声が聞こえる。
 必死で呼びかける声が聞こえる。
 叫ぼうと口を開けば泡が昇る。
 求めようと伸ばした手さえ抜かして、天へと昇っていく。


 息が苦しい。
 視界が霞む。
 音が遠くなっていく。
 もがいても、もがいても、身体は沈んでいく。
 寒くて暗い、水の底へ。


 怖い。寂しい。死にたくない。
 指先に神経を集中させて、懸命に伸ばし、求めた。
 余計に苦しくなるのも構わずに、唇は名を何度でも刻む。
 呼び続けてくれているであろう、あの声を。



水面の声
- 1 -



 とある日の夕方。円堂と風丸と豪炎寺の三人は河川敷を通って、練習後の帰路を歩んでいた。
「おっと」
 元気の良い子供が前を横断して、思わず立ち止まる。
 歩き出そうとした所を、風丸が川の方を眺めて声を上げた。
「綺麗だなぁ」
 川は夕日の光を浴びてオレンジ色に染まり、キラキラと煌く。
「本当だ」
 豪炎寺は歩道を降りて、川に駆け寄った。風丸も続いて歩道を降りる。
「二人とも」
 円堂は呼び戻そうとするが、応えない二人に周りを見回した後、後を追う。
 川の水があまりにも綺麗だから、意味もなく身を屈めて手ですくう豪炎寺。
「はは」
 水自体には色は付かないのに、夕方にしか取れない特殊な水に触れた気分になる。
「なあ円堂。覚えているか」
 風丸が円堂を見た。その顔は本当に嬉しそうな表情。
「昔、俺がここで溺れた事」
 豪炎寺が反射的に風丸を向く。
「ん、ああ」
「当時の俺たちより小さい子供が溺れていて、俺が円堂を抜かして速く飛び込んでさ、助けたら逆に溺れちゃって……。本当に死ぬかと思って滅茶苦茶怖かった。でも円堂が助けてくれて……」
 風丸は胸に手をあてた。高鳴りがはちきれんばかりの喜びを押さえ込むように。怖い経験なのに声は踊っていた。
「円堂は命の恩人だよ」
「そんな大げさな。あの話はもう良いって言っただろ」
 円堂はあまり乗り気ではないらしく、話にも、この場所すらいたくはない様子であった。
「だって嬉しかったんだ。何度でも感謝したい」
 愛おしそうに風丸の目が細められる。そのタイミングを見計らったように円堂はそっぽを向く。
 横で聞いていた豪炎寺は歩道へ戻ろうと指で示して合図を送る。
「その話、初めて聞いたよ」
「俺は皆に言って聞かせたいくらいだけど、円堂が嫌がるからさ」
「何度もはさすがに困るって」
 そりゃそうだと豪炎寺が笑い、話題は別のものに変わった。河川敷を抜けて住宅街の最初の角で風丸と別れる。二人きりになった後、豪炎寺が呟くように言った。


「円堂。風丸を助けた事をなぜ避ける。何かあるのか」
 円堂は横目で豪炎寺を見て、進行方向に視線を移す。
「言いたくないのなら構わないが。お前にしては珍しい態度だったから」
「わかっちゃった?」
「なあ、言いたくないなら……」
 足を止める円堂。数歩先を進んで豪炎寺も止まる。
 俯き、地面を見下ろして息を吐くように放つ。
「あれさ、助けたの俺じゃないんだ」
「そうなのか。一体誰が……」
「内緒。約束したから。風丸はすっかり俺のおかげだって信じているけど、本当の事は言えない」
 豪炎寺は何か声をかけようと薄く唇を開くが、発せずに閉ざしてしまう。
「風丸が俺を好いていてくれるのは、あの時俺が」
「それは違う……と思う」
 強い否定の後に、弱々しく述べる個人的主観。
「あれからだ、急に仲良くなったのは。真実を知ったら風丸は」
「そんな事はない。円堂、俺は本当の事など知らないが……」
 円堂の肩に手を置き、振り向かせようとしたが反射的に退けてしまった。
 張り詰めた円堂に吃驚したのだ。
「いつかアイツは来るんだ。風丸をさらっていく」
「いつかって、随分前の話なんだろう」
 まるで迷信のような物言いの円堂を豪炎寺は説得する。
「予感がするんだ。きっとまた、会う日が来るって」
「落ち着けよ円堂。そんな日が来たってどうもしない。風丸はお前が、さ」
 好きなんだから。
 照れて続く言葉は濁してしまった。
 傍にいて、目で見て、話を聞いて、風丸が円堂を深く慕っているのを豪炎寺は知っている。
 哀れなのは寧ろ風丸の方だ。いつ来るかわからない根拠のないものに勝手に怯えられているのだから。
「とにかく、心配したってどうにもならないだろ」
 軽く叩いて励ます。
「そう、だよな。豪炎寺に話して良かったよ」
 顔を上げ、ぎこちなく笑う円堂。
「…………………………」
 視線が交差すると、今度は困ったように肩をすくめた。
 笑顔はどこか悲しそうで、こちらまで寂しくなって半眼になる。
 豪炎寺は想像以上に、円堂は風丸が大事なのだと察した。素直にそれが良い事のようには思えない。
「…………………………」
 言いたい事はたくさんある。だがそれは彼自身も十分自覚しているだろう。あえて何も言わない沈黙は、無言の信頼であった。
 円堂は豪炎寺に感謝を囁き、歩き出した。


