目を凝らさねば見えない微かな光。
 それは、歪みへの入り口。
 無意識に、気付かぬまま、一度踏み入れたら戻れない。
 やがて、望んで深みへ沈み込んでいくだろう。



歪み
- 前編 -



 夕日色に染まる河川敷のグラウンド。今日の雷門サッカー部の練習が終わった。
「お疲れー」
「じゃあな」
「また明日」
 仲間たちは挨拶を交わし、一人また一人と帰っていく。
 せっせと片付けをする木野にキャプテンの円堂は声をかける。
「木野、あとは俺がやるから帰って良いよ」
「そう?じゃあ明日ね」
 木野も帰る。
 まだグラウンドに残るのは円堂、風丸、豪炎寺の三人。
「今日は特訓やって俺は帰るよ」
 円堂はボールを拾い上げて言う。
「手伝おうか?」
「一人だけでやりたいんだ」
 好意に小さく礼を言い、断る。
「秘密特訓か。なら帰るか豪炎寺」
「そうだな。成果、楽しみにしている」
 風丸と豪炎寺も帰った。グラウンドには円堂だけになる。


 特訓に励めば時も流れ、夕日の赤に紫が入り込み、闇へと変わろうとしていた。
「そろそろ帰るか。母ちゃんにどやされるもんな」
 ベンチの元まで歩み、汗で濡れたユニフォームを脱いで置いてあった制服のシャツを着込む。
「ん?」
 学ランの上着を着取ろうとした時、円堂は微かな光を見つけた。
 目を凝らすと、それはもう一度煌く。
「これは……」
 黒に浮かび上がる光の筋。沈みかけた、その日の最後の太陽が存在をささやかに示す。
 誰かの髪の毛であった。
 自分のものではないと、円堂には一目でわかる。
 長い髪だからだ。
 練習中はベンチの上に服を重ねていたので、たまたまついてしまったのだろう。
「誰のだ」
 指で摘まみ、目の前に持っていく。
 色素の少ない、薄っすらと彩られた青。どうやら風丸のようだ。
 指で擦ると艶やかな感触がした。
 もう片方の指でも摘まみ、引っ張るように長さの感触も味わう。
 触れて、擦って、引っ張って。
 綺麗な髪だと円堂は心より思う。
 風丸とは古い付き合いで、髪など見慣れていた。進んで触れた事はないが、触った事ぐらいはある。
 当時はどうとも思わなかった。何も感じなかった。
 しかし今はどうだ。雑音から切り離された静寂の中、たった一本の髪の毛に触れてみて。
「あっ……」
 ほんの少しだけ離れた意識が、風丸の髪の毛を風に乗せてしまう。
 気付いた時には遅い。どこにも見えなくなってしまった。
「あーあ……」
 口から独りでに出た落胆。
 摘まんだ利き腕の指はまだ擦り付けて感触を反芻している。
 まだ感じていたいのに、残念だった。
 仕方なく学ランを羽織り、円堂は帰宅する。
 帰っても、飯を食べても、風呂を食べても、布団に入っても。指は髪の感触を求めるように擦り続けた。






 次の日。朝、部室へ行くと風丸がいた。
 先日の特訓の成果を聞いてきて、雑談が始まる。
「でさ……それで……」
「へえ……」
 相槌を打ちながらも、円堂は話に集中が出来なかった。
 風丸の肩に垂れた髪から一つ。飛び出た一本の髪が気になっていた。
 一度知ってしまったら、気になって仕方が無い。髪の毛だけを見詰めてしまう。
 あれは抜けてしまった髪なのだろうか。だったら引いてしまっても良いのだろうか。
 ごくり。円堂の喉がひくつき、生唾を飲み込む。
「円堂?どうした?」
 風丸が問う。円堂が上の空のように見えた。
「いや、その。それさ……」
 円堂は風丸の肩を指差す。肩に垂れた髪の毛から飛び出た一本の毛を指した。
「抜けているみたいだから、取ってやるよ」
「ああ」
 風丸は納得したように息を吐く。
 面と向かって話している最中にそんな毛があれば、気にならない事もない。理解はできる。
「いてっ」
 抜けていた毛を引っ張ると突っかかる。どうやら抜けているように見えただけのようだ。
「ごめん」
 反射的に円堂が発した声は、随分と残念そうなものだった。
「そんなに気になっていたのかよ」
 ははは。風丸が声を出して笑う。
「……そりゃあな」
 円堂もつられて笑った。
 けれども、反応するまでに一瞬の間があった。一瞬、円堂は迷った。
 “気にしていた”という風丸の言葉に違和感を覚えたからだ。
 気にしていたのではない。引っ張ってみたかっただけ。手に入れたかっただけだった。


