薄い皮の裂け目から覗く果肉。香ってくる甘酸っぱい匂い。
 目で耳で鼻で感じるだろう。そして想像するだろう。
 口を開け、舌で触れる味を。噛み砕き、喉を通る感触を。
 欲しくなるだろう。取り込みたくなるだろう。
 きっと、絶対――――欲しくなる。



禁断の果実
- 前編 -



 尾刈斗と木戸川が練習試合行ってから数日が経ったとある日。
 朝、地木流が部室に入ると甘い香りが鼻腔をくすぐった。何の匂いだと室内を見渡せば、武羅渡が部員に林檎を手渡している。
「あ、監督。おはようございます」
 振り返った彼と目が合えば近付いてきて、林檎を差し出された。
「これ、親戚からたくさん貰ったので」
「そうなのですか。有難う」
 受け取り、息を吸って果実の香りを胸いっぱいに取り込んだ。
 真っ赤な色が鮮やかな、美味そうな林檎――――同じように林檎を受け取った部員もそんな事を囁くのが聞こえた。
「なあ、毒林檎作ろうぜ」
「そうだそうだ、作ろう」
 ひひ、と声を潜めた笑いも聞こえた。
 尾刈斗生徒の言う“毒林檎”とは、林檎を禍々しい色でペイントをする遊びだ。もちろん皮で楽しむだけなので、中身はきちんと食べるし、それが基本のルールである。
「あの、監督」
 武羅渡がもう一度地木流を呼ぶ。
「どうしました?」
「こないだ試合をした……」
「木戸川清修ですか?」
「その監督の……」
「二階堂監督?」
「そうです、はい、二階堂監督です」
 地木流が武羅渡の伝えたい事を察して言ってやる。
「俺、倒れてしまって世話になったので、二階堂監督にも渡したいんです」
「武羅渡くん……」
 なんて君は良い子なんだ。
 地木流は監督として良い生徒を持ったと心の内で喜ぶ。尾刈斗の者は呪いばかりをかけている訳ではない“された事は必ず返す”をモットーとしているだけなのだ。それは恨みだけではなく感謝に対してもだ。
「では、私が代わって二階堂監督にお渡ししましょう」
「本当ですか」
 微笑む武羅渡。林檎をもう一つ地木流に渡そうとしたが、途中で引っ込める。
「待ってください。放課後に渡します」
「はあ……君がそうしたいのなら、わかりました」
 ぱちくりと地木流は瞳を瞬かせた。
 そして放課後、約束した通りに武羅渡は林檎を渡してくる。真っ赤だった皮は毒々しい色に塗りたくられていた。
「一生懸命、塗りました」
 朝よりもそれは嬉しそうに武羅渡は微笑む。まるで一労働を終えたような尾刈斗らしからぬ爽やかさだ。しかしこれが尾刈斗流でもある。どうせやるなら、相手をユーモラスに恐怖させたいのだ。
「食べたらイチコロになりそうな林檎ですね」
「はい!一口食べたら最期、一撃必殺です!」
 ちなみにこれも尾刈斗流の褒め方である。






 ところ変わって、木戸川の地では二階堂が家に帰宅してソファでくつろいでいた。窓から見える景色はすっかり日も暮れて夜になっている。今日も何事も無く一日が終わる――平和にささやかな幸せを抱く。そんな時であった。
 ピンポーン。不意にインターホンが鳴る。
 こんな夜更けに誰だろうか。二階堂はソファから立ち上がり、玄関の扉を開いた。
「こんばんは」
 扉の前に立つ訪問者が優雅に微笑んだ。尾刈斗の地木流である。
「……………………………………」
 突然の地木流の出現に、二階堂は現実を受け止めきれず何度も瞬きを繰り返す。
「夜分遅くにすみません」
 言葉だけの建て前を吐き、地木流は事情を語る。
「先日は練習試合でウチの生徒、武羅渡がお世話になりました。彼がどうしても貴方にお礼がしたいと言い出しまして、監督の私が代わりに伺った次第なのです」
「とんでもない、当たり前の事をしたまでです。来られるなら、一言言ってくださればおもてなしが出来ましたのに」
「いえ……伝えてしまったら二階堂監督にお断りされそうでしたので、失礼かと思いましたが何も言わずに来て良かった……」
 目を細める地木流。微かな瞼の動きに、二階堂の肩が揺れた。
 地木流灰人という男は底が深く、何を考えているのか全く読めない。彼の思考を読んだら負けだと本能も騒いでいる。彼の存在そのものが正体の分からない生き物を入れた箱のように、一つ一つの変化が神経を際立たせて肌を表面からびりびりと刺激するのだ。
「そんな硬くならないでください。用事が済んだらすぐ帰りますので」
 地木流は二階堂が自分の事を怖がっているのを知っている。そんなのは慣れっこなのでどうとも感じない。だが二階堂という男はそれなのに意志を曲げようとせず、行動するのだ。頑固――強引――はたまた考えなし――様々な言葉が浮かぶが早い話、純粋に凄いと思っている。けれども正直に伝えても彼はたぶんまた恐怖するのだろう。
「これを。中身は林檎です」
 手に持っていた紙袋を二階堂に渡して帰ろうとした。
「お待ちください。せっかく来てくださったんですから、どうぞ中へ。大したおもてなしは出来ませんが、お茶でも飲んで行ってください」
 今回も二階堂は行動に出た。
 本当は怖くて怖くてたまらないくせに。そう脳裏に過らせたら、つい笑いが込み上げた。
「すみません……」
「さあ、どうぞ」
 二階堂は扉を大きく開いて地木流を招き入れる。玄関で靴を脱ぎ、廊下を歩く中で二階堂は問う。
「ところで、どうして私の家を」
「生徒が念写をしてくれまして」
「え……」
 足を止め、振り向く。無表情の中に不安が押し込められている。
「冗談ですよ。選手情報にあった住所をインターネットで調べたまでです」
「あ……そうなんですか……はは」
 細い愛想笑いを浮かべた。
「もし、本当に念写だったらどうします?私を入れた事を後悔しますか?」
「しませんよ」
 呟くように二階堂は言う。彼の視線が前を向いたところで、地木流はそっと口元を綻ばせる。
 言った後で気付いた。そもそも後悔というものは過ぎた後でするものだ。二階堂にとってはまだ現在の真っ只中であり過去では無い。彼にとってこの現状は猛獣を自ら檻を外して入れたような気分なのだろうか。ひたひたと床につく足音でさえ神経を尖らせているのだろうか。喰われる事ばかりを頭でいっぱいにさせて密かに震えているのだろうか。
 なのにそれを全て隠して、人と人の接し合いを重んじている。どこまで彼は持つのだろうか。考えれば考えるほど、なんだか地木流は楽しくなるのを感じていた。悪い性質だというのは承知であるが、人とは元から悪なのだ。なんでも喰らう地上最悪の生き物なのだ。しかし認めてしまえば楽なのに、理性なんて何も得しない自尊心で正しくいようとする無意味を好む生き物なのだ。可哀想で哀れなのに、それさえも密かに快感を覚えている意味不明な生き物なのだ。


