夜間外出
- 後編 -
夜がさらに更ければ、活気のあった町も眠りに落ちていく。
宿を出た頃よりも静まり返った街道をサトリは一人歩いていた。
「っと」
足に違和感がして立ち止まり、靴の片方を履き直す。
静寂の中で何度も脳裏を回るのは、別れ際のベレッタであった。気持ちを押し込み、けれども口には出さず感情にも表さず、別れの言葉だけを刻んで手を振る。恐らく自身もそうであったと彼は思う。
わだかまりは欲望と共に情事で吐き出し、それでも残ったものは彼女の家の裏にあった水場で洗い流したというのに。
助けを呼んだ、か弱い女を悪い男共から救い、良い事をした気分でいた。だが、彼女は、ベレッタにとって幸運ではなく不運だったとでも言うのか。
「どうすりゃ良かったんだ」
愚痴を吐いても、どうにもならない。
「畜生」
腰に手をあてて摩る。慣れない筋肉を使ったのかだるい。
宿の前に着くと途端に後ろめたさでいっぱいになり、サトリは音を立てないように扉を開け、忍び足で部屋のある二階へ向かう。同室のロランは恐らく眠っているだろうから、起こさないようにさらに気をつけて扉を開ける。木が軋んで高い音を立てる。
「ただいま」
ほとんど口の動きだけの挨拶をした。
部屋の中は暗く、窓からささやかな月明かりが差し込むだけであった。
扉を閉め、纏っていたマントをロランの置いてあるそれと同じ場所に置き、ベッドの方へ行こうとする。
「……………………………………」
サトリはベッドの上に畳んである自分のサーコートに目を留め、ロランのベッドへ視線を移す。
ロランは頭具と靴を脱いで、寝巻きに着替えもせず眠っていた。胎児のように身体を丸め、微かに息遣いが聞こえる。恐らく、サトリを待ったまま眠ってしまったのだろう。
「悪ぃ」
彼の足元でくしゃくしゃになっている毛布を手に取り、掛けてやろうとする。
「んん……」
気配でわかるのか、ロランが呻き、避けるように身を捩じらす。
これでは掛けられず、逃がすまいと肩に触れた。びくりと揺れて、一瞬動きが止まる身体――――
「………う……ん?」
ロランが起きてしまったようだ。上半身を起こし、顔をサトリの方へ向ける。まだ眠りから覚めきっていない目、寝癖のついた髪、彼は次第に意識を取り戻していく。
「サトリ……?」
「悪ぃ、起こしちまったな」
サトリが漸く返って来た事を理解すると、ロランの表情が険しいものへ変化していく。そうとは気付かずに、寝かせようとロランの肩にもう一度触れようとするサトリの腕が素早く捉えられる。
「今まで何をしていたんだ」
眠さもあるのか、ロランの吐かれた声は不機嫌そのものであった。
「ごめん、ちょっとな。本当に済まなかった」
まさか女と寝ていたなどとは言えるはずも無く、謝るだけは謝る。
鼻を鳴らしたロランの眉間は怪訝そうに皺を寄せられた。
「なんだ……この匂い……」
思わずサトリも手の甲を鼻につけて息を吸う。
酒と香水と、煙草の混ざった匂いがした。恐らくベレッタの家で、あの場では吸わなくとも染み付いていたのだろう。水で身体を流しても、衣服がすっかり吸い込んでしまったようだ。
ロランでさえこの様子だ。もしもルーナがこの場にいたらと想像すると背筋が寒くなる。魔法で犬に変えられた経験のある彼女の嗅覚は人並み外れていた。不潔だと罵られ、半殺しにされかねない。
「サトリ……」
ロランは手を解放し、立ち上がってサトリと同じ目線に立つ。
「すぐ戻れって言っただろ。まさか酒場に行ったのか」
お説教が始まった。
仲間のリーダー各で、真面目で正義感のある、強くて優しいロラン。
彼の言葉はいつも正しく、思い遣りに溢れている。けれどもサトリにはどうも肩肘張っているように聞こえてしまう。
ここを出る前も、人に言えない何かを溜め込んでいるような気がしていた。
なぜそんなに一人で頑張るんだ。俺とルーナはそんなに頼りないか。サトリはふと目の前のロランが哀れに映る。
「サトリ、聞いているのか」
「聞いているよ。ロランお前は俺の母親か」
「そんなの知るか。真面目に話しているんだ」
二人に母親はいない。ルーナにもいない。
口にしてしまったのはなぜだろう。こんな冗談、軽口は吐くが言った事はなかった。
このまま続けると口論になりそうで、サトリの胸がざわつき始める。
「だから悪かったって」
「もしルーナに知られたら……」
さらに付け足されるロランの一言に、サトリの中で何かが吹っ切れた。
