水面の声
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 雷門のある関東から離れた地――――戦国伊賀島。
 山の奥深くにあり、忍者と呼ばれる者たちが住んでいた。
 普段は物静かな彼らだが、最近よくざわついては教師に叱られている。
 それというのも、サッカー部がフットボールフロンティアで全国大会へ進出し、関東の密集している人里へオフィシャルな名目で降りられるからだ。忍者は忍ぶ者と呼ばれる通り、使命がなくては人前に現れる事は許されない。ましてや勉強中の学生などもってのほかである。
 しかし、そのフットボールフロンティアは一回戦で雷門中に敗れてしまった。わざわざ秘伝書を取りに敵地へ赴いたのに、だ。けれど、それさえももう終わった事。生徒たちは関東への思い出が語り尽くせずお喋りになっていた。
 忍びの家に生まれ、忍びの中で育った子供は都会に憧れを抱く者も少なくはない。サッカー部の中だってそうだ。


「楽しかった……な……」
 学校の一番高い木の上で、風魔は呟く。そっと差し伸べた手の上を鳥が舞い、一休みをして大空へ飛び立って行く。
「お前は暴れ足りなかったんじゃないか」
 下を見やる。同じ木の幹に掴まる霧隠が顔を上げた。
「人一倍、外に憧れていたろう」
「…………………………」
 霧隠は瞬き、景色に視線を移す。
 忍びという者は普段からあまり口を利かないが、雷門戦からの彼はいつもにまして無口のような気がした。周りはまだ思い出に華を咲かせているので、余計に浮き立って見える。
 口で語らない分、素振りで相手の思考を読むが、どうも負けて落ち込んでいるのはないように思う。他に理由も見えず、仲間の誰も彼もが霧隠の様子に首を傾げていた。
「皆、心配している」
「…………………オレは」
 口を開く霧隠。
「今まで、大事な事を忘れていたようだ……」
 一人首を横に振り、姿が霧となって消えた。
「………………消えたな」
 風魔が言うと、仲間たちが木の上に現れる。そうして、風魔も一緒に皆と消えた。


 霧隠が再び姿を現したのは木の真下。特徴的な髪を流し、部室へと歩く。
 息を吸えば美味しい空気が肺に入り込む。周りは木々に覆われ、下級生らしき視線も感じる。霧隠は優秀な忍者で、目標とされる者もいる。
 視線を受けるのはエリートとしての宿命ではあるが、霧隠は良い気分がしなかった。鬱陶しいのではない、後ろめたいのだ。忍者になる修行をしていた幼い頃、たった一度、禁を犯してしまった。硬く禁じられていた掟を破ってしまった。どんな事態であっても許されはしない。例外を一度作ってしまえば、戦国伊賀島の忍びの技術は世に広まり、争いを生んでしまう。
 エリートが修行中に掟破りを隠蔽し、忍びと認められたなどと知れば、この視線はどう変わるのか。
「ふ」
 自嘲の笑みが口の端を上げた。


 禁。それは、半人前の身で一般人の前に現れ、あまつさえ接触した事だ。これは極めて危険な行為に値する。生半可な力の露出は破滅しか呼ばない。物心ついた頃から何度も親に躾けられている。教師にだって叩き込まれている。真面目で物分りの良い霧隠は十分理解していた。しかし、知識と実践は違う。
 才能を認められて遠征を許された日、生まれて初めて訪れた関東。雑音でひしめく都会で、姿を決して見せずに行動する試練を与えられていた。なのに、目の前で同じ年頃の子供が溺れ、助けを求められたら動かずにいられなかった。
 助けた時はとても優しい気持ちになれたが後悔の念が強かった。親や教師の落胆、友人たちの軽蔑――――怖くてたまらなかった。数日、夜はずっと震えていた。幸い、見つからず今に至り、都会への憧れも抱き続けたままだった。あの頃だけを、強引に封じ込めて。
 そして、再び訪れた関東。記憶の“たが”が外れるのを感じた。蘇る何か。しかし、試合に必死で思い返せない。全てが終わった時、散らばった記憶の断片が繋がっていった。


