重ねられた手に上からじわじわと伝わる体温。
薬品が香る二人きりの保健室。
放課後で外も静まり返っている。ときどき運動部の元気な声が遠くからするだけ。
呼吸が。布擦れが。僅かな動きでも耳に届く。
風丸が悟られないように生唾を呑むが、恐らく目の前の円堂には知られただろう。
よく知った相手だが、こうして静かに見詰め合う事などなかった。
沈黙の先の視線の交差。それだけでは何もわからない。
歪み
- 後編 -
「円堂……」
表情を強張らせ、風丸が口を開く。
「壁山を、追いかけないと」
小声になり、終わりの方は消えてしまった。
「そうだな。でも、少しだけ……」
「少し?何を?」
「髪を、触らせてくれないか」
至極真顔で、円堂は言う。
風丸は呆気に取られた後、怒りが急上昇するのを覚える。
「円堂っ、お前なあ!」
重ねられた手を抜き取り、ベッドに己の手を叩きつけた。
「なんなんだよ!今日の朝から俺の髪ばっかり見やがってっ!」
声を荒げても円堂は動じない。返って来た声も落ち着いていた。
「ごめん。風丸の髪がさ、良いと思って。つい」
「髪って。俺たちは付き合い長いけれど、そんな事言うの初めてじゃないか。円堂はそういうの、気にしないタイプだと思ってた」
「そうだったかもな……昨日までは」
「話してくれないか」
円堂は小さく頷き、語り出す。
「昨日の練習の終わり……。ベンチに置いてあった俺の学ランの上に風丸の髪が落ちていたんだ……」
「っ……」
風丸は心当たりに目を一瞬見開いた。
抜け毛など自然に落ちてしまうもので気になどしていないが、円堂の学ランに落ちた髪は覚えがあったのだ。
先日、帰りの支度を整えていると風丸は顔の横で自分の髪は一本落ちるのを見た。
それは円堂の学ランの上に音も立てずに乗る。
拾おうとしたが、後ろで豪炎寺が呼んでいる。
たかだか髪の毛一本。相手は円堂。気にしないでいてくれるものと思っていたのに――――
「俺、拾ってさ。触ってみたらすげえ艶々してんの。でもうっかり落としちゃって。忘れられなくてさ」
嬉しそうに微笑むと、落ち込んだ素振りを見せる円堂。
見過ごした一本は、円堂に執着を覚えさせてしまった。
あの時拾って捨ててさえいれば。しかし過去のやり直しはきかない。
「気にしなかったのは、気付かなかったからだ。風丸、お前は綺麗な髪をしているな」
円堂らしくない。風丸は目の前の彼を否定したくなる。
しかしそれも円堂の言う“気付かなかった”のだとすれば、これも彼の一面なのだろう。
人が人を知るのに、どれだけ時間をかけても全てを知る事は難しいだろう。
人は常に変わり、知らないものを吸収して知ったものを忘れもする。止められはしない。
「俺、おかしいかな。風丸の髪は風丸らしい。豪炎寺も言ってた」
豪炎寺が賛同したのは“風丸の髪型”についてだ。
少し前の過去さえ、こうして変容していく。
「円堂。俺は驚いているだけなんだよ。お前は本当に、そんなの気にしなかったからさ。外見とか、年齢とか、そんなの気にしないでサッカーに打ち込むお前が」
好きだった。
風丸は言葉を飲み込んだ。
「気にする俺は嫌いか風丸」
「嫌いとは言わない。髪だって、触らせてって言ってくれれば良いよ。好きに触れよ」
「良いのか、触って」
風丸は座り直し、手を膝に置いた。
「触るぞ」
円堂がまず額の横の前髪に触れてくる。乗せるように、彼の手は優しい。
次はポニーテールでまとめられた後ろ髪を手に取り、流して見せた。
「ふわふわしてる……」
「そりゃ髪だからな」
風丸の髪に触れる円堂の顔は無邪気で、楽しんでいる様子がありありと伝わる。まさに彼らしい。
風丸は安堵を覚えた。
「風丸」
前髪を避けて、隠れた目を覗き込んでくる。恍惚とした円堂の瞳に、風丸は妙な雰囲気になる空気を読み取った。
「円堂。もう」
もう良いだろう。風丸を遮り、円堂は放つ。
「俺、着替えている風丸を見た。風丸の髪の色は、風丸の肌に良く合ってる」
「え……」
「なあ、この通りだ」
手を合わす円堂。
「脱いでくれ」
「いやだ」
疾風の即答。
「良いじゃんっ。減るもんじゃないし」
「いいや、俺の中に何かが減る」
「頼むよ。なあ」
円堂は風丸の両肩を押さえて揺らす。
「少しだけって言ったろ。そろそろ戻ろう」
「上だけで良いから。なあ、なあ」
強い力で風丸の身体をベッドに押し付ける。
「円堂っ、お前……!」
押し戻そうと抵抗するが、円堂は風丸のユニフォームを捲り上げてきた。
「うわ、うわ」
胸に腹に涼しい空気が入り込む。
ユニフォームは口や目の前まで上げられ、声がくぐもり視界が塞がる。
「んぐっ…………やめろやめろ……」
