西校舎一階。薄暗い理科室で、反射しあう眼鏡と眼鏡。
「ああ、君は……」
 教師の小此木は訪問者の中に目金を見つけると、息を吐いた。
「なんだか大変な事になってしまったね。目金くん、君の事は薬を作る時に新聞部の部長さんから写真はと名前は見せて貰ったから知っているよ」
「でしたら、私たちが来た理由もわかりますわね」
 夏未が鋭い視線で見据える。
「もちろん」
 小此木は教壇を下り、マネージャーと目金も歩み寄って適当な椅子に座った。



みんな目金を好きになる
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「君たちが知りたいのは、あの子たちを戻す方法だね」
 長テーブルに手を置き、グラウンドの方を向く小此木。
「調べてみたんだけどね、効果自体が想定外で困難なんだ」
「無理、なんですか……」
 木野がスカートを握り締めて言う。
「元に戻す薬は効果が切れる頃までには作り出せないが、目を覚まさせる方法ならあるかもしれない」
 小此木は目金を見下ろし、頷いた。
「対象は目金くんの眼鏡のようだ。なら、目金くんが眼鏡を否定して、それを伝えれば何とかなるのかもしれない」
「僕が眼鏡を否定……」
 目金は唸り、俯いてフレームに指をあてる。
 名前は目金。あだ名も“メガネ”みたいなものであった。両親も眼鏡をかけているし、特徴であり、アイデンティティだと思っていた。
 ――眼鏡を取ったら僕は何になるのだろう。一番、眼鏡にこだわり、必要としていたのは目金自身だ。
「僕は……」
 外そうと手をかけ、戻す。揺らぐ目金の横では、マネージャーたちが策を練っていた。
「目金さんが眼鏡を外すって知らせないと、いけないんですよね」
「放送室はどうかしら。各部屋にスピーカーもあるだろうし……」
「そうね。それで行きましょう」
 話も決まり、席を立つマネージャー三人。しかし、目金は立てないでいた。
「目金くん?行くわよ」
「え?あ、はい」
 言われて立ち上がるが、まだ決心がつかない。そんな目金に小此木は励ますように肩に手を置く。
「私に薬を作らせる口実だろうが、新聞部の部長くんが言っていたよ。目金くんは多くの可能性を持ったダイヤの原石だって。私は惚れ薬の意外な効果や、君に会って思う事があった。人は生まれた時から眼鏡はかけていない。眼鏡の特徴だって、自分からつけてなるものだ」
「先生……」
「名は体を表すものだけど、名前をつけられてから人は育つ。君がどう生きても、君は君さ。気休めにもならないだろうが、私からも頼むよ目金くん」
「はい……」
 はっきりとは肯定できないが、目金はぎこちなく微笑み頷いた。
「行きましょう」
 夏未が告げた直後に、音無が大きく“あ!”と声を上げる。
「どうしたの」
「あ、あ、あわわ…………」
 音無は窓に駆け寄り、手を置いて張り付いた。
「マジやばいです。サークル棟辺りに人が増えだしました。たぶんグラウンドにいた人達が、なかなかサッカー部の練習が始まらないのに痺れを切らして散らばりだしたかと。今、外を不満そうに歩いていましたもん。絶対そうですよ」
「急がないと。皆、行くわよ」
「目金くん、行こう」
 夏未が先に部屋を出て、木野が目金に手招きをしながら後に続く。
 しかし部屋を出れば、ばったりと一年生に遭遇してしまう。
「あ!目金さんだ!」
「写真撮らせてください!」
 携帯を取り出し、写真を撮ろうとしてくる。
「やめなさい」
 夏未が片手で目金を隠そうとするが、彼らは退こうとしない。もはや理事長の娘の権限も効かなくなっている。
「突破しましょう」
 理科室から遅れて出てきた音無が夏未、木野、目金の背をぐいぐいと押して、一年生をも押し退けた。
 サークル棟から本校舎へ行こうとする三人に対し、音無は玄関の方へ向かう。
「音無さんっ?」
「まだグラウンドにいる人達は私が誘導します。皆さんは放送室に行ってください」
「わかったわ。あなたに任せる」
「はいっ」
 音無はニッと白い歯を出して笑い、グラウンドへ出て行った。


