十時間
- 前編 -
フットボールフロンティアも残すは決勝のみとなった。
雷門サッカー部は最後の決戦に備えて、学校地下のイナビカリ修練場で特訓を行う。
「みんな、頑張ってね」
「どうぞー。水分補給はしっかり、ですよ」
木野と音無が特製スポーツドリンクを配る。
「ねえ皆、聞いて欲しい事があるの」
夏未が一歩前に出て、注目とばかりに手を合わせた。
「いよいよ決勝ね。実はお父様が秘密裏に、この修練場の一部を改造してくれていて、つい先日工事が終わったの。今の時期ぐらいしか使えなくて悪いけれど、使ってちょうだい」
恐らく工事は夏未の父である雷門理事長の怪我により延期されたのだろう。
「ああ、是非使わせてもらうよ!な!」
円堂が微笑み、皆を見回す。仲間たちも快く了承した。
「こっちよ、来て」
先導して案内する夏未。修練場のさらなる地下に新たな特訓場は出来上がっていた。
「ここの部屋はタイマー式ロックになっているの。どんな超必殺技にも耐えられるようにね」
「おお、じゃあバンバン必殺技を撃てる訳だな」
彼女の話を聞いてFWの染岡は燃え上がる。横に立つ豪炎寺も口元を綻ばせ、嬉しそうにしていた。
「えーと、手始めに一時間にしてみましょうか」
「決勝だぞ。もっと出来るんじゃないか」
タイマーを設定する夏未に、一之瀬が意見する。
「じゃあどうするの」
「二時間で」
「いーや、三時間でやんす」
「無理すんな……まずは一時間にしよう」
あーでもない、こーでもない。夏未を挟んだ案の出し合いに、彼女はひくひくとこめかみを痙攣させた。
「もうっ!一体どうするのよっ!」
パシッ。手の甲が思わず決定にスイッチを押してしまう。
「あ」
「あああああああああああ!!!!」
小さな声を漏らした直後、サッカー部員全員の絶叫が木霊した。
十時間。
そうタイマーには設定された。
「キャンセルできないのかっ?」
「よくわからないわ……」
「まぁ、十時間で良いじゃないか。やろうぜ」
あっさり受け止めた円堂は握り締めた拳を掲げて士気を高める。
十時間は多すぎるが、決勝前で気合も入っているのでやれると思っていた。
だがしかし、重大な問題はそこでは無かったのだ。
特別室で練習が始まって三十分。
木野がそっと夏未に問いかける。
「ねえ夏未さん。ここってお手洗いどこなの?」
「え?」
目をパチクリさせ、辺りを見回す。身体を休めるベンチはあるが、手洗いは見当たらない。
「たぶん、ないわ」
「え…………」
サァ……。木野が顔を青くさせた。夏未も伝染するかのように事態を察した。
そう、十時間もの間、用を足せないのだ。
「木野さん、大丈夫?」
「私は聞いてみただけだけど……。そ、そっか、十時間か、うん、長いわね」
聞いたみただけ、は言い訳ではなく本心であった。しかし、行けないとなると意識してしまいそうになる。十時間は長すぎる。
「皆に言った方が良いかしら」
「そうね、前もって言っておくべきね」
木野と夏未は顔を見合わせ、仲間たちに手洗いがない事を伝えた。
戦慄が走る一同。十時間は本当に長すぎるのだ。
「サッカーで汗流せば気にならないって」
「汗はアンモニアが成分ですもん」
「こらこら、レディの前で失礼ですよ」
にこにこと笑みを絶やさない円堂に一言付け足す宍戸、後輩を嗜める目金――――和やかな雰囲気で、この時点では手洗いに行きたそうな人物はいなかった。
あくまで、この時点では、だ。
十時間、用を足せない。
人は一度思い込んでしまうと、なかなか意識を切り離せないものである。
数時間が経つと、動きが悪くなる者が現れた。
「ふう」
染岡が汗を拭いながらベンチへ座る。その隣には彼より先に休む豪炎寺がいた。
仲間の練習を眺めながら、そっと染岡は問う。
「豪炎寺。お前その……大丈夫か?」
「ん?」
頭に被っていた豪炎寺のタオルが落ちる。
