夜間外出
- 中編 -
明るい場所を目指して全力で逃げる。
「てめええええ!!許さねええぞ!!」
怒りと憎しみのこもった声が背後から空気を伝わって聞こえてきた。
手を抜きすぎたか。サトリは密かに舌を打った。速度を上げたいが、連れがいるのでそうもいかない。
「もっと、走れるか?」
振り向き、女を見て確認を取る。女は大きく頷く。
「はっ……はっ…………はっ…………」
光が見えてくる。次第に人の気配と声も聞こえてきた。
「はっ…………!」
大通りへ抜け、サトリは反射的に女の身体を寄せて、靴が擦れるくらいの急なカーブをする。
「おおおおおおおおっ!!」
闇の中から叫び声を上げて飛び掛って来た大男が、勢い余って出店に突っ込んだ。
「まずは一匹。いや、一人……どこか、隠れられる場所は」
皮肉交じりに言い直して、再び走り出す。
「は、はっ………」
女の息遣いで疲労がわかる。走るだけで逃げ切れはしない、と。
ロランやルーナには悪いがサトリは宿屋を目指した。来た道を戻るだけなら初めて訪れた町でもだいたいわかる。本当は町の住人である女に聞きたいのだが、彼女はとても喋れる状況ではない。息をするだけで大変だろう。
「………あ!」
女が高い声を上げる。足をもつれさせて、転びそうになっていた。
「こっちへ」
これ以上は無理だ。彼女を既で抱きとめ、サトリはすぐ側にあった店に入る。それは彼が入ろうとしてやめた、酒場であった。
入るなり、すでに出来上がっていた人間たちの奇異の目が二人を注目する。
「座って」
入り口近くの空いた席に女を休ませようとさせるが――――
女は笛の音のような悲鳴をあげ、椅子を飛び上がってサトリの背中に隠れた。
サトリたちを追って店に入った二人目の男とばっちり目が合ってしまう。
怒りで理性を失っているのか。すぐさま拳を振り上げ、彼女の座っていた椅子に最も近いテーブルに叩きつける。
後ろへ飛んでかわすも、異変に気付いた客たちが騒ぎ立ち、逃げ出す者や椅子や瓶を倒す者もおり、中は小さなパニックに陥った。
「すまん!逃げ切れなかった!」
女に、店に、サトリは大きな声で詫びる。
「う……う………」
背中を掴む女の手が震えた。そんな彼女の腕に、サトリの手がそっと触れる。
「心配すんな。守るからよ」
男から目を離さずに彼女の方へ身体を向け、片手を組んだ。
「おい……一張羅が焦げちまったじゃねえかよ」
男は酒瓶を拾い上げ、二人目掛けて投げつける。
「きゃあ!」
空いた手で受け止めるも、瓶は割れて残っていたらしい中身が飛び散った。
次はナイフを拾って突き刺そうとしてくる。食事をするものではなく、何かを切る専用のものらしく、なかなか危ない。
サトリは濡れた片手を女の腰に回し、踊るように男の攻撃をかわし始める。非難させられない時は、こうして密着させた方が彼にとっては都合が良かった。
「ちっ、ふざけやがって」
突く速度がやけになって大振りになり、隙が見え始めてくる。だがまだ反撃の時ではない。
客は壁際に寄り添い、サトリと女を見守った。
サトリはサマルトリアの王子ではあるが、のんびり屋の王子はいつもダンスパーティーを眺めているだけであった。親には勝手に諦めていたのか強制はされなかったし、妹が踊ろうと急かすが適当に流していた。
ちゃんと踊るのは、これが初めてかもな。
内心おかしく思い返すが、今になって正式な場所で踊りたくもなってくる。
再び踊れるのだろうか。シャンデリアの下で。
美しい曲に包まれて、優雅に穏やかに、世界の破滅など考えずに。
ブーツとヒールが律動的に音を奏でる。
大きくターンをすると女のドレスがふわりと広がる。
握った手を高く上げて、彼女をくるりと回転させた。二人の間をナイフが抜ける。
今だ。サトリの瞳が鋭く細められた。
空振りした男の手を捕まえ、身を屈めて足払いをかける。
「今度はお前と踊ろう」
浮かんだ男の身体を背負い投げた。
轟音で店は静まり返るが、すぐに拍手が返って来る。温かさに包まれるサトリと女に、主人らしき男がカウンターから声をかけた。
「弁償はあの男にとらせる。早くお逃げなさい」
「助かる」
「有難う……」
結局休む間もなく酒場を後にする。
「あの」
女が安堵しきった声でサトリに話しかけてきた。
耳を傾けようとした彼だが、すぐ近くで殺気を感じ取る。
「ぐっ」
頬の骨に硬い何かがぶつかる感触。サトリは地面を引き摺るように殴り飛ばされた。
