幸せの隙間
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 しらしらと明ける早朝。豪炎寺は河川敷を通って、雷門へ向かっていた。
「………………………………」
 途中、足を止めて川を見下ろす。一昨日の、木戸川清修との練習試合――昼での出来事が過り、また歩き出しながら思い出していた。


 昼食を済ませ適当に歩いて食休みをしていると、二階堂を見かけた。二階堂は川に沿って歩いており、豪炎寺は食べた直後にも関わらず駆け寄る。
『二階堂監督』
『お、豪炎寺か』
 振り返り、視線が交差すると二人は微笑み合う。温かい気持ちが胸に灯った。
『良い川だな』
『はい』
 豪炎寺が隣に寄り添い、二人は並んで川を眺めて歩く。橋の向こう側へ行くと止まり、雑談を始めた。
 主な話題は稲妻町。二階堂は豪炎寺の転校先の町が気になっている様子だった。豪炎寺も二階堂も何気ないもので笑い、肩を揺らす。互いの笑顔を横目で見てはにかんだ。
 こうして二人で話し合える時間が幸せだった。特に豪炎寺は、こんな時はもう二度と訪れないと思った頃もあり、喜びはひとしおだった。取り戻した今、この時がいかに貴重で大事なものか実感する。もう決して自分から二階堂に離れはしない。いられる限り、ずっと一緒にいたかった。
『二階堂監督』
 豪炎寺の腕が二階堂の腰にしがみつく。顔を埋め、摺り寄せた。
 これはただのスキンシップではない。腕は情に呑まれ、艶めかしく絡み付いた。
 彼らの関係は監督と元教え子であり、特別な感情を抱くのは禁忌とされている。二階堂は豪炎寺の頭を撫でそっと窘めた。
『やめなさい』
 口調は弱く、効果は無い。
 いくら今が合同練習の休み時間でも周りに誰もいない状況では二階堂も揺らいだ。これがもし、プライベートで閉じ込められた空間なら抱き返していた事だろう。豪炎寺が元生徒で子供じゃなかったらそれ以上の事もしただろう。
『ほら、豪炎寺』
 肩を叩いても離れない。
 不器用な性格だが、言う事はよく聞くはずだった。
 押して駄目なら引いてみろとは言うもので、恐らく逆の行為をしてみれば満足して離れてくれるだろう。しかしそれはここでは無理だし、豪炎寺もわかってやっているに違いない。
『二階堂監督ーっ』
 木戸川の西垣の声がして、やっと豪炎寺は離れた。


「………………………………」
 豪炎寺は西垣に叩かれた方の頬に触れ、あの時の行為を後悔する。
 二階堂に会えて浮かれていたのだ。二階堂が愛おしくて、つい彼に甘えてしまった。
 本来は許されない、いけない事だと失念していた。
 “二階堂監督はやめてくれ”西垣の言葉がずっと離れない。
 豪炎寺自身、なぜ二階堂だったのだろうと最近よく思うようになっていた。
 木戸川にいた頃から二階堂はいてくれて当たり前の存在だった。自分のような人間を受け入れてくれていた。好意を抱くのは必然だった。それ以上の気持ちになるのは気付かなかった。自分から別れを告げて転校して、二階堂をいかに求めていたかを知った。サッカーが出来て、居場所が出来て、仲間が出来て、友達が出来て、改めて豪炎寺は二階堂を求めたのだ。
「……すまない…………」
 口から詫びの言葉が独りでに漏れた。
 許されなかろうとも、自分の気持ちに嘘は吐けなかった。真心を貫けば生じる歪。いつか誰かが傷付く。承知していたのに、いざ直面すると痛い。


