悪夢
-9-



 底の無い深淵。霧の中を彷徨っていた。
 何も見えない、何も感じない、何も聞こえないはずだった。
 遥か、遥か上空の虚空から、獣の遠吠えが聞こえてきた。


 遠く尾を引いた切ない鳴き声。泣き声とも取れる、悲しみと孤独を含んでいた。
 何がそんなにも辛いのか。耳はその音を捉えて離さなかった。


 突然大きく吠え出し、激しく咆哮する。
 ああ、怒っているのだと感じた。だが衝動とは違う、憎しみを含んでいた。
 辛いのに、怒らずには済まない叫び。身体が痛むのか、心が痛むのか、それとも両方なのか。


 次は低い唸り声を上げた。
 嗚咽のようにも聞こえる。やはり、泣いているのだと思った。
 なぜ、そうまでに叫ばずにはいられないのか。
 わからなかった。もしかすると、ただ忘れていただけなのかもしれない。ふと心が囁いてきた。


 咆哮の他に、何かがぶつかる音がする。爪か、牙か。硬く、喰らい付き、噛み千切る、争う音。
 戦っているのだと察した。傷付き、何を得ようとしているのだろう。何か残るものでもあるのだろうか。意味はあるのだろうか。
 疑問はすぐさま解決した。あれは獣だ。理性など無い、あるのは本能だけなのだと。
 本能のままに悲しみ、本能のままに怒り、本能のままに戦う。愚かな事だと蔑んだ。


 だが、何かが震える気がした。深淵よりも奥底にある魂が。
 羨望でも抱いているというのか。あのような醜い行為を。
 心とは裏腹に魂は震え続けた。人も獣だったと思い出す。
 この咆哮は人のものかもしれないと、脳裏を過ぎった。








「だあっ!!」
 ジャミルが叫び、細剣を突いた。
「ぐっ」
 グレイは刀で咆哮を逸らす。
 刃と刃が擦れ、キリキリと音を立てた。
 どれくらいの時が経っただろうか。死闘は長く続いていた。
 双方、無数の切り傷を負っていた。髪と衣服は血と汗でしっとりと濡れている。


 どれだけ傷付いても、どれだけ倒れても立ち上がり、決して屈しようとはしない。
 瞳はただ目の前の獲物を捉えていた。頭の中は獲物を打ちのめす事しか入ってはいなかった。
 その姿は人の衣を剥いだ獣のようであった。本能のままに、生き残る為だけに戦う。
 理由や感情、それらは淘汰され叫びとなって木霊するのみ。


 ジャミルは剣を引き、速度を優先させた浅い突きを連続的に繰り出した。グレイは刀で防ぐが、一撃一撃が次第に重くなり、足が後ろへと下がって行く。
「はっ」
 体勢を低め、グレイの足を払った。均衡を崩し、踏み支えようと力を集中させた時、ジャミルを捉えていた目が丸く見開かれる。ジャミルは体勢を低くしたまま動こうとしない。
「悪いな。あんたは良くやったよ」
 彼の身体の回りを水流が川のように流れて包み込む。最終手段のオーヴァドライブを使用したのだ。全力でグレイを倒す。その為ならば惜しみはしない。それが彼なりの礼儀だと考えた。
 ジャミルの表情が笑みを作る。こいつを殺す事が出来るのだ。狂気をも含み、心の底より嬉しそうな顔をしていた。時の流れを止めた空間で、彼は握っていた細剣を捨て、懐から隠し持っていた武具を全て取り出す。短刀が五本。それらを指に挟み込んで構え、グレイの身体へ突き刺していく。
 動かないグレイの身体は彫刻のようであった。抵抗も、痛がりもせずに刃物を飲み込む。両手両足に四本、そして地面に手をつき宙返りをして後ろへ回り、背中へ最後の一本を投げつける。同時に時が動き出し、傷口から鮮血が噴き出してグレイが悲鳴を上げた。
「うがあぁっ!!」
 痛がる様を眺めるジャミルの身体に、圧し掛かるような疲労が襲い掛かる。膝の力を失い、崩れそうになるが、それよりも早くグレイが倒れると思っていた。