「…………っ……」
口元を拭い、身を起こして向き合う。
「見た目によらず頑丈だな」
恐らく最後の一人のだろう追っ手の男が下卑た笑みを浮かべていた。
「ちょっと前なら今ので伸びていたさ」
挑発的な態度を取りながら、素早く横を見る。女は咄嗟に押したおかげで無事のようだ。
これなら思い切りやれる。サトリは男目掛けて走り出し、流れる動作で取り出した鉄の槍を振るい上げる。何を言おうがやろうがお構い無しに腹を柄で殴りつけた。一撃必殺。男は成す術も無く蹲り、地に転がった。
意識はあるらしく、呻く男に言ってやる。
「もう彼女に手を出さない事だ。今度やったらわかってるな」
男はただただ顔を引き攣らせるしかなかった。
「は……!」
女は大きく息を吐いて微笑み、サトリに駆け寄る。
彼女が何かを言おうとしているのだが周りが騒がしすぎてよく聞こえない。場所を離れてまた細い路地に入ると、はっきりとした声で彼女は話しかける。
「有難うございます。本当に助かりました」
「良いって事よ。じゃあ俺は」
去ろうとするサトリの手を、女は両手で包んで引き止めた。
「手が……」
女は悲しみに顔を歪め、俯く。
この手は彼女の腰を添えていた。この手は投げつけられた酒瓶を受け止めていた。
瓶の破片は手袋を裂き、欠片が皮膚を傷付け血に濡れていた。
同時に浴びた酒で誤魔化せると思っていたのだが、どうやら考えは甘すぎた。
「大丈夫だから、さ」
サトリは回復の呪文を唱えだす。
すると女は首を横に振り、中断させる。
「どうしたよ」
「……私に、私に治療させてください」
「え?」
女は顔を僅かに上げ、細い声で呟くように言う。
「この近くに私の家があるの。御礼をさせてください……」
「え……」
喉が勝手にごくりと生唾を飲み込んだ。
受け入れるのも、断るのも、どんな返事をすれば良いのか困惑するサトリ。
視線のやり場さえもわからなくなり、何となく手の方へ向けられる。ロランよりは貧弱ではあるが、男の自分の手に絡みつくように触れている白く細い女の指に心音が高鳴る。先ほど逃げていた時よりも緊張している。否が応にも意識してしまう。
「良い……ですか……?」
女の再確認するような問いに、選択の余地は無かった。
「……お言葉に、甘えさせて貰おう」
女の話した通り、彼女の家は少し歩けば辿り着いた。夜の闇よりさらに深い光の当たらない路地に佇み、水の音がどこからか聞こえる。
「そこを入って進むと水路があるの。意外と良い場所なのよ」
サトリの様子に気付いた女が説明しながら家の鍵を開けた。
「あまり綺麗じゃないんだけれど」
自分から誘っておいて彼女ははにかむ。矛盾しているようで、どこか可愛らしく見えた。
「お邪魔、します……」
ランプが点けられると家の中を淡い光が包んだ。
「そこの椅子に座ってて。今、薬箱を取ってくるわ」
中に入り、女に指定された椅子にサトリは大人しく腰掛ける。
しかし女の部屋をそう見回してはいけないと理性は言っても本能は聞かず、瞳だけを動かした。
肌で湿気を感じ、鼻につく独特の香水の匂い。ベッドの周りは布で隠されていた。
女は娼婦かもしれない。顔を見た時にそう感じた事を思い返す。家の中でも行きずりの男を呼び込んで商売をしたらしい雰囲気がした。
こんな事をしているから、危ない目に遭うんだ。
やめれば良いのに。旅に出たばかりの頃、身を売る人間の存在を知った時はそんな事をよく思っていた。
けれども今は、そうしたくても出来ないという状況がある事を学んだ。あくまで想像の範囲ではあるが。
世界を救えば、彼らは救われるのだろうか。全ての人が等しく平和を手に入れられるのだろうか。
保障はどこにもないが、信じてやり遂げなければならない。この身体を流れる赤い血の宿命であった。
「持ってきたわ」
薬箱を抱えた女の声で我に返るサトリ。
「どうかしましたか?」
「考え事をしていたんだ」
「そう、ですか。手をお見せください」
女は膝を突き、サトリは傷付いた手を差し出す。
丁寧に手袋が外されると、素手が曝け出される。擦り傷から既に変色した血の跡が付いていた。
「まあ、頼もしい手」
「は?」
初めて言われた感想に、思わず声を上げてしまう。
あまり意識はしていなかったが、書物ばかりを持っていた貧相な手は、旅の記憶を刻んで随分と男らしい手へ成長していた。
