。対戦相手に手の内を……」
「女の人の話なんか、聞きたくない」
 そっぽを向き、背を向けて不貞寝をする。
「ご、豪炎寺?すまん、怒っちゃったか?」
「…………………………………」
「ごめんな、言うべきだった。けど、お前の方が可愛いに決まってる」
 ――――嘘吐き。
 豪炎寺は奥歯をぎり、と噛み締めた。
「…………………………………」
 二階堂は困ったような顔をして、豪炎寺の髪を撫でてから“お休み”と囁く。
 一度豪炎寺は怒らせると頑固なので、落ち着かせようと判断したのだ。


 やがて寝息を立てて二人は眠ってしまうが、豪炎寺は寝付けず何度も目が覚めてしまった。
 息を吸えば二階堂の匂いがして、もっと注意深く吸えばあの嫌な匂いが香る。
 そっと二階堂の寝顔を覗き見れば愛おしさが湧き上がり、同時に悲しく、けれども会えずに秘めるしかなかった欲情が疼きだす。
 大きなYシャツを下からめくれば下着から性器が欲望を示しており、我慢できなくなった豪炎寺はトイレに篭って自慰を行う。
 下着を下ろして便座に座り込み、シャツの裾を口で咥えて落ちないようにしてから、手で性器を弄る。
「ん…………っ、ふぅっ………ふー………」
 自慰をする時のおかずはいつも二階堂だった。
 二階堂とする、気持ちの良い情事を思い浮かべて己を慰めるのだ。そうすると、とても興奮するのだ。
 二階堂の大きな手が豪炎寺の性器に触れ、太くて長い指が好きな場所を刺激してくれるイメージを想って。羞恥に身を焦がしながら股を開く豪炎寺を温かく包み込んで、優しい言葉をかけてくれる愛の思い出を反芻する。
 二階堂は優しくて、温かくて、気持ち良い人。豪炎寺は大好きで大好きでたまらなかった。
 なのに、今夜は二階堂を想いたくはない。だがしかし、避けようとすればするほど彼を想って性器を扱いてしまう。
「…………んーっ………んー……っ!」
 二階堂と女が抱き合うビジョンが浮かんでしまい、ぎゅっと目を瞑り、いやいやと首を振って拒絶をしながら、高まった熱を放出した。とぷとぷ、と精が溢れて手を汚す。
「……ふぁ」
 シャツを口から離し、ティッシュで体液を拭う。
 二階堂の家まで来て隠れて自慰を行うのは、とても虚しい気分だった。
「かんとく……」
 行為を終えても、しばしトイレの中にいた。
「監督が他の人とするのは嫌です。浮気はしないでください。悲しいです。俺だけを見てください。俺は二階堂監督を愛しています」
 二階堂に言いたい言葉を口に出してみて、唇を噤んだ。
 その時、不意にある疑惑が生まれる。
 ――――二階堂監督は、副監督の事が好きなのか?
 副監督がどんな人なのかが気になった。豪炎寺は立ち上がり、胸にもやを抱えたままベッドに戻って眠りについた。






 翌日の早朝、先に目が覚めたのは二階堂であった。豪炎寺は背を向けて丸まって眠っている。めくれあがったシャツから下着が見えて、ハーフパンツを身に着けていなかったのに気付く。豪炎寺が昨夜どれだけ情事を交わしたかったのかを今更知った。
「豪炎寺、朝だぞ」
 揺らされて起こされ、目を擦る豪炎寺の身体を二階堂は抱き締める。
「っあ?」
「豪炎寺、昨日は本当に悪かったよ。今夜はゆっくりしような」
 二階堂の言う“ゆっくりしよう”は“二人きりで愛し合う”という意味であり、豪炎字の胸はどきりと高鳴った。けれども喜べず、胸を押して離れようとする。
「俺たち、今日は対戦相手ですから」
「……そうだけど…………」
 夜が明けても豪炎寺の機嫌は直っておらず、二階堂は困惑するばかり。
 本日行われる雷門対木戸川の練習試合は木戸川の地で行われ、現地集合可脳なので二階堂の家から別々に出て試合会場で待ち合わせをする約束をしていた。豪炎寺は二階堂といたくないのか、予定より随分早く一人家を出て行ってしまう。
「豪炎寺……」
 二階堂は溜め息を吐く。
 せっかく久しぶりに会えたのに、どうも上手くいかない。今は練習試合が無事何事もなく終わる事を願わずにはいられなかった。終わったら、豪炎寺の気持ちに耳を傾けて聞いてみようと決めた。










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