 なぜそこまで風丸の髪の毛が気になるのだろう。
 円堂自身も疑問であった。
 授業中、試しに自分の髪を弄ってみたが何も感じない。
 他の生徒の髪を見回しても、特に何とも思わないのだ。
 だがあの時に触れた風丸の髪の一本の感触が、どうしても忘れられない。
 一瞬の記憶が、思い出を引き摺っている。


「円堂。行こうぜ」
 クラスメイトの誘いの声に、円堂は髪を摘まんだ指を離す。
 次の授業は体育のプールだ。
 更衣室に入ると、まだ前の授業の生徒――風丸のクラスが残っていた。
「急げ急げ」
 ある生徒がタオルを抱え、人一倍着替えの遅れている生徒の髪を挟み込む。
 白いタオルの隙間から零れる青い髪。風丸であると遠目から円堂は悟る。
 風丸は髪を拭いてくれた生徒に礼を言ってからタオルを取った。彼はまだ上着を着ていない。裸の背中は水気を保っており、髪が貼り付いてしまっている。
 風丸の持つ髪と肌のコントラストは調和を保っていた。持って生まれたものだからこそ、自然さを醸し出している。彼の髪は彼のものだからこそ、よく似合う。
 先日、風にさらわれた一本。朝、抜けきらなかった一本。自分の手に残らなくて良かったような気がした。あの色は、あの肌にこそ相応しいのだ。
「なあ円堂」
 不意にクラスメイトが肩に手を乗せて話しかけてくる。
「あれ、風丸だろう」
「ああ、そうだな」
 返事をするのみだった。たぶんクラスメイトの言い方には“知り合いだろう?”という意味が含まれている。
 普段の自分なら、風丸の着替えを手伝ってやっていただろう。風丸はきっと困っている。
 なのに、踏み出せなかった。風丸の髪と肌に目を奪われて動けない。
 今までの有り触れていた光景が、特殊なものだと悟ってしまったのだ。
 下ろされた腕の先で、円堂は手を開閉させる。
 風丸の髪が手に残らなくて良かったと思っているくせに、この手は欲しがって仕方ない。貪欲に求めている。
「っ」
 円堂が眺めている間に、風丸は着替えを終えて横を通り過ぎた。
「円堂じゃないか」
 風丸が気付いて声をかける。
「風丸」
 円堂の瞳は濡れた風丸の髪に向けられていた。肩にタオルをかけ、水を吸った髪はまとめられずに下ろされている。
「円堂……」
 円堂は今日ずっと目を合わせてくれない。髪ばかりを見ている。風丸は静かに顔をしかめた。
「俺の髪に何かついているのか」
 己の髪を持って円堂に向ける。円堂の瞼が震えて反応したのを見逃さない。
「うん?良いなと思って」
「円堂も伸ばせば?」
「いや、そういうんじゃない」
「ふうん……」
 円堂と風丸の裾をそれぞれのクラスメイトが引いた。
「行くぞ」
 二人は曖昧な返事をして別れる。


 円堂も伸ばせば?
 風丸の言葉が頭の中で再生された。
 そんなつもりは全く無かった。風丸と同じになるつもりは無い。
 この執着は憧れではない。
 例えば美しい景色を見て、景色自体になりたいと思うだろうか?
 否。そんなものだろう。
 別のものだからこそ意味がある。目で見て触れて、感じるからこそ価値がある。


