カーテンの隙間から差し込む朝の光。目金は目覚めた。
ベッドから手を伸ばし、枕元の体温計で熱を測る。機械音がして確かめれば、平熱を表示している。
「よし」
体温計の隣に置いてあった眼鏡を取って、身を起こした。
みんな目金を好きになる
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食事の良い香りのするリビングに通じるドアを開ければ、テーブルに座る父と母がこちらを向く。光に反射して、二人の眼鏡が煌いた。
「欠流。おはよう」
「熱はもう下がったの」
「はい」
椅子に腰掛けると、母がカップに温かいコーヒーを注ぐ。
「熱が下がっても油断は駄目よ。朝練は休んだら?」
「行かせてください」
「欠流は本当にサッカーが好きだな」
父の言葉に、目金は微笑む。
運動はそんなに得意じゃないし、サッカーだって上手くはない。けれども目金は雷門の仲間たちとするサッカーが大好きだった。
朝食を終え、玄関で靴を履いて目金は挨拶を言う。
「行って来ます」
ドアを開けて外へ出た。
「ん?」
出るなり、不審な音がする。見回しても誰もいない。
歩き出して数分。またもやおかしな音がした。
「なんだろう」
首を傾げると、曲がり角から携帯をかざす手が出てきて。
カシャ。と、あの音を立てる。不審な音の正体は携帯内蔵カメラのシャッターであった。
「感じ悪いですね……」
不快を口にする。そんな目金の前に一台の車が止まった。
窓が開いて中の人間――夏未と目が合い“あっ”と声を上げる。
「おはよう。話したい事があるから私の車に乗りなさい」
「はい」
外に出て、すぐに感じ取った異変。目金は即答で夏未の車に乗った。
運転手は場寅。後部座席に夏未と目金は並ぶ。
「目金くん。雷門は今、大変な事になっているの。貴方にも十分関係があるわ。落ち着いて聞いて」
夏未は昨日の出来事を目金に語る。しかし、当の目金は腑に落ちない、複雑な表情で顔をしかめた。
「惚れ薬で僕を好きになる?とてもそんなの、信じられません」
「そうね。だって……何がどうなったのかわからないけれど、水を飲んだ人は貴方本人ではなく、貴方の眼鏡を好きになったんだもの」
頭を振り、溜め息を吐く夏未。
そうなのだ。新聞部部長が撒いた惚れ薬は、目金の眼鏡が対象になってしまった。
「僕の眼鏡を好きになってどうするんでしょう」
「こっちが聞きたいわ。雷門の眼鏡屋はどこも品切れ。駄菓子屋の玩具の眼鏡まで手を出す人まで現れたの。眼鏡をかけずにはいられない執着……ああ、恐ろしい」
「それで一体、僕にどうしろと」
「ごめんなさい。それもわからない。でも、この狂った雷門を救うには貴方が必要よ、目金くん」
夏未は真剣な眼差しで目金を見据える。雷門の理事長の娘が自分だけを必要としてくれている。なんという燃えるシチュエーションだろう。まるで、物語の主人公になったような気分だ。しかし、この窮地の打開策が見えない。非力な自分に一体何が出来るのか。不安ばかりが募っていく。
「貴方一人に戦わせない。私たち雷門サッカー部マネージャーが全力でサポートするから」
「は、はいっ!」
これはさらに熱い!ここで逃げたら男が廃る! ロボットのパイロットになれと急な宣告をされても“イエス”と言える同等の気合が目金にこもった。
「有難う目金くん。貴方は希望よ」
ここまで来るとくどいが、燃え上がる目金は気にならない。
キキッ。車が雷門校門前で止まった。
降りる際に夏未は場寅にここから離れるように告げる。
「お嬢様……どうかご無事で……」
「場寅。お父様にも伝えて。夏未は必ず帰ると」
「……はい……」
場寅の皺の刻まれた目尻に涙が滲む。
車を出ると音無が待ってくれていたようで駆け寄ってきた。
「夏未さんっ。目金さんはどうでした?」
「連れてきたわ」
「おはようございます」
目金の姿を見るなり、涙ぐむ音無。
「ああ目金さん。ホントお願いします。皆を救ってください」
「は……はあ……」