 学校へ着き、サッカー部の部室へ入ると既に円堂、半田、土門、一之瀬がいた。
 土門と一之瀬は西垣の幼馴染なせいか、西垣にショックを与えた事は彼らを傷付けたのも同然に思えて姿を見ると胸が軋んだ。
「豪炎寺、おはよう」
 土門が笑いかける。豪炎寺は薄く笑って返した。
「なあ。朝練が終わったら話があるから、時間いいか?」
「ああ」
 西垣の事だろうか。ひょっとして土門や一之瀬も彼繋がりで二階堂との関係を知られたのだろうか。そんな事はないと信じたいが、どうしても嫌な可能性を想像してしまう。
 練習を終えて、土門と豪炎寺は噴水の傍へ行った。
「豪炎寺。昨日、西垣に会ってさ」
 髪を決まり悪そうに弄りながら土門が口を開く。
 西垣の名に豪炎寺の表情が強張った。
「伝言承って来たんだ。悪かったって」
「………………………………」
「今度機会が会ったらあいつから謝るそうだけどさ」
「いや……俺の方こそ、西垣に悪い事をした。すまない」
 俯く豪炎寺。
 昨日はそうでもないと思っていたのに、やはり何かがあったのだと土門は悟る。しかし理由は問う気にはならない。どちらかが自分から話してくれるのを待つつもりだった。
「豪炎寺、だから気にしないでくれ」
「あ、ああ……」
「俺はこれで」
 土門は本校舎の方へ駆けて行く。昇降口の近くに一之瀬が待っていた。
「よ、どうだった」
「豪炎寺も悪かったってさ。喧嘩両成敗?」
「ふぅん。一体なんなんだろうな」
「さあ」
 首を傾げる土門。一之瀬の言い方はどこか軽い。彼も土門と同じく、待つつもりなのだろう。
 二人は並んで階段を上っていった。


 土門から遅れて豪炎寺も本校舎へ戻ろうと歩き出す。
 西垣に謝られても、なかなか自分を許す気にはなれない。己の勝手な決意は誤解を招きかねず、何度も衝突を重ねてきたのになかなか直せない。
 教室に入ると、そんな豪炎寺の心中が表情に出ていたのか円堂が声をかけた。
「どうした豪炎寺」
「いいや、なんでもない」
 素通りして自分の席に座る。けれども円堂は席の方までついてきた。
「なんでもなくはないだろ」
 机の前に立って見下ろし、苦い笑いを浮かべる。
「なんか、木戸川戦前みたいな顔をしているぞ。一人思い詰めてピリピリしてさ」
「………………………………」
 視線を逸らし、不機嫌そうに息を吐く。こんな時、円堂という友人は厄介であった。
「もうそういうのやめろよ。お前今、幸せなんだろ?」
「!!!!!?」
 豪炎寺ははじかれたように顔を上げ、目を丸くさせる。顔は火がついたように羞恥に染まる。
「木戸川とは良好だろ?それに妹さんも順調に回復していってるんだろ?」
「…………あ……ああ」
 二階堂の事かと思ったが外れた。いささか自意識過剰だったようだ。咳払いをして誤魔化す。
「笑う角には福来るって言うだろ?」
 そう言い残して円堂は自分の席へ戻って行った。
 運動とは異なる疲労が朝からどっと降ってきた気分になる。午前の授業はおかげで姿勢が崩れきっていた。昼休みになると、一通のメールが届いた。差出人は二階堂だ。彼は案外まめに出してくれる。
 中身は“今日は早く上がれそうなので、豪炎寺の部活終わり辺りに会わないか”という内容。良いのだろうかと迷うものの、結局イエス以外の返事は出せない。朝の円堂の言う“幸せ”が頭の中で巡り、一人意味を考えて胸を高鳴らせた。






 夕方。部活を終えて仲間たちと別れた豪炎寺は駅前で二階堂を待つ。改札口をじっと眺めていると、背中から聞き慣れた声がした。
「豪炎寺」
 振り向くと、二階堂が車の窓から手を振っている。電車ではなく、車で来たのだ。ドアを開けて招かれ、助手席に乗り込む。
「ちょっとドライブでもしようか」
「はい」
 豪炎寺は頷き、車は走り出した。
 座ってから気付いたが、二階堂はジャージ姿ではなくスーツを着ている。再会しても試合ぐらいしか会わないので、随分と珍しい気がした。
「俺のスーツ、珍しいか?」
「ちょっと」
「こんな姿で会うのは木戸川以来か」
「そうですね」
 背もたれに身体を預け、息を吐くように豪炎寺は答える。
 瞬きされる瞳は微かな言葉の変化も逃さない。完全に二人きりの時、二階堂は“先生”ではなく“俺”と自分を呼ぶのだ。
 傾きかけた太陽は沈み、とうとう夜が訪れた。二階堂が車を止めたのは海がよく見える人気の無い場所。
「海、見えるだろう」
「はい」
 窓を開け、頭を出して夜の海を眺める。夜風は涼しく、すぐに閉じて座り直した。
「豪炎寺とゆっくり話をしたいと思ってな」
 二階堂はハンドルを放し、背もたれにそって伸びをする。
 その横で豪炎寺は小さく頷く。同じ思いであった。