 しかし、彼は倒れなかった。
「これしきの事で!」
 グレイは腕に刺さった短刀の柄を掴み、一気に引き抜く。続いて残りの短刀も抜いて地面へ捨てた。転がる刃には赤黒い血がこびり付き、抜いた箇所は血が止め処なく流れている。背中に刺さった短刀を力強く掴んだ時、ジャミルは全身が震えるのを感じた。恐怖しているのか、それとも喜んでいるのか、魂が震えて止まらないのだ。
 引き抜きながら半身を曲げ、グレイが振り返った。その瞳には純粋なまでに真っ直ぐな殺意がこめられている。短刀を捨てて刀を両手に持ち替え、止血もせずにジャミルに向かって突進する。
「おおおおおおお!!」
 ジャミルは低く呻くが、かわす術がない。膝を持ちこたえるだけで精一杯であった。
「がっ……………!」
 刃が腹を突き抜け、貫通する。喉が鈍い声を上げた。それでもグレイの猛攻は止まらない。ジャミルを突き刺したまま、岩壁へと突き進む。


 刀の先が岩壁に刺さり、振動で身体が揺れてさらなる痛みが走る。
「っくしょう…!!!」
 噛み締めた歯の間から、血反吐が伝う。悔しさが湧き上がった。
 ジャミルの広げた両手がグレイの頭を掴み上げ、強烈な頭突きを食らわせる。顔を歪ませて眩暈を起こすグレイの隙を逃さず、足蹴りで身体を押し退け、距離を離そうとする。刺さった刀につられて前のめりになるが、引き抜こうと刃を握り締めた。
「あっ…………く…………あああああああ!!」
 肌が裂けて痛みを伴い、切っ先を血がだらだらと伝う。それでも手を離さずに、気力だけで抜き放った。その反動でグレイの柄を握る手が緩み、ジャミルはすかさず奪い取る。意識が遠のきそうになるが必死で繋ぎ止め、腹に膝蹴りを放ってグレイを地面に転がさせた。
「うう」
 ジャミルの半身ががくりと倒れるが、糸で吊り上げられるように持ち上がる。よろけながらグレイに近付き、倒れそうになりながら身体に跨り、膝を付ける。刀を持った震える手が上がり、カタカタと音を立てた。切っ先は狙いを定めて喉の辺りで音が止まり、落下させる。
「…………は」
 グレイが白刃取りをして、押し戻そうとさせた。ジャミルも突き刺そうと押し込めようとする。相反する力が刀を再び震わせた。双方の瞳が交差した。グレイと同じく、ジャミルもまた瞳には殺意しか映っていない。


「あああ!!!」
 グレイは身体を横にさせて、切っ先がずれた所をジャミルの手を払った。刀が飛んで、地面に転がり半周回る。そうしてジャミルの胸倉を掴んで、空いた手を握り締めてその頬を思い切り殴りつけた。
 骨の硬い感触がして、嫌な音を立てる。次に腹へ拳をめり込ませる。ジャミルは項垂れて動かない。だが手を休めずに殴り続けた。
「んのやろう!!」
 ジャミルはぐっと顔を引き上げ、グレイの横顔を懇親の力で殴りつけた。
「はっ……………は………はぁっ……」
「…………が………ぁ………、ふぅ………」
 肩で荒い息をして、互いの肩を引っ掴んで身体を起き上がらせる。
「んぐっ………ふ……」
 咳き込み、込み上げた血が絡ませても、退く気を見せない。
 手は傷付き、膝はガクガクと震えている。傷口からは血が流れ続け、乾いた血は汚らしくこびり付いている。ぼろきれのような身体。けれども瞳はギラつき、獲物を映している。


「だああああああっ!!!」
「どらあああああっ!!!」
 身体の奥底から、力を引き摺りだして大きく咆哮した。


 生きようとしていた。
 立ち向かおうとしていた。
 震える魂が、飽くなき力を奮い起こさせる。
 どれだけ傷付いても、どれだけ血を流しても、痛みを持って大地に足を付けていた。








