指の先から感覚を失い、音も無く身体が朽ちていく。遠くなる意識は遥か空へ昇る。
広がるのは銀河。幾多の星を抜けて映る虚空。それさえも越えた先に光。
光の世界で魂を中心に巡る命を感じる。果てたはずの指の第二関節が動いた。
全てを白に染める光が弱まると、赤みを帯びた空が見える。
夕焼けではない、夜明けの色。流れ行く水の音を、微かに耳が捉えた――――。
マルディアスは滅びていない。
サルーインに勝ったのだ。彼――――ジャミルは確信する。
邪神に打ち勝ち、生き残る事が出来た。
神となったミルザとは違う。人としての生命が、この胸に宿っている。
空はこの上も無く美しい色をしている。染める太陽は、これからも世界を暖かく照らし続けるのだろう。
世界が、満たされていく。
幸福に溢れる世界が待っているのだろう。
この温もりの中へ英雄たちは帰っていくのだろう。
ジャミルが目を瞑れば浮かぶ故郷。憎みきれなかった、救いたかった故郷。
幸せそうなファラの顔、横で笑うファラの母。
故郷が彼を迎え入れてくれる。彼が帰るべき場所。
待っていてくれる存在がある事をジャミルは喜ばしく感じ、自然と口元を綻ばせた。
だが、幸福の風景は水に濡れるように滲んで、闇の中に溶ける。
友の背中が過ぎった。決して忘れてはならない、友の姿が。
あの日、あの時。
友の名を呼ばねばならなかった。
肩を掴み、強引にでも振り向かせねばならなかった。
走って追いかけなければならなかった。
離してはならなかった。決して離れてはならなかった。
ジャミルは大きな過ちを犯したのだ。
罪は罪。たとえ世界が光に包まれても、胸の内に闇を抱えていた。
満たされる世界
-1-
意識を取り戻した仲間たちは身を起こし、かつてイスマスがあった湖を崖の上から見下ろしている。
覆っていた暗雲は晴れ、浴びる日の光の心地良さに植物の気持ちを知ったような気分だ。
「わたくしたちは、勝ったのですね」
アルベルトの視線の先には沈んだ故郷があった。
「もう、何も無いわ」
隣に立つクローディアは言葉とは裏腹に、アルベルトの横顔を伺う。
「また、建て直せば良いではないですか」
「そうね、滅びがあるように再生もあるわ」
やや苦味を残すが、クローディアは笑った。そんな彼女の背後からシフが現れ、豪快に笑う。
「アル、あんたは一人じゃない。復興を手伝うよ」
「…………私も、手伝っても良い」
「シフ、クローディア、有難う」
アルベルトの微笑みに曇りは無い。晴れやかな良い顔をしていた。
「おう、モテモテじゃねえかアルベルト」
最後に起き上がったジャミルが茶々を入れる。
「貴方も元気そうで何よりです、ジャミル」
「俺はいつも元気なつもりさ」
肩を竦める振りをして余裕を見せる。
英雄たちが集った所で、今後どうしようかという話題になった。
話はすぐに片付いた。故郷への帰還である。
アルベルトは一旦クリスタルシティへ、シフはガト村。クローディアはいかにも浮かない表情をしている。ジャミルは薄く笑い、特に喋らなかった。
「クローディア」
「わかっているわ……」
クローディアは静かな中にも力強く頷く。
「ジャミルは南エスタミルだね」
「そんな町もあったな」
「またまた、貴方には待っていてくれる人がいるではありませんか」
「そう、だな」
ジャミルの幼馴染・ファラの事は、ある一件より仲間たちは知っていた。
しかし明るく清々しかった雰囲気の中に、緊張が流れ込んでくるのを彼らは感じていた。誰かが“あの名前”を呼ぶのを待っていた。自分以外が呼んでくれるのを望んでいた。
「彼は……どうしているのかしら……」
口にしたのはクローディア。一瞬、クローディアに注目するが、すぐさま別の方向へ視線は散る。