 ずっと忘れようとしていた約束を。
 今ならまだ、間に合うだろうか。


 鈍い音を立てて部室の扉を開ける。隙間から覗き見をすれば、百地がいた。横には高坂が机に突っ伏している。また熱を出したらしい。
 自然な動作で部屋に入り、彼らを素通りして選手情報が詰まっている本棚の前に立つ。
 敗戦した“ら行”の“雷門”を探し出し、ファイルを取り出そうと指が触れた。
「何をしている」
 百地が振り向かずに言う。
「今後の対策ですよ」
 ファイルを開き、ページをめくりだす。
「瞬きの回数、声の高低。どれを取っても嘘を吐いている」
 霧隠の横の景色が歪み、甲賀が現れた。
「忍びというのは厄介な生き物だ」
 手を止め、呟く霧隠。見下ろす視線の先には学校新聞の切り抜きが貼られており、いつかの試合勝利後のメンバーの喜ぶ姿が載っていた。


 白黒写真の中で無邪気に喜ぶ顔。
 穴が空くほど凝視して、やはりキャプテンの少年はあの頃の少年。
 傍にいるポニーテールの少年も、溺れていた少年のような気がした。
 あんなに近付いたのに、同じサッカーボールを追いかけていたのに、どうして気付かなかったのだろう。
 まさに灯台下暗し。
 霧隠は写真を見れば見るほど、心が温かくなるのを感じていた。
 あの頃の不安に染めた少年、死んだように動かなかった少年が、こうして二人一緒に笑っているのだから。しかもサッカーという、霧隠も好きなスポーツをやっていたとは。


「何を笑っているんだ」
 甲賀が眉をしかめた。
「確かめなくては」
 ファイルを戻し、行こうとする霧隠を百地が呼び止めた。
「……待て」
「オレの問題だ」
「あのな。忍びならそろそろ察してくれないか」
 甲賀が歩み寄る。二人の影が重なり、一つとなった。
「雷門に、忘れものをしてきたようなんだ。確かめに行かなくてはならない」
 昔の思い出を伏せ、今の行動の理由のみを口にする。
「霧隠。わかっているのか」
 より低くなる百地の声。霧隠は頷く。
 行きたいからと言って、抜け出せる場所ではないのだ戦国伊賀島は。
「そうか。では校長室まで同行しよう」
 断りの術は浮かばず、霧隠は百地と共に校長室へ向かった。
 戦国伊賀島の学校長は多くの忍びを統率する人物。サッカー部の監督でもある。里を出る時は許可を出さねばならない。


「失礼します」
 襖の前でしゃがみ込み、挨拶をして入る。校長室は純和風の造りをしていた。
 霧隠は簡潔に、関東の地へ行きたいと申し出た。
「任務ではないな」
「はい」
「高校生以下の忍者は任務がなければ里を出てはならない。わかっているな」
「はい」
 生徒手帳にもしっかり刻み込まれている校則だ。
 学校長の洗練された忍びの瞳が霧隠を見据える。部員としてではなく、ここへ直に訪れた態度に霧隠の揺るがない意志を感じた。
「忍者ではなく、ただの人間として行くのなら認めよう」
「有難うございます」
 霧隠は感激に口を綻ばせ、頭を下げる。隣に立つ百地は“ただの”という学校長の言葉に引っ掛かりを覚えていた。
「こちらへ来なさい」
 学校長は二人を座敷に呼び寄せ、後ろの古びた棚から壺を取り出し、中身を適当な湯のみに注いで差し出す。
「これは……」
 息を呑む霧隠。湯飲みの中の液体は黒く粘り気がある。飲んだら喉を詰まらせそうだ。
「飲めば喉に絡みつき数日の間、声帯を潰す効果を持つ。術は使えなくなり、普通の人間とそう変わりはなくなるだろう」
「……………………っ…」
 雷門で円堂と風丸に出会ったら、話をしたいと思っていた。声を失えば、どんな方法で二人に――――
 正座する足に置かれた手を握り締める。
「わかりました」
「三日間、外出を許可する。必ず戻ってくるのだぞ」
「はい」
 一礼をして、湯飲みに手を伸ばし、口元の前に持っていく。
「いただきます」
 深呼吸を数回。息を止めて目を硬く瞑り、一気に飲み干した。
 液体は口の中に入り込むと、蛇のように勝手に入り込んでくる。喉に付着すると、焼け付くように痛みが走った。