 二階堂の後姿を見据えて地木流は思う。
 貴方は私の事をどれだけ怖がっているのだろう、と。
 恐怖というものは手っ取り早い上に大きく心身を縛り付ける。大きいものがさらに大きければ、均衡が崩れて壊れる。壊れた時にこそ、本質が剥き出しになる。
 ああ。息を吐くように地木流は納得を覚えた。自分の望みを理解した。
 恐らく、本当の二階堂が見たいのだろう。


「どうぞ、あまり綺麗とは言えませんが」
 リビングへ入り、ソファへ座るように二階堂が促す。
 二階堂の家はマンションの一室。彼の言う通り確かに綺麗とは言い難いが十分な許容範囲である。
 地木流が座ると二階堂は貰った紙袋をソファ前の硝子テーブルに置いて、茶の準備をしに台所へ向かおうとした。
「地木流監督、何をお飲みになりますか。コーヒー、緑茶、紅茶とありますが」
「紅茶をお願いします。あと……」
「はい?」
「お皿とフォーク、ナイフか包丁を貸していただけますか。林檎を切り分けさせてください」
「それなら私が」
「いいえ、私にやらせてください」
 二階堂は頭を揺らすようにして頷いた。しばらくして彼がトレイに食器とナイフ、紅茶を二つ載せて戻ってくる。地木流の隣に腰掛けてテーブルの上にトレイを置いた。
「有難うございます」
 礼を言い、地木流は紙袋を取って中身の林檎を取り出す。
 赤とは異なる、紫だか黒だかわからない色に、隣の二階堂が絶句する様が肌から伝わった。
「珍しいでしょう。毒林檎ですよ。……武羅渡が一生懸命塗ったものです」
「塗…………、ああ、……塗ったんですね」
 口を引き攣らせるように上げて、二階堂は鼻から息を吐く。
「親馬鹿……監督馬鹿でしょうか……、良く塗れていると思うんですよ。おとぎ話に出てくる毒林檎が飛び出したみたいに」
「はあ」
 四つの瞳が林檎に注目する。
「元は真っ赤で美味しい林檎ですから、きっと二階堂監督にも気に入っていただけると思います。こんな色ですと、おとぎ話みたいに喉に詰まらせて死に掛けるかもしれませんね」
 二階堂の瞳が僅かに見開かれ、地木流の横顔を見て林檎に戻った。
「ああ、大丈夫ですよ。もし詰まらせて意識を失ってしまったら」
 地木流が二階堂へ顔を向け、放つ。


「私がキスで救いますから」


 ね?後押しするように、小首を曲げて薄く開閉する唇。狙いを定めるように瞳が動く。
 返す言葉が見つからないのか、二階堂は地木流に目を合わせるだけであった。
「さて、と」
 ナイフへ手を伸ばし、林檎を持ち直して皮を剥き始める。
 皮の下から薄き色のごく有り触れた果肉が現れた。香りは林檎そのものであり、中身は普通なのだと二階堂は改めて安堵を覚える。
 けれども皮剥きという行為は、なかなか時間を要するものだ。
 じょりじょりと少しずつ剥かれていく様を眺める二階堂は、なぜだか緊張を抱いていた。
 地木流と沈黙を過せないというのもある。次の理由は林檎だろう。
 今まで林檎などいくらでも食べてきた。食べる上でなんの問題も無かった。
 しかし、なんなのか。漠然とした不安が胸の中に疼いている。


 林檎を喉に詰まらせてしまうかもしれない。


 全く、ありえない話ではないのだ。
 百発百中という四字熟語があるが、百発あたったとしても百一発もあたる保障は無いのだ。
 もし詰まったら?咳き込んでしまったら?
 当たり前にこなしてきた経験が揺れだす。
 口の中が勝手に乾いて、唇も乾いてくる。
 紅茶は熱くてまだ飲めない。林檎の瑞々しさが目に付いて仕方が無い。










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