「ただいまー」
「おかえり、守」
 帰宅すると母が迎えてくれた。食事がもうすぐ出来る、良い匂いがする。
 飯を食べ、風呂に入り、自室のベッドにうつ伏せで飛び込んだ。柔らかな布団が疲労を吸収してくれる。
「はあー……」
 寝返りを打ち、仰向けになって腕を広げた。瞼を閉じると、あの頃の思い出が蘇りそうになり、瞬きをして開く。
 豪炎寺は言ってくれた。そんな日が来たってどうもしない、と。
 何度も思ってきた言葉を、自分以外の人間が口にしてくれるのは心強い。
 けれども、あの日、あの時、何があったのかは話していない。
 あれは約束。誰にも話してはいけない、秘密を交わした。晒される事なく、胸の中で今も息づいている。
 胸に手をあて、安らかに目を瞑った。






 昔、河川敷で風丸と一緒にサッカーボールを追いかけていた。
 途中で穏やかではない声を耳にして、駆けつければ自分たちより小さい子供が川で溺れている。助けに向かえば、足の速い風丸が飛び込んでいた。
 子供はすぐに助けられて円堂が受け取った。良かったと安堵するのも束の間。濡れた服が錘になって、風丸を川から引きあがらせない。慌てて泳ごうとしても陸地に辿り着けない。
「円堂!」
 風丸がもがき、手を伸ばす。
「風丸!」
 円堂も飛び込もうとした。だが、水に足を踏み入れた時、何かに躓いて転んだ。
 起き上がる僅かな時間さえ、風丸を流し、二人の距離を広げさせた。
「風丸!風丸!」
 円堂は追いかけた。水に入り込む間が読めず、ただ風丸を追うしか出来ない。この日は運悪く、雨上がりで水の流れが速く、量も多い。
 風丸の声がしなくなってきた。動きもあまり見られない。
「風丸!」
 必死で叫んだ。叫んで叫んで、彼の姿がわからなくなった。
 追いかけた先は、流れはゆるやかなものの、深くて危ない場所だった。
「風丸!どこだ!風丸!!」
 水の中に入り、手でかいて捜そうとする。
「風丸……風丸…………」
 声が掠れ、一気に押し寄せた不安に震えた。
 散々叫んで声が小さくなったら、辺りはしんと静まり返っていた。
 誰か助けを呼ばなくては。見回しても人間が見当たらない。
「…………………………」
 顔が蒼白になる。目から情けない涙が溢れた。
「風丸…………」
 口から出るのは細い声。


「!」
 不意に背後から水音が聞こえた。
 はじかれたように振り返ると、風丸が河原に上げられていた。
「か……………」
 最初の一文字を形作ったまま、唇が硬直する。
 風丸の傍には助けてくれたらしい人物がいた。
 波打った淡い桜色の髪が印象的な、同じ年くらいの少年――――
 濡れており、存在の色を濃く映し出す。
 印象深く感じるのはそれだけではない気がした。本能が普通とは違う何かを読み取っていた。
「…………………………」
 円堂は顔をしかめ、一歩一歩、風丸と少年に近付く。
 少年は風丸の前で膝をつき、鼻と口に耳を寄せる動作をしていた。今にして思えば、たぶん呼吸を確かめていたのだろう。
 少年に警戒心はあったが、円堂は助けられた風丸の姿に愕然とした。
 全身ずぶ濡れで、ぐったりとしている。肌は真っ白な陶器のようだった。
「風丸!」
 円堂は崩れ落ちるように座り込み、風丸の手を握る。
 手は冷え切っていた。柔らかな肉から体温を感じ取ろうとする。
「風丸っ」
 頬に寄せて目を瞑る。硬く瞑られたそこから、また涙が溢れた。
「…………………………」
 少年は黙々と呼吸する胸を凝視し、脈を調べる。
 瞳がきょろりと動き、円堂を見据えた。
「案ずるな。息はある。その内、目を覚ますだろう」
 淡々として落ち着いてはいるが、発するのは声変わりのしていない子供特有の音だ。
「本当か……本当に、風丸、大丈夫なのか?」
「ああ」
「有難う。有難う……!」
 円堂は少年に感謝する。
「礼には及ばない。……そうだ。一つ、約束をしてくれないか」
 真剣な眼差しに、円堂も真剣に頷く。
「オレに会った事は、絶対に秘密にしてくれ。誰にも話してはならない。本来、オレは人前に姿を見せてはならないんだ……ましてや、接触するなんて……」
「なんで?」
「そういう、テストをしている最中なんだ」
「わかった。誰にも言わないよ」
 よくわからないが、風丸の恩人との約束を何が何でも守ろうと誓う。
「かたじけない。また、いつか……会えるなら……今度はゆっくりと話をしたい。彼とも……な。ここには知りたいものがたくさんある……」
 無表情だった少年が微かに微笑む。
 もう一度、礼を言おうと円堂が瞬きをした時。少年の姿は霧のように消えてしまった。