 音無と別れた夏未、木野、目金はサークル棟エリアから野球場エリア、テニスコートエリアを回って、裏口から本校舎に入る。途中、目金を見つけた生徒たちにキャーキャー言われるが、無視して突っ切った。
「参ったわね」
 顔をしかめる夏未。グラウンドにいた生徒は、本校舎にも入ってきてしまっている。少しでも立ち止まれば生徒は目金を見つけて騒ぎ、携帯をかざしてくるので鬱陶しい事この上ない。
「…………………………」
 夏未は軽く息を吐き、振り返って木野と目金に向き直る。
「校舎に入った生徒は私が誘導する。後は木野さん、目金くん、任せたわ」
「夏未さん。その役目は私が」
 胸に手をあて、名乗りを上げる木野に夏未は首を振った。
「いいえ。人が入らないように玄関を封鎖しようと思うの。これは私にしか出来ないわ。それに木野さん」
 名を呼ぶ夏未の声色に、木野は微かに肩を揺らす。
「貴方、昨日のゼリーの事をまだ後悔しているのね。だから部室でサッカー部の皆を閉じ込める役目も率先したし、今も進んで名乗りを上げた」
「だって私が作らなければ、もっと多くの協力を得られたと思うの」
「貴方のゼリー、私も食べてみたかったから無理も無いわ」
「ぼ、僕もです、僕も」
 二人の間で小さく挙手をする目金。
「さあ、行きなさい」
「はい」
 木野と目金は声を揃えて返事をした。


 放送室は三階。二人は階段を駆け上がる。
「はっ……は………はっ……」
 上りおわった所で木野が不意に足を止め、壁に手をついた。
「木野さん」
 目金は戻って小走りで駆け寄る。
「疲れてしまいましたか」
「……はぁ……目金くん……」
 木野の手が目金の手首を掴んだ。
「ねえ、どうして眼鏡をはずしてしまうの」
「えっ」
 はじかれたように木野の顔を見上げる目金。走って前髪がやや乱れ、汗を滲ませる彼女の瞳は虚ろであった。
「いけないわ。貴方の眼鏡はとても素敵なんだから……。あれ……私は……一体何を……」
 もう片方の手で額を押さえ、ずり落ちるように階段を椅子代わりにして座り込む。目金を捉えている手もがくんと下がるが、離そうとはしない。
「木野さん、しっかりしてください」
「どうして……私が……。ああ、たぶん家庭科室で手を何度も洗ったからね。目金くん、私はもう駄目よ、先に行って」
 掴んだ手を離そうとするが、別の何かに操られたように動かない。もう一方の手で強引にこじ開けて解放させた。
「行きましょう。貴方はまだ正気が残っているじゃないですか」
「無理よ。早く行って、皆眼鏡を好きになってしまう前に」
「頑張ってください。僕も、頑張りますからっ」
 今度は目金が木野の手を掴み、起き上がらせる。
「うん、わかった」
 小さく頷き、身を起こす。二人は再び走り出し、放送室に入った。
 放送室は無人で安堵したのも束の間、機器の操作方法がわからない。辺りを見回し、新人用に上級生が書いたと思われるメモを見つけた。メモの文面を辿って操作しながら、目金はマイクを手に取る。