 遥か空の上を、獣が鳴き続けている。
 痛さが嘆きが耳の中より入り込み、魂へと染み込んでいく。
 血はもう枯れ果てただろう。涙はとうに枯れているか。
 痛いのだろう。死にたいほど痛むのだろう。
 それでもまだ生き続けようとするのか。それでもまだ吼え続けようというのか。


 そこに何があるのだというのか。痛みを覆すほどの何かがあるとでもいうのか。
 あるはずはない。
 心がまた、囁きかけた。
 覆すほどのものはないかもしれない。だが、ささやかな何か。包み込む何か。それは確かにあったような気がする。
 そうであったと、思い返す。


 痛いだけなのかもしれない。苦しいだけなのかもしれない。
 なのに、それでも生きたいのだと感じた。生きていたいのだと魂が震え続ける。


 恐らく手だろうものを開閉させる。かつて何かを掴んでいた気がした。
 それは何だったのだろうかと、握って開いてを繰り返し続ける。
 もう一度、掴んでみたい。たとえ、痛みしかないとしても。


 吼え続ける獣が、恐れる事は無いと言っているようだった。
 生きてみたい。何かを掴めるのなら。
 おもむろに手を上げ、ゆっくりと天へ伸ばしていく。待ち構えている壮大なものを掴もうと、大きく手を開いた。

















 青い空の下。迷いの森を木漏れ日がキラキラと緑を照らした。一羽の鳥が小さく跳ねた後、大きく羽根を広げて飛び立って行く。青に吸い込まれるように消えていった。


「どこへ行くのかしら」
 鳥が飛んで行った方向を見上げながら、クローディアが呟く。
「さあ、どこでしょうね」
 草を避けてジャンが現れ、彼女の隣に並んだ。
「当てなんてないのかもしれません」
「どうして旅立つのかしら」
「それでも飛び出したい、何かがあるのでしょう」
 柔らかい風が吹いて、クローディアの長い髪が絹のように流れた。
「ミリアムは、行ってしまったわね。グレイは戻ってくるのかしら」
「こればっかりはわかりません」
 ははは。ジャンは明るく笑う。
「私は戻ってきたわ、森に。私が旅立ったのは、あなたに会う為だったもの」
 クローディアは横目でジャンを見る。その口元はどこかはにかんでいた。
「もしもまた旅立ったら、あなたはどうする?」
「私の場所は、あなたの傍です」
「人が旅立つならば、待つのも1つの運命ね……」
 僅かにジャンの方へ寄り、穏やかな空気が2人を包んだ。




 あれから世界を覆った恐怖は去り、活躍した英雄の噂の中にグレイの名が入っていた。
 だが英雄たちは姿を消したまま、一年の月日が流れていた。命を落としたという話も流れているが、生きていると信じている者もいる。




 北エスタミル。酒場の扉を勢い良く開ける者がいた。
「ふーう、一件落着!」
 背伸びをすると、帽子の影から笑顔が現れる。ミリアムであった。
 負った傷は完治し、彼女はクローディアに礼を言って森を出て、北エスタミルへ戻っていた。平和になった後も度々現れる魔物を退治して生計を立てている。
 カウンター席に座り飲み物を注文すると、近くに座っていた顔見知りの常連客が声をかけてきた。
「ミリアム、今日も絶好調だね」
「ま、当然?なんてね」
 届いた飲み物を口に付け、喉を潤す。
「そんだけの腕があるなら、他の町へ行った方が稼ぎは良いんじゃないのかい」
「ん、良いのよ。あたしはここで」
「なんでエスタミルにこだわるかねえ」
「迎えを待ってるんだー」
 ミリアムは肘を突き、のんびりとした声で言う。
「迎え?前にも言っていたね。随分経つと思うけど、ホントに来るの?」
「うん、来るよ」
 こくりと頷いた。