「……がっ………………」
 喉を押さえ、身体を震わせて蹲る霧隠。拍子で湯飲みが転がり、黒い染みが飛び散った。
「あ………っ………ああ…………う……」
「霧隠!」
「やめなさい」
 助けようとした百地を学校長が制止する。
「…………は……………っ………」
 額を地に擦り付け、苦しみに爪が立てられ、肉を掻き毟る。
 悲鳴を上げていた喉は、やがてひゅうひゅうとした空気の音しか鳴らなくなった。
「…………………………」
 荒い息を整えながら霧隠は顔を上げ、背を伸ばして倒れた湯飲みを起こす。
 その指先には引っ掻いて流した血がこびりついていた。
「では行きなさい」
 先に百地が立ち上がり、霧隠に手を差し伸べて起こし上げる。
 校長室を出ると、様子を伺ってきた。
「本当に、声は出ないのか」
「…………――――――」
 口を開けて発声の素振りを見せる。
「何を忘れてきたのかは知らないが、見つかると良いな」
 百地の覆面の素顔がどんな表情なのかは読めない。
 霧隠は薄く微笑むしか出来なかった。


 その後、家に帰った霧隠は前々から準備していた荷物を持って出て行く。
 術の使えない子供の姿に両親は涙したが、頭を下げて詫びるしかできなかった。
 里に一つしかない駅に行き、雷門行きの切符を買う。電車に乗れば、故郷はすぐに過ぎ去って森ばかりが窓に映りだす。
 霧隠の思う事は一つ。彼らに会えるだろうか、という事。
 声を失い、術も使えず不安が募る。だが、一度決めたことだ。
「…………………………」
 衣服の肩を掴み引っ張り上げると、それは雷門の学ランに抜き変わる。この日の為に夜なべして作製したものだ。
 元の服を鞄に詰め、膝の上に載せた。
 口から漏れる溜め息。関東までは長いのに、身体は緊張でくつろげない。周りの客にはお行儀良く座っているように見られているのだろう。
 窓に頭を付け、瞳を閉じて目だけでも休ませた。


「行っちまったな」
 電車が過ぎ去った線路を遠くから眺める目が四つ。藤林と初鳥だ。
 木の上の葉で身を隠し、藤林はライフルのレンズ、初鳥は望遠鏡で霧隠の乗った電車が過ぎ去る様を眺めていた。
「都会なんて怖い所なのに」
「俺たち忍者にゃ居場所はないさ。大会の事、思い出すよ」
 ライフルを置き、後ろ頭に腕を回して幹に寄りかかる藤林。
「会場で可愛い女の子がいてさ、ナンパしたら何て言われたと思う?」
「さあ」
「貴方、煙草の臭いがするわ。不良なのねって」
「…………………………」
 ぱちくりと瞬きする初鳥。
「俺、硝煙の臭いには気をつけていたつもりなのに。そん時、どんなに繕っても普通にはなれないんだなってさ」
「大会中に何やってんだよ……」
「そこかよ」
 呆れる初鳥に、話す相手を間違ったと藤林は後悔した。だが、大方の仲間は同じ反応だろう。






 雷門……雷門……。
 駅のアナウンスが聞こえ、霧隠は席を立って電車を降りた。
 見回せばどこも人に溢れ、硬い建物が威圧感たっぷりに覆い尽くす。
「っ」
 背中に衝撃を受け、つい転んでしまう。余所見をしていて誰かに当たったらしい。
 普段なら当たって倒れるような真似はしない。術が使えないだけで身体能力は落ちてはいない。恐らく、環境の変化に呆け気味なのだ。
 身を起こし、埃を軽く払って改札を抜ける。
 日が差し込み、手で一度目を隠して下ろせば、視界いっぱいに広がる雷門の町。
「…………………………」
 雷門の円堂と風丸があの頃出会った子供だと信じ、霧隠は足を踏み出した。










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