『あー……皆さん、聞こえますか』
 話し始めはスピーカーがけたたましい音を立てるが、初めだけで後は安定した。
『僕はサッカー部二年、目金欠流といいます』
 相手が目金だと知ると、外から黄色い悲鳴が響いた。どうやらちゃんと聞こえているようだ。
『今、雷門では僕の眼鏡のスタイルがとても流行っているようですね。喜ぶべきなのでしょうが、僕は残念に思います』
 なんで?どうして?聞いている生徒たちは疑問にざわめく。
『眼鏡はファッションの一部に取り上げられる場合もありますが、僕はただ目が悪いだけでつけています。僕は正直、眼鏡をカッコ悪いと思っています』
「目金くん、そんな事無いよ……」
 入り口近くにいた木野がふらふらと歩み寄ってくる。大変危険な香りがした。悪寒に背筋が冷えるが、目金は逃げずに続ける。
『僕は一大決心をしました。どうか皆に聞いて欲しい。僕は……僕は……今日からコンタクトに替える!!』
 なんだって!!!惚れ薬に頭をやられている雷門生徒に、とてつもない衝撃が走る。横で聞いている木野も例外ではない。
『今!ここで!僕は!眼鏡を捨てる!!』
 やめて!なんて事を!いやああ!!拒否と悲鳴の叫びが雷門を包み込む。
「眼鏡を……捨てる……?コンタクトなんて邪道よっ」
 木野は目金の肩を掴み、揺らしだす。その目は完全に眼鏡に取り付かれていた。
「眼鏡じゃない目金くんなんて、目金くんじゃない!コンタクトの目金くんなんて、見たくないよ!嫌いになりそうだよ!」
『うぐ』
 木野の手が目金の首を捉えた。言い争う声がスピーカーを通して雷門全体に伝わる。声を聞く人々は、目金の眼鏡を愛したい気持ちと、戦っているらしい同士と同じ思いが胸を軋ませ、祈るように手を組んだ。
『眼鏡じゃない僕を、皆は興味を失い、嫌いになる人もいるでしょう。しかし、嫌いで結構っ!』
 木野の十本の指が目金の首の肉にめり込み、気道を締め付けてくる。息が詰まり、苦しい。咳き込みたいのに、それさえも喉元でつっかえる。目の前がぼやけ、意識が飛びそうになるが目金に諦める意思はない。マイクを握り直し、力の限り訴える。
『コンタクトでも僕は目金だ!僕は僕です!』
 眼鏡を外し、思い切り投げ捨てた。
「眼鏡がっ!」
 木野の手が離れ、眼鏡を受け止めようと飛ぶ。目金は崩れ落ちるように倒れ、マイクも手から離れる。
 ごろん、と落ちる音がマイクを通して木霊した。木野の“なんて事を”という呟きを拾い、生徒たちは目金が眼鏡を捨てたのだと悟った。
「目金くん。眼鏡をやめちゃったんだ……」
 グラウンドの中央で、誰かが呟く。昨日買ったばかりの眼鏡を外し、足元に落とした。その生徒を中心に、輪が広がるように眼鏡を外していく。目が覚めたとは言えないが、雷門生徒の眼鏡への執着が解けていった。