「さっきから、ちょくちょく休んでいるじゃねえか」
「問題ない。密室だからな、圧迫感が疲れやすいだけだ」
「ならいいけどよ」
ぎこちない笑みを浮かべ、落ちたタオルを肩に乗せてやろうとした。
カッ!豪炎寺は眼力で染岡の手を止めさせる。
「触るな!」
「…………すまん」
「いや、俺こそ」
謝り合い、染岡はタオルを豪炎寺の傍に置いてベンチを立つ。
「…………………………」
豪炎寺はタオルを拾い、頭にかけて俯く。
「くぅ」
影で歯がゆそうに唇を噛む。
尿意が気になってきて、サッカーに集中できなくなってきたのだ。漏らしそうな程ではないが。運動はそろそろ避けたくなった。
室内の隅の方で、密かに尿意を感じてきた者たちが壁に寄りかかり、ベンチに座ったりという行動を始める。
「ふー…………」
音無が息を吐き、壁に寄りかかっては離れるという行動を繰り返す。
「春奈」
兄の鬼道が歩み寄ってきた。
「春奈。顔色が良くないぞ」
「え?そう……そうかな……?」
額を手の甲で拭う音無。冷や汗をかいてきた。
「我慢はよくない。膀胱炎になる」
「や、やめてよっ。デリカシーないなぁ」
手を前に出して鬼道に“あっちへ行って”という仕種をした。
「もしもの時は端にでも行ってしろ」
「やめてったら。お兄ちゃん、施設の先生みたいな言い方してる」
「空のペットボトルにでもしたらどうだ」
「もーうーやーめーてー」
音無は恥ずかしさのあまり、その場に座り込んでしまう。
すると、彼女の周りに大きな影が出来た。鬼道がマントをとって、彼女を隠そうとしている。
「これで見られないだろ?本当に、我慢はよくない」
二人が揉めていると、様子に気付いた松野がやってきた。
「あれえ、やかましさんが音無さんになってる。どったの?」
「ああ。春奈の奴が」
「いやああああああ!もうお兄ちゃんあっち行って!来ないで!」
鬼道の言葉を掻き消して声を上げる音無。
「酷いな、俺はお前を」
鬼道は本当にデリカシーがなかった。
「じゃあもう私が行くから!馬鹿!」
音無がべそをかきながら立ち上がって、走り去ってしまう。
「春奈」
がくっ。膝をつく鬼道。
「事情、よくわかんないけど、全面的に鬼道が悪い」
松野が呟いた。
それからもう五時間以上は経ち、半分は経過したがまだ数時間残っている。
もうほとんど動けるものはいなかった。皆、じっとして尿意に耐えている。
そろそろかなりまずい。
「やばいなぁ、これは」
円堂が皆を見回して言う。
「円堂こそ、大丈夫か」
風丸が話しかけてきた。
「んー……、まぁ、な」
二人とも我慢をしてか内股だ。特に選手は練習前にドリンクを飲んでしまったので、堪えてきてしまっている。
「そういやぁ、マネージャー……木野とかどこいる?」
「木野?木野はあっち」
風丸が指差す先には木野、土門、一之瀬が三人で囲んだ体勢でしゃがみこみ、アメリカンな“オーマイゴッド”のポーズをしては俯いていた。人間、極限状態に陥ると素がでてくるものである。
「備品で何かいいもの持ってるか聞きたかったんだけどな」
円堂が首を振るうと、栗松が手を振りながら駆けてきた。
「キャプテーン、風丸さーん」
「栗松、どうした」
「それはこっちの方でやんす。皆さん、もう限界じゃないですか」
「栗松は元気だなぁ」
「もう済ませたんで」
…………………………。
…………………………。
…………………………。
………………………え?
栗松に、多くの視線が一斉に注目した。
「ど、どど、どうやって?」
「いやぁ、ペットボトルにしちゃったやんす」
照れ笑いを浮かべながら、さらっと答えてみせる。
空のペットボトル使用は誰もが考えていた手段だ。
けれども、実行に移す者はなかなか現れなかった。
ここに一人の勇者が誕生した――――!
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