長く削られた皮が切れて皿に落ちる。
「あ」
 地木流と二階堂の呟きのような吐息が重なった。



禁断の果実
- 後編 -



「切れてしまいましたね」
 のんびりとした口調で地木流は放ち、皮むきを続ける。
「そういえば二階堂監督」
 視線を林檎へ向けたまま話しかけた。
「ご結婚はされているのですか」
「いいえ、独身です」
「恋人は?」
「いません」
 地木流の喉で笑う音が部屋に響く。
「私も独身です。恋人もいませんし、同じですね」
「はぁ」
 曖昧な返事をする二階堂。
 地木流と“同じ”と言われても、ちっともピンと来ないのだ。
「どんな女性がタイプなんですか」
「え、いや、その……」
 突然問われても浮かばず、返答に困る。
「ふふ……。二階堂監督、なぜ男は女を好きになるかわかります?」
「そういう仕組みだからとしか……」
「昔、本で読んだ事があります。男というのは危険と遊びを好む生物だと。それで、なぜ女を好きになるのか。それは、女がもっとも危険な遊びだかららしいです」
「なるほど……。聞いた事があります」
「あくまで精神論ですが、肉体的にも男と女が愛し合うというのは危険な行為。男女が惹かれ、子を産み子孫を繁栄させる……生命の成り行きは役割の終着点でもあります。生き物の中には性交をしたら死んでしまうものがある、命がけのものなのです」
「そう言われると怖いですね」
「けれども危険を冒さないと滅んでしまう。生き残る為に、危険を楽しむように出来ているのかもしれませんね」
 地木流の瞳が林檎から二階堂へ捉える対象を変えた。
「二階堂監督」
「はい」
「貴方は私を怖がっていますね」
「いえ、その……」
「正直に言っても良いんですよ。肌で感じます……貴方の震えを」
 目だけで笑ってみせる地木流の顔にもう一つの人格が一瞬浮かび上がり、素早く瞳を瞬かせる二階堂。
「恐怖というのはなるべく長続きしないように、本能が変換しようとします。願わくば、貴方の恐怖が好意へと変わって欲しい。先日の試合でも言いましたね……」
「……………………………………」
 二階堂は表情を硬くするだけであった。どう返答すれば良いのか、困惑を抱いている。
「困らせるつもりはありません」
 林檎を持ち直して視線を戻し、地木流は皮を剥き終えて、次は実を切り分けた。
「本当の貴方が見たいだけだ。友好的、にね」
「私は地木流監督と仲良くしたいと思っていますよ」
 はは。笑いを混ぜて二階堂が言う。地木流にその愛想笑いは仮面のようにも見えて、本物から距離を置かれた気分になる。
 彼は全くわかっていないと思う。本能の中には“逃げられれば逃げるほど追いかけたくなる”という野性がある事を――――。


「さあ、出来上がりましたよ」
 切り分けた林檎を皿に載せて、二人の間に置いた。
「召し上がってください」
 地木流がフォークを取って二階堂に渡す。紅茶を飲んでいた彼はカップを置いて受け取った。
「有難うございます。いただきます」
 礼を述べ、手近な欠片を刺して口元へ運ぶ。
 口を開ければ、先程の地木流の言葉が脳裏を過り、大口では食べられなかった。削るように、少しずつかじっていく。
「これは甘くて美味しいですね」
「気に入っていただけたようで良かった」
 地木流も林檎を食べる。
「この林檎、武羅渡に渡された時から甘い香りがして、美味しいだろうと思っていました」
 口元を綻ばせる地木流。そんな彼の一面を、二階堂は自分と変わらないサッカー部の監督だと思う。しかし彼に恐怖を抱いているのは指摘通り確かであった。決定的にあからさまな“何か”をされた訳ではないのに、空気というか雰囲気的に肌で感じる“何か”があるのだ。本能が漠然と危険の信号を出し続けているだけであり“何か”を直接目にしてなどいない。
 こんな感情は友好的に接してくれる地木流に悪いとさえ思っている。苦手だと一言で片付けられればどんなに割り切れるか。怖い怖いと恐怖しているくせに、地木流から目が離せないのだ。これは警戒なのか、興味なのか、二階堂自身もわからない気持ちが渦巻いていた。
 二階堂が思いを巡らせる横で、地木流は林檎の香りをすーっと鼻で息を吸う。
「ああ……実に良い香りだ。切っている間も感触などで、絶対に美味しいだろうと確信しました」
「これは本当に美味しいですよ。武羅渡くんにお礼を伝えてください」
「食べ物というのは舌だけではなく、目や鼻、耳でも感じられるのが良いです」
 地木流がソファの背もたれに重心をかけると、浮いていた二階堂の背に緊張が走った。
「こういう事はありませんか。食べる前の味の想像を」
「そうですね……」
 二階堂が二切れ目をフォークに刺す。
「どんな味や口触りかを、口へ入れる前に目で見て、匂いを嗅いで、耳を澄ます」
 地木流の視線が斜め後ろから二階堂の顔から胸、足へと流れていく。
 そこには猛獣が食そうとする野性と男の性的目線を察知して、二階堂は落ち着かない。視線のあたる箇所が、ぞわぞわとぞくぞくと見えない何かで撫でられる感じがした。自意識過剰では無いかと思いたいが、気のせいでは無いと本能が訴えてくるのだ。
 ごくり。不自然に喉が鳴る。林檎を詰まらせてしまったと捉えられないように、わざと咳払いをした。そうして、地木流を見やる――――。
「……………………………………」
 視線が交差し、地木流は微笑むように目を細める。
「貴方に毒は通じなかったようだ」
「怖い事を言わないでください」
 二階堂が返すと、地木流が声を上げて笑った。
「怖かったですか?ふふ、そうですか……。二階堂監督、やっと私に本音を言ってくれましたね」
「そう、ですか?」
「はい。やはりそう来てくれなくては」
「はぁ」
 地木流は本当に嬉しそうで、二階堂は相槌を打つしか出来ない。


「では、そろそろお暇します」
 立ち上がり、衣服を軽く正して放つ地木流。
「お茶くらいしか出せず、すみません」
「いえ、私が勝手に来たのですから」
 二階堂も立ち、玄関へ案内した。地木流は自分の革靴を履こうとするが、上手くいかないようで靴べらを貸してやる。
「助かります」
 爪先を突いて靴をきちんと履いて向き直り、靴べらを両手で横にして持つ。
「有難うございます」
 受け取ろうとした二階堂の身体が硬直する。息をも無意識に止めた。
 地木流が一歩前へ大きく出て、二階堂に近付いたのだ。鼻が触れ合いそうな、ぎりぎりまで一気に――――
 上がろうとしない二階堂の腕を捉えて上げ、靴べらを握りこませた。
 何事も無かったように後ろへ下がり、一礼する。
「では、私はこれで。貴方とお話が出来て楽しかった」
「……………………………………」
 二階堂は完全に固まってしまっており、反応できない。
「驚かせすぎてしまいましたか。それともひょっとして」
 口元に手を添えて、二人にしか聞こえないであろう音量で囁く。
「私とキスしたかったんじゃないですか」
「貴方が驚かせたからじゃないですか」
「そうでした」
 即答で返され地木流はまた声を上げて笑い、扉を開けて帰っていった。
 彼が去ると、肩の力が抜けて二階堂は息を吐いた。
 靴べらを戻し、今へ戻ろうとした時、なんとなく手の甲を頬にあてる。


 顔が熱い。










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