 二月十四日。バレンタインデー。
 日本では女性が気になる人や、お世話になった人へチョコレートを贈る日だ。
 ここ雷門でも、そんな光景が至る場所で行われている。
 目金は本校舎二階の廊下から、グラウンドを見下ろしていた。コンタクトに替えた瞳が、外の木の端で女子が男子にチョコを渡す現場を捉える。そんな彼の背を生徒たちは行き交い、声をかける者はいない。
「これで良いんですよね」
 一人呟いて、一人で納得させる。今年のチョコレートは明るいクラスメイトが全員に配ってくれた義理チョコ数個。本命はなく、去年よりも少ない気がする。あのまま眼鏡を外さなければ、学年トップの収穫率を手に入れただろうが、それももう想像であり思い出でしかない。薬の効果が完全に無くなる頃まで、眼鏡をかけるつもりは全く無い。
「目金くん」
 聞き慣れた声がして、振り向けば木野がいた。
「あの時はごめんね」
 彼女は手を洗って水に触れただけなので薬の効果が切れるのが早く、あの日の内に自我を取り戻した。こうして一日一回、謝ってくる。その度に目金は首を振るい、そっと微笑む。
「良いんですよ。それもこれも薬のせいなんですから。貴方のおかげで僕の眼鏡も割れずに済みましたし」
 目金が投げつけた眼鏡は、木野が必死に受け止めてくれたおかげで傷一つ無い。鞄の奥の眼鏡ケースの中で再びつけてくれる日を待っている。
「あのね、夏未さんが呼んでいるわ。三階の部屋に来てくれないかしら」
「ええ、良いですけど」
 木野の後ろについて、目金は三階の夏未の部屋へ行く。
 そこには夏未の他に音無もいた。
「目金くん、ここに座って」
 可愛らしいアンティークのテーブルを囲む椅子に座るように促す。木野も座り、女生徒三人に向き合い、挟まれる形になった。
「場寅。お願い」
「かしこましました」
 夏未の呼びかけに、場寅が棚からケーキを取り出してテーブルの真ん中に置く。ケーキはいかにも今日の日の為らしい、チョコレートケーキだ。
「私たち三人で作ったのよ」
「夏未さんはナッツを降りかけただけですけどね」
「音無さん?」
「はいすみません〜」
 一言多い音無は、しゅんと反省した素振りを見せ、三人が笑う。
「貴方のおかげで雷門は救われた。バレンタインを無事に迎え入れられて嬉しく思います。これは理事長の言葉と捉えてもらっても構わないわ。これは私たちから貴方への感謝の気持ちよ。木野さん、音無さんも本当に有難う。一緒にわかちあいましょう」
 場寅がケーキを綺麗に四等分に切り分け、丁寧に皿に載せて四人の前に置いた。コーディングも中身も美味しそうなチョコレートだ。
 紅茶も注いでくれ、良い香りが漂う。
「いただきます」
「いただきまーす」
 夏未がフォークを入れると、目金たちも食べ始める。口の中にチョコレートの味が広がり、思わず笑顔がこぼれた。
「夏未さん、木野さん、音無さん。本当に美味しいです」
「夏未さん。ナッツ美味しいですよ」
「音無さん……。ふふふ、お紅茶にミルクを入れてさしあげましょうね」
 しつこい音無の紅茶に夏未はミルクを大量に入れてやる。さながら紅茶オレだ。
「マイルドです」
「私も入れるわ」
 音無の感想に、木野がミルクの小瓶を受け取った。
 和やかなお茶会の時間が穏やかに過ぎる中、場寅が夏未に学校新聞を渡す。
「あら。今日発行のものね」
 新聞の記事に大きく飾られる写真は、雷門の校章を形取った大きなチョコレートであった。横の文字には“新聞部より雷門へ愛をこめて”と添えられている。夏未たちだけにわかる、部長なりのせめてもの詫びの気持ちだろう。
「貴方たちも見て。私はこういうの嫌いじゃないわ」
 目金に手渡し、左右の音無と木野が顔を寄せる。彼の頬がほんのりと赤らんだ。


「こんなもので許されたつもりはないが、な」
 文化棟二階、新聞部部室。部長は出来上がった学校新聞を眺め、自嘲気味に口の端を上げる。
「テーマは良いのに、写真は駄目駄目ですね」
「っ」
 声のした方を見れば、入り口横で寄りかかる一つの影があった。去年、部を出て行ったカメラ担当の男子生徒だ。
「お前っ」
「これを見てください」
 胸ポケットから一枚の写真を取り出し、部長に投げ渡す。写真にはイナズマ落としが鮮明に写っていた。
「近々、練習試合が行われるらしい。準備なら……出来てますけど」
 片足の爪先を立てて、腕を組んでそっぽを向く生徒に、部長は握手を求める。
「頼む。良い新聞が作りたい」
「……こちらこそ」
 生徒は叩くように払った後、その手を硬く握った。
 一方その頃、ケーキを腹の中に納めた目金は屋上に上がり、再びグラウンドを眺める。
 胸には先程とは異なる、誇らしい気持ちが宿っていた。自分の選択が正しいと自信が持てたのだ。今度の練習試合もまたベンチだろうが、いつもとは異なる何かをこの瞳は映してくれるような予感がする。
「あ」
 風が吹いて、つい声が漏れる。髪を撫でるように直し、息を吐いた。
 強いが冷たさはない。あれは、春の風のような気がした。










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