そこまで雷門は酷いのか。背筋が薄ら寒くなる。燃え上がった魂の炎に霧吹きをかけられる気分だ。
校門を潜り、目金は確信した。本当に酷いと。
運動部が朝練を始める早朝から賑わうグラウンド。恐らく、練習する目金を見学する為に早起きして来たのだろう。誰もが目金によく似た眼鏡をかけ、髪型もそれっぽく整えている者もいる。そして聞こえてくる話題は全て目金の眼鏡をいかに忠実に表現するかの議論だ。いくら惚れ薬で注目を浴びても、まっぴらごめんである。
「こ、これはその……恐ろしい……」
「でしょうっ!?……許せないわ……!」
目金の呟きに、クワッと振り向く夏未。車でのしおらしい姿はどこへやら。彼女の瞳は雷門の平和を奪還すべき使命に燃える戦士の目をしていた。
「もー勘弁してくださいよ」
半泣きの音無であるが、彼女も彼女で事態が事態なら“新聞部部長との相打ち”を心に決めて拳を硬く握り締めている。目金の居ぬ間に、乙女たちの決意はダイヤモンドの刃にまで強固な攻撃力に高められていた。
「まず部室前で木野さんと合流しましょう。彼女一人では荷が重過ぎるだろうし」
「あの……サッカー部の皆は……」
目金の問いに、あからさまに視線を逸らす夏未と音無。
「もう貴方の知っていた彼らはいないわ」
「もはやクリーチャーですよね」
もう人間じゃないと言っているようなものだ。
「…………………………」
顔を曇らせる目金。すると近くで叫び声が聞こえた。
「目金くんが落ち込んでいるぞ!」
「なんだって!!」
「目金さま!どうしたの!!けれど、そんな貴方も素敵!!」
グラウンドにいた生徒たちは目金を見つけ、ずっと観察をしていたらしい。
目を白黒させる目金に音無が囁く。
「あの人たちは貴方に危害を加える事はありません。どうやらカリスマ対象になっているみたいですよ」
そうは言っても、憂鬱な表情に注目した生徒たちが三人を囲みだしてきた。
「目金たん……一体どうしたんだ……」
「きゃ!今、目金さんがこっちを見たわ!」
「ホント!そこ変わってよ!」
小さな声も、集ればざわめきへと大きくなっていく。
「貴方たち」
夏未が一歩前に出た。
「うるさいわ、お黙りなさい。私たちは部室へ行くの。お退きになって」
相手は理事長の娘・雷門夏未。惚れ薬の効果はあっても逆らえない。生徒たちは部室へ続く道を開ける。
「さ、行くわよ」
夏未の後ろを音無と目金がついていく。
部室の回りも目金がいないかを探っている生徒が張り付いていたが、夏未が来ると去っていった。
「木野さんはどこ?部室に皆を閉じ込めて、ここで待ち合わせたのに」
「どこでしょうね。私、見てきます」
足を止め、夏未が辺りを見回し、音無が部室裏に回ろうとした時――――
「やめて!」
木野の悲鳴が部室から聞こえた。
「木野さんっ」
中に入ろうとする目金を夏未が止める。
「待って。様子を見ましょう」
窓から中を覗いた。見れば、木野が誰かと揉めているではないか。目を凝らすと土門だとわかる。
「やめて!土門くん!早まらないで!」
「離してくれアキ。俺、眼鏡が売り切れてて買えなかったんだよ!」
土門の手に持つのはマーカー。どうやら彼は顔に眼鏡を描き込もうとしているらしい。
「そうだぞ土門。描いたって何の意味にもならない」
円堂の声がする。木野と一緒に土門を止めてくれているようだ。顔は見えないが、声が明るい事から彼は眼鏡を手に入れたに違いない。
「木野さん」
コンコン。夏未は窓を小突いて木野を呼ぶ。
木野は頷き、仲間を閉じ込めるようにして外に出る。ドアノブには別の鍵が上から取り付けられていた。
「夏未さん。……目金くん、来たんですか」
「ええ」
夏未の背から目金は姿を現し、軽く会釈する。
「皆はどう」
「……土門くん以外は眼鏡をかけてます。中には鼻眼鏡やミレニアムの2000眼鏡まで……」
木野は話の途中で噴出し、部室の壁を叩いて笑い出した。ずっと我慢していたのだろう。
「それにしても……水は止めたはず……。なぜこんなにも浸透しているの」
「考えたくなかったんですけど……」