 ギイ…………
 扉が僅かに開き、光が差し込んだ。
 ガタッ。
 両手をついてミリアムは立ち上がる。
「あ、迎えだ」
 椅子から降りて手を振り、辺りを見回した。まるで酒場にいる全員に向けているかのように。
「あたし行くから。もしかしたら、もう戻ってこないかもしれないけど。じゃあね」
 後ろから呼ぶ声にも振り返らず、小走りで入り口へ向かって扉を開け、光の中へと消えていった。


 酒場を出ると何かが投げられて慌てて受け止める。
 それは無くした杖と、光のダイヤモンド。ダイヤモンドのリングは新しいものに替えられており、指にはめるとしっくりと納まった。
 顔を上げて前を向くと、2つの大きな人影が見える。視界が急にぼやけて正視出来ないが、誰だというのはすぐにわかった。
「待ちくたびれたよ」
「帰りはわからないと言ったろう」
「だからって限度があるよ」
 ミリアムは鼻を啜る。
「グレイ。ここは謝っておけば済む所だぞ」
 もう思い出す事でしか聞けないはずの声が聞こえた。間違いなくガラハドであった。
「そうなのか?だが俺は間違っていない」
「お前って奴は」
 ガラハドは呆れたように笑い出した。つられてグレイ、ミリアムも笑う。


「そうだ」
 何かを思い出したようにグレイは声を上げる。
「船の出港まで時間が無い。行くぞ」
 グレイが走り出し、ガラハドとミリアムも後を追う。三人の足が北エスタミルの石畳を蹴った。
「ねえどこへ行くの?」
「なに、デカい宝の噂を嗅ぎ付けた」
「へえ、楽しみ。ね、ねえ!」
 声を強めて話を切り出す。
「あいつはどうしたの?」
「あいつ?さあな、どこかを彷徨っているんじゃないか」
「そっか」
 ミリアムは帽子を被り直した。
 太陽が眩しいくらいに輝いている。白い壁に反射して、まるで光の世界にいるようであった。全てが輝いている。悪夢の終わりを告げていた。




 同じ空の下で、ニューロードを一台の馬車が渡っていた。ゆったりとした雲の流れを、荷台から寝そべって眺める男がいる。
「もうすぐ南エスタミルだよ」
 手綱を引く運転手、バーバラが声をかけた。
「そっか、じゃあこの辺で良い」
 雲を眺めていた男、ジャミルが起き上がる。
 馬車が止まり、ジャミルとバーバラは地に足を付けた。遠くを見れば、懐かしい町並みが映る。
「寂しくなるな」
 ジャミルの呟きに、バーバラはくすくすと笑う。
「また嘘吐いてる。正直に嬉しいって言いなよ」
「嬉しいこたぁ嬉しいけど、寂しいのも本当さ」
 決まり悪そうに帽子をいじった後、バーバラへ向き直った。
「有難う」
 手を差し出す。
「こういうのはお互い様」
 軽く手を叩いてみせる。


「また会えるか?」
 ジャミルの言葉にバーバラは軽く息を吐く。
「ジャミルが外へ夢を求め続ければね」
 バーバラが瞼を閉じると、ジャミルはその身体をきつく抱き締めた。彼女の手が回り、硬く抱き締め返す。
「さよなら、ジャミル」
 耳元で別れの言葉を囁いた。
「……………………」
 黙り込んだままのジャミルに頬を摺り寄せる。
「また出会う時の為に、ちゃんと言っておくれよ」
「……………さよならバーバラ。さようなら」
 口を閉ざし、影はしばらく重なり続けた。




 南エスタミル。桟橋の上でファラは遠く海を眺めていた。その横でダウドは腰をかけ、素足で海を蹴っている。
「ファラ、大丈夫だよ」
 水と戯れながら、ダウドは言った。きょとんとしてダウドの方を振り返り、ファラは首を傾げてみせる。
 ダウドは耳に手を当て、静かに目を瞑った。
「きっと帰ってくるよジャミルは」
 耳の中に届くのは波の音。もうすぐ、彼の足音が聞こえてくるような気がした。











ここまで読んでくださり、有難うございました。夢は醒めるものなので最後は幸せ風味に。
Back