「もう邪神は去りました。諦めてくれていると良いのですが」
地に視線を落としていたアルベルトの顔が上げられ、ジャミルを見据えた。
彼はかつて仲間にいた男であった。
彼は記憶を失い、旅する事で思い出そうとしていた。
無口な男であった。無愛想な男であった。
共にいる事で、絆が生まれると信じていた。心通い合わせられると信じていた。
期待は裏切られた。運命は残酷であった。
初めから、相容れぬ存在だったのだから。
何をどう足掻いても、相容れぬ存在だったのだから。
彼の名はダーク。記憶を失っていた男。
正体はアサシンギルドの首領。エスタミルを混沌に陥る野望を抱く男。
旅の道中で壊滅させたアサシンギルドは仮初めのもの。
ダークは記憶を取り戻すと仲間たちから離れ、ギルド復活への道を歩んだ。
正体を知った時点で、もう共にはいられなかった。別れるべく別れたのだ。
「ジャミル、油断はしないでください」
真剣な眼差しで言い放つアルベルト。
「油断だらけだったアルベルトに言われるとはな」
「冗談で言っているのではありませんっ」
「わーってるよ。心配すんなって」
ジャミルはアルベルトの肩を軽く叩く。
普段の彼らしく、仲間たちは安心を覚えていた。
「しばしのお別れです」
「元気が一番だよ」
「また会いましょう」
「じゃあな。また風が向いたら会おうぜ」
ひと時の別れの時が訪れた。
まずはジャミルから外れ、一人別の道を歩んでいく。
軽く上げられた手が、遠くなるにつれ少しずつ下がっていく。
「ジャミルは大丈夫でしょうか」
背を見つめたまま、アルベルトが言う。
「ジャミルもあいつも、曲がり道を知らない不器用な奴だからね」
シフはまだ手を振っている。
「冷たいわ、ジャミル」
風がクローディアの長い髪を撫でて流れる。
ジャミルは振り返らなかった。歩調は迷いを一切感じない、堂々としたものであった。
何か声をかけるべきだったと仲間はそれぞれ思うが、それぞれ己の中で否定する。
決意が揺るがない事を悟っていた。言葉はもはや意味を成さない。
歩みを止めさせない。仲間としてせめてもの情けであった。
さよならは言わない。仲間としてせめてもの意地であった。
遠くなっていく仲間の存在は動かない。じっと見送ってくれている。
ジャミルは心の中で感謝した。
ジャミルは確信していた。今、この俺のようにダークの決意もまた揺るがないと。
引き寄せあう因果は目に見えなくとも確かなものを魂に刻んでいる。
アサシンギルドは例え仮初であっても、ジャミルの大事な友を闇に引き込み、死に至らしめた。
本物ならば尚の事、ジャミルは目を瞑ってはいられない。
もう悲しみを広げてはならない。
決意は一つ。やるべき事はただ一つ。
ジャミルとダーク。互いの実力、危険さは心得ている。
己の信念を貫こうとする時、絶対に立ちはだかるだろう壁。壊さねば本当の明日は訪れない。
もうとっくに予感はしていた。そう遠くない未来に訪れる決意の時を。
刻々と、もう間近まで近付こうとしていた。
ダークも感付いているだろう。脅威の足音を。
ジャミルは一人で道を歩む。死へと続くかもしれない道を。
何が待ち構えているかわからないのに、無謀な道を歩んでいる。
不安ではなかった。寧ろ心地が良い。こんな場所が自分には丁度良い。
自ら光を避けて、影を求めて沈もうとしている。
世界を巡り巡ったが、結局こんな生き方しか出来ない。
馬鹿げているが、しょうがない。
あいつも、きっとそうなのだろう。
利き手が拳を作る。
この手は、再び仲間を手にかけようとしている。
これが最後であるように。最後の願いであるように。全ての終わりを強く強く願った。
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