足をバタつかせると円堂の身体にあたった。何をどこに触っているのかもわからない。
見えない風丸がもがく一方で、円堂の視界には風丸の半裸が広がっていた。
筋肉がほどよくついた均整の取れた身体。彼が呼吸をすれば胸が上下する。成長途中であり、子供と大人のアンバランスさはその年でしか形作れない。未成熟な輪郭は、寿命の短い花のような儚い色を醸し出す。しかし髪が気になる、同性で同年代の円堂にとってはそんな事はどうでも良かった。
強引に上着を脱がせれば、そこには顔を赤くした風丸が出てくる。怒っているのか恥ずかしがっているのかはわからない。風丸が早くしろと言うので急いだまでだ。
「円堂……」
風丸の声色に怒りがこもる。
風丸からすれば、突然押し倒されて脱がされ、視界が解放されたと思えば円堂が跨って見下ろしている。
しかも抵抗した足は股を開いて円堂の身体を挟み込む形になっており、あまりの光景に天井を仰いだ。
「ホントに髪を見るだけで良いんだな」
「ああ」
「もういいよ。お前がそこまで言うなら見ろよ」
風丸は自分のヘアゴムを抜き取り、半身にかかるように掻き乱す。
散る髪の一本一本が風丸の肌に触れる事によって、最高の彩を見せる。まるで一枚の絵画のように円堂の瞳には映った。
「すげえ……すげえよ風丸……!」
円堂は随分と興奮して騒ぐ。彼はどこまでも本気のようだ。彼に偽りはない。
怒りは昇華され、再び呆れへと戻る。
髪への執着を抜けば、風丸の知る円堂であった。同時に彼はたった一本の髪によって、本当に歪まされてしまったのだと決定を打たれた気持ちだ。
たった一つの変化で、彼への評価が逆転にはならない。彼は今まで通りの風丸の友人であり大事な存在だ。受け入れられるかは、まだ気持ちは定まらないが。
「戻るぞ。円堂」
「ああ。良かったよ風丸」
差し伸べられる円堂の手を風丸は握った。
戻って来れば仲間たちは“保険の先生が来て話しをしているものだと思った”と、なかなか戻って来ないのには特に疑問を思わなかったようだ。
曖昧な思いは強い意思に引き込まれていく。
抜け出す術を知らず、奥へ奥へと引き摺られて。
溶け合えば感覚は薄まり、やがて正常だと心が思い込む。
あれから数週間が経った。
雷門中のグラウンドでは円堂が先陣をきって仲間たちと走り込みをしている。
動けば揺れる風丸の髪を気にする様子もない。
変わりの無い日常が静かに流れて今日の練習が終わり、部室で着替えを済ませる。
「お疲れー」
「じゃあな」
「また明日」
仲間たちは挨拶を交わし、一人また一人と帰っていく。
せっせと片付けをする木野にキャプテンの円堂は声をかける。
「木野、あとは俺がやるから帰って良いよ」
「そう?じゃあ明日ね」
木野も帰る。
まだ部室に残るのは円堂、風丸、豪炎寺の三人。
「さて、と」
円堂は部誌を開き、帰ろうとした風丸の横顔に密かな視線を送る。
「忘れる所だった」
持った荷物を置いて風丸はロッカーを開けた。
「俺は帰る。またな」
そのすぐ後に豪炎寺が軽く手を振って部屋を出てった。
円堂と風丸の二人きりになるなり、風丸はぼやく。
「円堂。また?」
「いつも言うだろ。減るもんじゃないし」
はあ。わざとらしい溜め息を吐き、風丸はロッカーに寄りかかった。円堂は内側から扉の鍵を閉め、風丸に向き直る。
「せっかく着替えたばっかりなのに」
風丸はぶつぶつ呟きながら、ヘアゴムを外して手首にはめて学ランのボタンを外しだした。次にシャツのボタンをはずして二枚まとめて脱ぎ捨てる。薄暗い室内に浮かび上がる素肌。
「はい」
適当に腕を組み、完了を告げた。
「やっぱりお前の髪は最高だ」
円堂は親指をたてる始末。
円堂の風丸の髪への執着は治る事無く続いていた。
彼は触れたり、眺めるだけで満足らしく、風丸もそれとなく付き合い、月日だけがずるずると流れていく。
この間、風丸は顔を円堂から逸らしていた。
まだ受け入れられていない。だが明確な拒否を示すほどでもない。曖昧な境界に立たされていた。
「円堂」
横で円堂が髪を弄るのを感じながら、呟くように囁く風丸。
「俺さ、お前だからこうしているんだ。そこんとこ、よく覚えていてくれよ」
「わかってるよ。俺だって風丸じゃなきゃ言い出せなかった」
風丸の瞳が円堂を見据える。そこに揺らぎは見えない。
心が通じ合う感覚はあるが、安らぎは無い。
長年築いてきた絆は、ある髪の毛一本によって歪まされた。
曲がりくねり、痛みを避けて関係は続いていく。行き着く場所は見えない。
様々な感情が入り混じりはするが、奥底にあるのは相手を想う愛。
それだけは確かだと信じたかった。
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