「ロラン。俺を心配して言ってくれているのはわかる、ルーナの事だってお前は考えてくれてる。でもさ」
僅かに間を空け、言うべき言葉を選別する。理性を働かせないと暴言を吐いてしまいそうだった。
「お前はどうな訳?」
「僕?」
目を瞬かせるロラン。
「俺を待っていってくれたんだろう。なのに、こんな遅くに、また酒を飲んで。それについて思う事は無いのか。腹が立たないのか」
「言いたい事はわかる。でももう遅い」
「日が出ても言わないだろうが。俺はお前の怒りはどうなんだって聞いてるんだよ」
痺れを切らし、はっきり言ってやる。押さえきれずに、真実の一部を吐露した。
「俺、女の子と寝たんだぜ」
「は?」
ロランは呆気に取られている。
「ロランが健気に待っていた間に、俺は女の子とイイコトしていたの。ムカつくだろう?」
ご丁寧に説明してやると、暗い中でもロランの顔が赤く染まるのがわかった。
しかし羞恥は瞬時にして怒りへと変化する。さすがのロランでも、かなり堪えただろう。
「サトリっ!」
ロランは拳を上げ、殴りかかる体勢になってサトリは構えるが、彼は顔を歪めて引っ込めてしまった。
拳をもう片方の手で隠し、顔を背ける。
力の強いロランが本気で殴ればただでは済まないのを、本人が一番良くわかっているはず。だがそれにしても様子がおかしい。伺おうとするサトリにロランは言う。
「やめてくれ、サトリ」
「あ……」
サトリにひょっとしたら、という勘が閃く。
ロランは己の力を恐れているのではないか。力の矛先が、魔物から人へ移らないように注意を払っているのではないか。人外の力に立ち向かうには、それなりの力を蓄えなくてはならない。持つべき力は、危険なもので、扱い所の範囲を日々狭めていく。
サトリ自身もベレッタを助ける一方で人間相手には力を加減していた。ロランの事だ、気にする気持ちは人一倍大きいに違いない。それに彼の力は魔法を頼らない肉体自体の強さであり、自覚も恐れもより強いものになるだろう。
「……………………………………」
部屋を包む闇は普段見えているものを隠し、見えないものを浮かび上がらせてくれる。
ロランの表情はよく見えはしないが、形作る輪郭は脆く映った。ロランは自分とは違う、ほぼ正反対といっても良い、強い男だと思っていたのに。彼にも弱さはあるのだ。
サトリは共感を覚えると同時に寂しくなる。胸を温度のない手で掴まれるような、微かな息苦しさ。
愛おしさとでも言うのだろうか。どうにかして彼を慰めたくなる。
こんな時、どう言えば良いのだろうか。適当な言葉が浮かばない。
こんな時、どうすれば良いのだろうか。ふとベレッタがしてくれた事を思い出す。眠たそうな自分に口付けて、目を覚ませてくれたのだ。男と女がするものなのだろうが、ロランにしてやりたくなった。
サトリは直感したのだ。力を恐れるロランは、俺が触れないと誰にも触れられないだろうと。
「ロラン」
出来るだけ優しく囁いて近付き、指をロランの頬に伸ばす。触れるだけの動作で彼の顔を向けさせる。
瞳は放っておいてくれと言わんばかりにサトリを見詰めていた。
そっと目を閉じ、息を止め、ロランに口付ける。
「な!」
ロランが慌てたようにサトリを引き離し、反射的に頬を引っ叩く。良い音が響いた。
「って〜……」
数歩下がって頬を押さえ、サトリが痛みを主張する。なんて馬鹿力だ。涙が思わず浮かぶ。
「ご、ごめっ。でもサトリが変な事するからだ。僕に絡むな」
青冷めて申し訳ない顔になったかと思うと赤面して怒り、今度は拗ねた。表情がころころ変わる。
「あーこりゃあ手形つくな、うん。超痛いだけだ。問題ない」
押さえた手をおろして、腰にあてる。しかし焼けるように痛い。
「俺だってロランと一緒に旅しているんだから、それなりに力はついている。だから剣で斬りかかられたりとかされなきゃ、大怪我なんてしない。だから遠慮する事なんてない。仲間だろ?」
「あ……うん…………」
ロランは自分の手とサトリを交互に眺めて頷く。
「もしかして、励ましてくれたのか?サトリが?」
「引っ掛かる言い方だな……。まあどうでも良いさ。俺はそろそろ寝るよ」
自分のベッドの方へ行こうとするサトリだが、振り返って釘をさす。
「あのな、あれ……は確かにそうなんだけど……その、俺を信じてくれ」
「は?」
「じゃあな、おやすみ」
手早く支度をしてサトリはさっさと眠ってしまった。すぐに寝息が聞こえてくる。