「実は昨日……西垣が俺にとって豪炎寺をどう思っているんだって聞かれてさ」
「あっ」
 豪炎寺は薄く口を開くが、二階堂は目を瞬かせるだけだ。
 彼の様子からして、西垣は二階堂との抱擁を河川敷で目撃した事は話していないのだと察した。
「大事な教え子だって答えた。本当の事は言えないからな」
「本当は?」
「………………………………」
 豪炎寺の問いに二階堂は景色に視線を移し、吐息を吐く。
「豪炎寺」
「はい」
「その時、聞いたよ。正確には西垣が雷門の友達から聞いたそうだが。転校してサッカーから離れた時、木戸川とは二度と会えないって思っていたんだって?」
「はい」
「そんな考えはもうやめてくれ」
 二階堂の口調が強くなった。
 静かな怒りを感じた。もしこんな場所でなかったのなら、二階堂は明るく言っていただろう。二人きりで何も阻むものが無いからこそ、彼は自分の気持ちを正直に示したのだ。
「もう出来ないです……二階堂監督ともう、俺は……」
 俯き、前で手を組んでぼそぼそと話す豪炎寺。肩の上に二階堂の手が乗り、影が差す。振り向けばすぐそこに二階堂の顔があった。思い詰めたような、神妙な表情―――
 二人の想いが通じた時も、こんな顔をした事はなかった。監督の姿勢を二階堂は決して崩さなかったのに。
 監督の皮が剥がれて初めて見る一人の男の顔を覗かせている。
「二階堂……監督……」
 同じ椅子の隣に座られて詰めても、一心に見据えてくる視線から目が逸らせず、唇だけを微かに何度も開かせて名を呼んだ。
 内側から叩きつけるように心音が忙しなく鳴りだす。豪炎寺の組んだ手が解かれ、二階堂の腕に触れる。
 それが合図のように二人は瞼を閉じて顔を寄せ、唇を合わせた。
「……ん………………………………」
 肩に触れていた二階堂の手が首の後ろへ回り、もう一方の手が腕を掴んでただでさえ近い距離を引き寄せる。
 唇に隙間が出来るが、別の角度から二階堂が再び合わせてきた。唇同士の触れ合いがもどかしいように、強引に押し付けてくる。
 彼としてはもっと絡みつくような口付けがしたいし、唇以外の場所も肌で触れ合いたい。しかしそう理性は脱ぎ捨てきれず、唇だけの口付けに止めているような状態だ。けれども保っていると思い込んでいる理性は糸の細さで一本一本途切れていく。
「……………っは………あ……」
「………ん……………」
 豪炎寺の身体は二階堂が触れる場所に熱が灯り、やがては脳を揺さぶり快楽にとろけさせていた。
 いつも一定の線より先は近付かせてもらえなかった二階堂がこんなにも求めてくれている。愛する悦びが感情を高まらせて目頭を熱くさせた。
「……………………うう………」
 二階堂が重心をかけてくる。豪炎寺の身体は傾き、後ろ頭が窓に当たった。もう下がれず、やっと唇が完全に解放される。
「……は…………は………」
 豪炎寺は相当苦しかったらしく、ぼんやりした表情でドアにもたれて乱れた息を整えている。肌は熱を帯びて薄っすらと染まり、目元は潤んで口の端から垂れかけている唾液すら気付いていない様子だ。
 やり過ぎた。二階堂は我に返って監督の顔に戻る。
「豪炎寺」
 頬に手を沿え、指で唾液を拭ってやる。身を起こして豪炎寺を席に座り直らせようと腰に手を回すが、ぐったりとしており砕けてしまったのだと悟る。
「……かんとく…………」
 呟かれる声は呂律が回らず、淫らでいやらしい。初めて聞くものだった。
「……やめ……るんですか……」
 切なそうに言ってくる。強請りに音を捉える二階堂の耳がじりじりと痺れてくる。
 身体の熱が冷めないのか、胸元のボタンを外しだす。やめさせようと手を掴めば、ぎこちなく指に口付けてきた。瞳は二階堂の反応を伺って熱視線が送られている。耐え切れずに逸らせば、下肢の昂りに気付く。
 俺の責任だ。二階堂は額に手を当てて反省した。