落ち着いた木野が向き直り、両手を広げて見下ろす。
「飲む以外に……手を洗っても……」
「まさか……だったら私たちも……」
時間が無い。交差する二人の視線の中で、同じ言葉が過った。
「目金くんもいるし、新聞部の部長と話をつけましょう」
「そうですね。音無さんは……」
「部室の裏に行ったはずですよ」
部室の裏に回る三人。そこでは音無と、鬼道がいた。
「お兄ちゃん……」
「春奈。漸く気付いたんだよ」
鬼道の顔には、特徴とも呼ぶべきゴーグルはつけられていない。代わりに眼鏡がかけられている。
「今の時代は眼鏡だ。ゴーグルなんて、俺はなんて愚かだったんだろう……」
「お兄ちゃん……眼鏡は時代でつけるもんじゃないよ」
鬼道はよろけ、膝をつく。度が合っていないらしい。眼鏡欲しさに血迷ったのだ。
「私、お兄ちゃんを雷門で見た時、ゴーグルを見てどうかと思ったけど、お兄ちゃんなりに思い入れがあったんだよね。易々と眼鏡に取り替えて欲しくないっ」
春奈は振り返り、夏未たちのもとへ行く。
「新聞部へ行くんでしょう。案内しますよ」
彼女は大股で進みだし、夏未たちも共に向かった。
新聞部の部室には、部長しかおらず好都合だった。他の者はグラウンドで目金を待っているのだろう。彼は目金を見るなり一人騒ぎ出す。
「おおお!目金くん!間近で見ればなんと美しい芸術的な眼鏡!是非、独占取材をさせてくれ!」
握手しようと伸ばされた手を音無が払う。
「茶番はやめてください。部長」
「音無くん。君にそう呼ばれるのは久しぶりだな」
「私、知っているんですよ……」
音無の言葉に、部長は真顔になる。
「部長が惚れ薬使った事。それで記事のテーマに意外性を持たせようとした事。でも、失敗でしたよね。皆、目金さんじゃなくて、目金さんの眼鏡を好きになってしまった」
「そこまで知ってるなら、昨日の内に俺を糾弾すれば良かったものを」
「惚れ薬の効果を掴めませんでしたから」
「へえ。それで、俺にどうして欲しいんだい」
眼鏡のフレームを押し上げ、鼻の筋にあたる金具を弄った。彼はすっかり眼鏡の魅力に取り付かれている。
「率直に言います。どうすれば皆を元に戻せますか」
「薬を作ったのは小此木先生だ。貰う時に、数日は効果が続くと言われたよ」
「小此木先生ね……。先生に聞く事にするわ」
踵を返し、背を向ける夏未。
「たかだか数日じゃないか。それに目金くん、君は最高に似合う眼鏡なのに……最高に輝いていると思うのに、止めてしまうのかい」
去ろうとするサッカー部に、部長は言う。目金は肩を竦め、苦い笑いを浮かべた。
「眼鏡はかけて輝くもんではないですよ。寧ろ、輝くものを見る道具ではないですか」
フレームを押し上げ、階段を下りていく。一人残る部長に、音無が扉を再び開いた。
「なんだ、忘れ物か」
「言い忘れた事、ありまして」
俯き、視線を彷徨わせてから部長を見据える。
「部長、なんでこんな事をしたんですか。って、聞いたら答えてくれますか」
「誰もが驚く記事が作りたかった。サッカー部の栄光物語に並ぶくらいの、奇跡が欲しかったんだ」
部長はまた眼鏡を弄った。本人は“輝くもの”を手に入れた優越感に浸っているのだろう。
「新聞部にいた頃、先輩がたから貴方の話をよく聞きました。皆、貴方に憧れていました。それは……貴方が良い記事を作るのではなく、記事に情熱を注ぐ姿にです。経過にこそ、貴方の魅力がありました」
「スッポンって呼ばれるくらいだからね。しかし……」
「元に戻られた時、わかってくださるのを願います」
音無は扉を閉め、階段を下りる音が次第に消えていく。辺りは静まり返った。
「彼らなら、戻せちゃう気がするよ」
出てきた声は、寂しそうな音に染まる。
「また奇跡を起こすのか、サッカー部は」
机の上に座り、膝を抱え込んだ。
「妬けちゃうよ音無くん。君の眼鏡もなかなか素敵だ」
膝を下ろし、隣の机を蹴った。
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