 少年がいなくなると、円堂は再び不安に襲われる。
 風丸はまだ目を覚まさない。
「風丸……風丸……」
 少年を信じて、何度も呼びかけた。
「風丸……風丸……風丸……」
 目覚めを祈った。神様にも祈った。


 神様。ああ、神様。
 風丸を助けてください。
 また一緒に遊びたいんです。
 風丸が助かるんなら、なんでもします。
 俺は、どうなってもかまいません。


「風丸……!」
「………………………う」
「え?」
「……………どう………」
 薄く開かれた風丸の唇から“円堂”の名が漏れる。願いは叶ったのだ。
「円堂…………」
 瞳をゆっくり開く。その形が微笑んでいるように見えて、円堂も笑う。泣き笑いではあるが。
「円堂」
 もっとはっきりとした声で呼んでくれる。
「円堂が……助けてくれたんだよ……な……」
「え」
 返答に詰まった。肯定も出来なければ、否定も出来ずに固まる。
「有難う……」
 風丸が笑う。本当に嬉しそうに、幸せそうに。こんな顔、見た事が無いくらいだ。
 花が再び咲き返すように、目覚めた風丸は生まれ変わったような感じさえ覚える。
 風丸の瞳は、それは愛おしそうに円堂を一心に見詰めてくれた。風丸は円堂が助けてくれたと信じ込んでいる。他には誰もいないのだから当たり前だろう。真実は違う。少し前に、本当の恩人がいたのだ。
 子供ながらに、風丸の一番はあの少年になってしまったのだと思った。
 少年はいつか会いたいと言っていた。会ったらきっと、風丸は少年の下へ行ってしまうだろう。
 風丸の目覚めを一心に祈った円堂にとって、祈りの時はこの世で彼が唯一であった。
 一番に風丸を望んだ時、絶対に一番にはなれない絶望を与えられたのだ。


 なんでもすると祈った。
 どうなってもいいと祈った。
 神様は、そのままを与えたに過ぎない。これは、相応の報いなのだ。






 思い出から目覚めれば部屋の中は薄暗かった。
 少年はまだやって来ない。けれども、あの日の思い出を語る風丸が、約束を更新し続けてくれる。
 真実を言えないのは苦しい。時間の流れは麻痺をさせてくれるが、こうして思い出に浸れば痛みは蘇る。


 翌日の朝、部室に入ってくるなり風丸は謝ってきた。
「円堂。昨日は悪かった。お前が嫌がっているのに話しちゃって」
「いや、いいって」
 頭を振る円堂。まだ二人以外は来ていないので、内緒話も声が大きい。
「ちょっとだけさ、豪炎寺に自慢したかったんだよ」
 はは。愛想笑いを浮かべ、円堂は風丸の横を通ってロッカーを開ける。風丸は鞄を机に載せて、中を開けだした。
 それはあくまで振り。背中から、風丸の視線を浴びた。
 温かく、ときどき冷やりとする。自慢、とわざわざ口にしたのはカモフラージュだとお見通しだった。あれは秘められた合図なのだ。


 風丸は円堂が好きだった。
 それは友愛の一線を越えたものだった。
 友愛は、あの日を境に別のものに生まれ変わった。
 息を吹き返すと瞬間に、友愛が恋愛に落ちたのだ。
 告白もされている。
 けれども、心の整理がつかないと保留にしていた。
 円堂が嫌がっても、あの思い出話を口にしだすのは“あの時の返事はどうなっている?”という遠まわしの確認。
 風丸がしてくるのはそれだけだ。
 自分の想いより円堂の意思を尊重してくれているのだろう。


 円堂も風丸が好きであった。
 あの日、目の当たりにした風丸が生まれ変わる感覚。
 それは円堂自身が落ちた時でもあった。
 二人は相思相愛。
 性別など関係はない。あの日、あの場所、あの瞬間に、二人の世界は互いの姿しかなかったのだから。
 しかし真実は違う。風丸が好きになるべき人物は、あの少年なのだ。
 どうせ離れてしまうのなら、友達のままの方が色々都合は良いだろう。円堂だけではない、風丸にとってもだ。
 だったら告白もすっぱり断れば良かった。
 だが、道理だけでは切り離せず、引き摺ってしまった。
 未練。諦め。ささやかな期待。中途半端な情が漂う。


「…………………………」
 風丸の視線が背中から逸れるのを悟る。
 悲しませてしまっているのに、どうにもできないし、したくない。
 俺、風丸が好きなんだ。
 声に出せたら、どんなに救われるだろう。
 愛の囁きは、心に抱くだけで胸が痛んだ。










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