「お名前を、まだ聞いていませんでしたね。教えてくださいますか」
女は手を水で汚れを落とし、優しく拭う。
「サトリ。君は」
「ベレッタです。サトリ様はどこかを旅してらっしゃるの」
「ああ、そうさ。遠い、遠いどこかだよ」
「きっと、大きな事をなさろうとしているのね」
傷口に薬草を痛みが伴わないようにあて、包帯を巻き込む。
「綺麗な手……サトリ様……」
ベレッタと名乗った女は、治療を終えたサトリの手を愛おしそうに頬へ摺り寄せた。
「あっ……あのさ」
サトリが慌てたように口を開く。生まれが生まれだったせいか“様”を付けられる違和感に気付くのが遅かった。今のサトリはロトの紋章が描かれたサーコートを纏っていない。証の無い、旅人以外の何者でもないのだ。
「俺、様だなんて」
「私にとって貴方は勇者様よ。いいえ、王子様みたい」
うっとりとした瞳でサトリを見上げるベレッタ。
あの散らかった酒場で踊ったダンスにお城のパーティーを夢見ているようであった。
それに勇者なんて呼ばれ方自体、サトリ自身はロランにこそ相応しいと思う反面、劣等感を抱いていたので驚きと嬉しさの混合した波が脳へ押し寄せていた。
「そうだ」
ベレッタは立ち上がり、胸元にサトリの手袋を持って言う。
「繕わせてください。助けてもらうばかりじゃ悪いもの」
「……あ………………」
彼女の押しに引き攣る口元は上に上がる。
「うん」
つい頷いてしまった。
「ではその間……」
てきぱきとベレッタはサトリに酒とグラスを用意する。いきなり酒を出され、目を白黒させるサトリに、彼女も瞬きをした。
「会った時……お酒の匂いがしたものですから……」
「の、飲む。飲むよ」
慣れた振りをして見栄を張ってしまった。
ベレッタは奥の方へ行ってしまい、残されたサトリは手持ち無沙汰に酒を手に取る。
瓶を空ければ宿で飲んだものとは異なる、別の酒の匂いがした。
なぜ。
ここへ。
一人で。
ロトの証も持たず。
一口飲めば喉を刺激し、二口飲めば頭がぐらつく。
脳裏を過った疑問は考えてもどうにもならずに胃へと流れていく。
まるで非現実のような、良い夢とも悪夢とも言えない、幻の中のような感覚。沼地のように沈んでいく気分であった。
「サトリ……様…………?」
小波のように背を揺らされる。いつの間にか眠気に襲われ、適当な棚に突っ伏していた。
「手袋、縫えましたわ」
「有難う……」
生欠伸をして、身を起こすサトリが幼く見えて、ついベレッタはくすくすと笑う。ろくな反応も取れずにサトリはやはり子供のように眠気まなこを擦った。
「ふふ」
彼女はサトリの手袋をはめてやり、背を支えるようにして顔を近付ける。眠気で気付かなかったサトリではあったが、口に柔らかい女の唇が触れて一気に目が覚める。
「………………?」
驚きのあまりに目を丸くさせるサトリに対し、ベレッタは目を細めて口元は男を誘う笑みを形作った。
「今日は本当に有難う。夢のようだった。ですが私はしがない娼婦。大きな幸せや一方的な助けは反動が強すぎるわ。だから………」
ベレッタはもう一度口付け、離す。
「夢から醒まさせて」
サトリは顔を背け、繕って貰ったばかりの手袋で口を拭う。
彼女の紅が付着し、色も相俟って浮かび上がる。
危険で毒々しい、魂を揺さぶられる赤であった。
「駄目だ、駄目だって」
サトリは立ち上がり、その拍子で椅子が倒れる。静寂が音を大きく錯覚させた。
扉へ向かおうとする彼の背をベレッタは後ろから抱きとめる。彼女の白い腕が身体に絡みついた。
「こんなのはさ、どうやったって………誤魔化しに過ぎない。どうやったって、どうせ………」
「良いの」
背中に彼女は顔を埋め、くぐもった声で囁く。
「いけないんじゃないわ。きっと、そう出来ているんだわ」
抱き締める腕に力がこもる。
「助けてくれたのなら、最後まで助けてください」
サトリの腕が力なく垂れ、彼は彼女の身体をそっと離して向き直った。
今度は瞼を閉じ、三度目の口付けを交わす。
ベレッタに引かれるままにベッドへ飛び込み、シーツに溺れた。
身体の特に中心が熱いのに、頭はやけに冷えている。彼女の手が胸元へ呼び寄せ、ドレスをすり抜けて乳房に触れる。
柔らかくて、温かくて、気持ち良くて、良い匂いがした。
感覚が沸騰し、理性が飛んだ。
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