鼻腔をくすぐったのは水の臭いであった。
窓のない部屋
-前編-
朦朧とする意識。瞼を動かそうと思っても、なかなか開けない。
じわじわと蘇ってくる痛み。だんだんと強くなってくる。
耳の中に聞こえてくる硬い音。
これが足音と知るにつれ、瞼も開いてくる。
ぼやけた視界に映ったのは、石の天井、石の壁、石の床。石で囲まれた狭い部屋であった。
自分の足元を見れば、そこだけ木で出来ていた。
水の臭いは、主にここからする。澄ませば、水の流れまで聞こえてきた。
何か、嫌な予感がする――――
もがこうとすれば、縄が締め付けてくる。縄は腕を後ろに縛りつけ、足をも自由を奪っていた。
背にかけて感じる違和感。吊るされているのだとようやく、捕らわれた男――――ジャンは気付く。
どうりで足が宙に浮いている訳だ。
つい笑おうとした口内に鉄の味が広がった。
愛用の剣は、これみよがしに足の影に置かれている。ますます嫌な予感は拭えない。
ずっと聞こえていた足音が止まり、金属音がして何者かが近付いてくる。
まさか、直々に現れるとは――――ジャンは生唾を飲む。
「どうだね、気分は」
低く、呟きにも近い声が、狭い部屋によく通る。
「最悪です。手厚い歓迎を受けたもので」
ジャンは口の端を上げて見せた。
現れたのはコルネリオ。ローバーンの領主であり、ローバーン公と呼ばれる。恐らく、ここはローバーン公の屋敷のどこかであろう。
バファル帝国親衛隊であるジャンとモニカは隊長ネビルの指示で、謀反の疑いがあるローバーン公の身辺を探っていた。ジャンは動向を探る際に深みに入りすぎ、捕らわれてしまった次第だ。コルネリオの部下に手酷くやられ、痛みはその時に受けたものである。
剣の腕は自身があるが、多勢で不意打ちをされれば一人では到底敵わない。
「最悪か。それは結構」
コルネリオはジャンに歩み寄る。元から身長が高い上に吊るされているので、ジャンが見下ろす形となった。見上げてくる漆黒の瞳が交差する。
「お前の顔、覚えているぞ。ネビルの後ろにいた親衛隊だな」
「コルネリオ様に覚えていただけて、兵士として光栄ですよ……はは……」
「その兵士とやらが土足で我が領地に盗み入るとは。ネビルの教育がなっていない証拠か」
「……………………………」
上司の悪態をつかれ、ジャンの眉が潜められた。
「どうした。愛想良く振舞わんか」
「……申し訳ありません。出来が悪いものですから……」
「だろうな。私は期待が外れて正直、がっかりだ」
「期待…………?」
「私を熱くつけ回してくれるのは女性の方が、ここで交わす会話もさぞ弾んだであろう」
すぐさま、ジャンの脳裏にモニカの顔が浮かぶ。
彼女の存在が知られているのか。コルネリオの言動から探るのは難しい。
下手な誘導も踏み込めない。捕まった上に飛び火しては、騎士失格どころの話ではない。
「コルネリオ様。そう言わずに、私で我慢してくださいよ」
なにが我慢なんだ。
窮地に立たされているせいか、言動は思うように運ばず狂う。
「ほう」
目が細められる。視線が刃物のような切っ先を見せた。
「名を聞いておこうか」
「ジャンです。ジャンと申します」
「では、ジャン」
コルネリオは身を屈め、ジャンの足元にあった彼の剣を拾い上げる。
鞘は抜かずに顔の真横に剣をかざす。
肩に触れると、鞘の中の刃が揺れたような音がした。
「騎士ならば誓え。二言はないと」
触れているだけなのに、剣が重いように感じる。常に持ち歩いていたはずなのに、これほどまで重かったのか。この重量は騎士の名の重さも含められている気がしてならない。
「私の退屈を潰してくれるのであろうな」
そこまでは言っていない。けれども、避けられはしないだろう。
捕まったのは自分の失態。この問いに行き着いたのも報い。受ければ、それだけで済む。
普通の状況ならば、おかしいと自覚するだろう。しかし今、考えは自由にならない。
拘束されているのは身体だけではない。心もガチガチに縛られているのだから。
「はい」
「良い返事だ」
冷たい風が、剣にそって頬をかすった感覚に襲われる。
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