 とにかく処理をしてやらねばなるまい。二階堂は手を伸ばして荷物を探る。もう片方の手は豪炎寺に掴まり、ずっと舐られている。
 避妊具の箱に届き、片手だけで開けて取り出した。念の為といっても、前もって用意していた自分は最低だとまたもや反省する。
「豪炎寺」
 引き寄せて後ろから抱き込んで、再び助手席へ座り込んだ。拍子で手が解放され、すかさず腰を捉える。豪炎寺の足が浮いて、暴れないように耳元で囁いた。
「落ち着け。深呼吸して」
 なだめるように耳の後ろへ、啄ばむような口付けを何度もする。
 腰を捉えたまま、豪炎寺のベルトのバックルへ手をかけた。ズボンがずれて下着が見えると、豪炎寺の身体が強張るのが伝わってくる。
「二階堂監督っ?」
「このままだとさすがにまずいだろう」
「ですが」
 目の前で豪炎寺の耳が羞恥に染まった。下着から自身を取り出すと、さすがに暴れだしてくる。子供といっても中学生なので押さえ込むのはなかなか困難だ。
「やめてください。こんなの嫌です。大丈夫ですから」
 言葉とは裏腹に、豪炎寺の自身は血液を集めて勃ち上がっている。
「見ないでください」
 足を閉じて隠そうとするが、背後から見下ろす二階堂の視界には、余計に卑猥に見えた。
「豪炎寺」
 避妊具を手の中へ握りこませようとするが、彼の指が震えて零れ落ちる。
 仕方なくもう一つ取り出し、無理矢理足の間へ手を突っ込んではめてやった。
「監督、やめてください」
「だからこのままには出来んと言ってるだろ」
 手で包み込んで刺激を与えだす。
「うあっ」
 駆け抜ける快楽に豪炎寺の身体がぶるりと震えた。
「……あっ!…………………は…………っ」
 弓なりにそる身体を支えながらも愛撫を続けた。限界が訪れるのは早く、二階堂の手の中で豪炎寺自身は果ててしまう。
「…………は……」
 助手席を後ろへ下げて豪炎寺を寝かせ、二階堂は避妊具を抜き取り、濡れた自身をティッシュで拭って後始末をした。運転席に座ってゴミを片付けている最中に、豪炎寺が下着とズボンを上げてベルトを締め直す。
「その……すまなかったな、豪炎寺」
「謝らないでください。元から悪いなんて、俺だってわかっていますから」
 気だるさが残る腰を上げ、半身を起こした。
「でも、幸せです」
 口元を綻ばせると、二階堂もぎこちなく笑みを返す。普段と逆のような気がしてなぜだか可笑しい。
「あの、二階堂監督。さっきの答えを聞かせてください」
「さっき?」
「俺の事をどう思っていますか」
 問いかける豪炎寺。二人は身を寄せて二階堂は口付け、離した隙間から囁く。
「言えないよ」
「なぜですか」
 もう一度口付けて言う。
「滅茶苦茶にしそうだからさ」
 困った顔をして微笑んだ。
 豪炎寺の腕が上がり身体に絡みつく。二階堂も抱き返し、どちらのものかわからない息が漏れた。






 あれから数日後。またもや雷門中と木戸川清修は練習試合を行う事となる。今度は雷門が木戸川へ向かった。
 校門の前には西垣が立っており、豪炎寺と目を合わせてくる。他の仲間たちが門を潜る中、豪炎寺は足を止めて西垣の前へ行く。
「なあ、土門と一之瀬に前もって伝えてもらっていたと思うが、こないだはすまなかったな」
「いいや。俺こそ、すまない」
 頭を振るう豪炎寺。
「けど……俺はまだお前を許せていない。監督に近付かれるのは嫌だし、好きになれそうに無い」
「そうか」
 淡々と答えた。豪炎寺が改められないように、西垣も同じだっただけなのだ。
「俺はさ、アメリカにいた頃の仲間に会えてすげえ嬉しかったよ。ずっと一緒にいたいと思うよ。豪炎寺も同じ気持ちなのか」
 地面を一度見下ろしてから豪炎寺を見据えた。
「どうだろう。一緒にされるのは嫌だろう?」
「そうだな」
 互いに苦い笑みが浮かぶ。
「聞いていいか。二階堂監督ってどんな人だと思う」
「わからないな」
 豪炎寺は校門に手を置き、潜って表情を隠す。
「また俺が怒ると思ってんだろ」
 西垣も後を追った。
「そんな所だな」
「うわマジムカつくな」
 喉で笑い、豪炎寺の肩が揺れる。
 西垣が“大嫌いだ”と付け足した。しかし声色に苛立ちはなく、口元は綻んでいた。


 幸せと幸せが噛み合うとは限らない。
 溶け合えずに出来た隙間は、触れ合えば痛みさえ生じる時もある。
 それでも幸せは幸せを求めて、人の数だけある形の中で犇めき合う。
 やめられはしない。生きる力、そのものなのだから。










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