 踏み入れた歪みの世界。
 自問自答を繰り返し、手探りで奥へと沈んでいく。


 円堂の瞳はずっと風丸の髪を追っていた。放課後の校内グラウンドでの練習中もだ。
「円堂」
 不審に思っていた豪炎寺がとうとう行動に出る。
「円堂」
 肩を掴み、自分の方へ向けた。
「どうした。おかしいぞ、お前」
「わかってる。どうしたんだろう、俺」
「しっかりしろよ」
 ボールを持たせ、肩を叩いて発破をかける。
 身体はサッカーを求めているのに、目は風丸の髪に意識が向く。別々の方向へ行って、心と身体が内側から裂けてしまいそうだ。
「なあ豪炎寺。豪炎寺は風丸の髪をどう思う?」
「はあ?少し、鬱陶しそうに見えるな」
 俺はごめんだ。豪炎寺は肩を竦める。
「良いと思わないか」
「んー……まあ、そうかなあ……。風丸には似合うんじゃないか」
 唐突な質問ではあるが、何か意味があるのだろうと豪炎寺は自分なりの回答をした。
「なんなんだよ、一体」
「そっか」
 円堂は頭を振ってから笑顔になる。いつもの彼らしさが戻ったようだ。
「悪かったな豪炎寺。皆にも謝らなきゃな」
「頼むよキャプテン」
 軽く手を上げ、豪炎寺は戻っていく。
「そうだよな……」
 一人呟く円堂。
 風丸の髪が彼らしいと思うのは何らおかしな事ではない。わかったら安心ができた。
 歪みへの脱出の兆しが映り始める。しかし、そう簡単に抜け出せるものでは無かった。


「壁山!」
 仲間たちがざわつき出す。
「円堂!来てくれ!」
 染岡が呼んでいる。
「どうしたっ」
 円堂も駆けつけた。
 仲間たちが囲む中心に座り込む壁山がいる。どうやら足をくじいてしまったようだ。
 マネージャーの木野が具合を確かめている。
「壁山くん、痛いのはここね」
「そうっす」
「学校だし、保健室に行きましょ」
「はい……」
 さて保健室に連れて行くのは決まったが、壁山の巨体は女の木野ではどうしようもない。
 男数人で立ち上がらせ、キャプテンの円堂とディフェンス陣を取り仕切る風丸の二人がかりで壁山を運ぶ事になった。
「面目ないっす」
「なに、困った時はお互い様さ」
 よいしょ、よいしょ、二人は声を合わせて壁山を進ませる。
 なんとかして保健室に着いたものの、肝心の先生がいない。生徒すらいないので、理由も問えない。
「しょうがないな。道具はあるから、俺が治療するよ」
 壁山を椅子より幅の広いベッドに座らせ、円堂と風丸は足の治療を始める。
 治している最中に先生は来てくれると淡い期待をしたものだが、誰も来ずに治療は終わった。
「どうだ壁山」
 円堂は屈み、包帯を巻いた壁山の足を完了とばかりに軽く叩く。
「おかげさまで痛くないっす。円堂さん、風丸さん、有難うございます」
「しばらくベッドで安静にしたらどうだ?」
 風丸がベッドに腰掛け、円堂も壁山を挟むように座った。
「いいえ、休むならグラウンドに戻りたいっす」
 壁山は立ち上がり、保健室を出てしまう。
「おい……大丈夫かよ……」
 後を追おうと立ち上がろうとした風丸は、はじかれたように円堂を見る。
 ベッドに無造作に置かれた手の上に、円堂が重ねてきたのだ。
「円堂……?」
 円堂の顔は扉の方を向いていて、表情が見えない。
「風丸」
 円堂が風丸に向き直る。布擦れの音をたてて、身体を近付けた。
「捕まえた」
 円堂の丸い瞳がきょろりと動いて、風丸を見据える。
 円堂が見詰めるのは髪ではなく、目。


 やっと、合わせてくれた。
 風丸は今日初めて、円堂と出会えたような気分だ。
 だが、どこか苦しさを覚える。
 鼻腔を保健室独特の薬品の香りがくすぐっていた。










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