「……………………………………」
ロランはまたもや一人になった気分になる。隣のベッドで眠るサトリを見下ろして、唇を大げさに手の甲で拭う。
「もっと別の方法でも良かっただろ」
愚痴を呟くと、何やら胸の奥からふつふつと溜め込んだ怒りが湧いてくる。
結局、くつろげない体勢で眠り、途中で起こされて、絡まれた。他所でつけてきた、知らない匂いを纏って。振り返れば散々であった。
「……なんだよ」
口を尖らせ、眠らずにテーブルへ向かう。そして下から隠してあった酒瓶を取り出し、飲みだした。夜はさらにさらに更けていく。
朝。サトリはロランより先に目覚め、テーブルに転がった空の酒瓶を見て早々に肝が冷える。
「ろ、ロランさ〜ん?」
上擦った声で機嫌を伺いながら、ロランのベッドに腰掛けて毛布に包まる彼を起こそうとした。
「そろそろ起きないと、王女が怒りますよー?」
揺するがびくともしない。飲みすぎて爆酔しているのか、それとも悪酔いしてしまったのか。ほぼ自分のせいなので罪悪感が募る。
「ロラン?具合大丈夫か?」
声を戻し、毛布から顔だけでも出そうと引っ張った。
出てきたロランの目はパッと開き、急な動きで身体を起こす。
「……………………………………」
「やあ、おはようサトリ。君の言う通り、早く準備しないとルーナが怒るね」
にこやかに挨拶をしてベッドを降り、爽やかに支度を整えだす。一方、サトリはというと、ベッドに座ったまま硬直している。置かれた手はわなわなとシーツを握りこむ。
してやられた。
起きる動作でロランは昨晩の仕返しという名の口付けをしてきたのだ。
どうやら予想以上にロランは怒っているらしい。
「なんだよ。たかだかキスくらい」
ロランに聞こえるように呟きながら、口元をごしごしと拭う。
こうしておかないと、どうも落ち着かない。
背中越しではあるが、確かめでもしているロランの視線を感じた。
その後、ロビーでルーナと落ち合い、三人で宿を出る。
町は夜の顔を隠し、再び昼間の顔を見せていた。
「あら?」
ルーナはサトリを見て声を上げる。
「サトリどうしたの?着替えちゃって」
サトリのサーコートの下は昨日とは異なっていた。
着替えでもしないと匂いでルーナにはあらゆるものがバレてしまう可能性があるからだ。
「ん?気分転換さ」
「そう。早く町を出て地図を確認しましょう」
「うん」
三人は町の門へと歩いていく。
そんな彼らが通る姿を、同じように起きていたベレッタが見つける。
「あ」
サトリらしき人物に、吐かれた吐息が声となる。
裏路地から出てきたばかりの彼女は立ち止まり、進むべきか戻るべきか立ち往生した。
遠くから見える三人は眩しく、輝いている。昨日までなら眺めるだけで終わったのに、輝きに触れてしまったらもどかしさが胸を締め付ける。
どんどん彼らは遠くなり見えなくなろうとしていた。
「あっ……!」
見失うまいと彼女の片足が前に出る。だが偶然、誰かが通りかかって次に見た時には彼らの姿は無かった。
「……………………………………」
ベレッタは薄く開きかけた口を閉じる。そんな彼女に通りかかった“誰か”は戻って声を掛けた。
「もし」
「はい?」
振り返るベレッタ。
「ああそうだ。昨日のお嬢さんでしたか。私の事をお覚えですか?」
そうは言われてもよく思い出せなかった。昨日はサトリに助けてもらった記憶しかない。
「私は酒場の主人です」
「ああ」
「昨夜は素敵なダンスを見せてくださいましたね。いやー見惚れましたよ」
「そんな……」
ベレッタは首を横に振る。素敵なのは全てサトリの方であり、自分は何もしていない。
「もし宜しければ、うちの酒場でウエイトレスをしてみませんか?あなたに是非、立ってもらいたい」
「あ………………」
目を丸くさせ、口元を手で押さえても震えが止まらない。
「はい……!」
力強い返事をする。ベレッタの姿は朝日に照らされ、ブロンドの髪に反射して煌いた。まるで彼女の希望のように。
あれから数ヵ月後、ベレッタは町の酒場の看板娘として一生懸命働いている。
今日もグラスを丁寧に、精をこめて磨いていた。
サトリたちの姿は一度たりとも見ていない。たとえ二度と会う事はなくとも、彼から与えられた幸福と感謝を胸に彼女は歌を口ずさむ。
Love Song 探して。
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