まるで別次元のような非日常の空間。
無理だと諦めていた、思ってもみなかった、心の奥底で望んでいたものがここにある。
理性は歪み、正常な判断は薄れていく。
募っていくのは醜くも不純かつ、正直な欲望。
夢なら夢で溺れていたい、くどいほどの甘い夢を見ていたい。
醒めずに、ずっと、願わくば、永久に。
香りのある部屋
-プロローグ-
部屋に着くと、菊丸は自分の荷物をベッドへ放り込み、自分も飛び込んだ。荷物を持って各部屋に入ったのは夕方になってからであった。
「すげー、ふっわふわ」
布団は衝撃を吸収し、疲労さえも吸い取って、すぐに眠たくなってしまうほど心地良い。
「おっとと」
身を起こして首を振る菊丸。
「そんなに気持ち良いか。おー」
次に入った大石も布団を押して感触を確かめる。
豪華客船に招待された青学選手はレギュラーの九人。部屋割りは二人ずつに分けられ、菊丸と大石は同室となった。
「荷物置いたし、行こう」
「そうだな」
菊丸が立ち上がると、二人は部屋を出ていく。
行き先は河村の部屋である。九を二で割ると一余る。その一に決まったのは河村で、学年ごとに分けると一年の越前が余ってしまうので彼が交換を申し出たのだ。黄金ペアだけではなく、他のメンバーも荷物を置いて向かっている。
理由はというと、河村の部屋は他の構造と異なるらしく、皆興味を示した。どうせ見るなら一度が良いと、集合する事になったのだ。
「タカさーん」
「いらっしゃい。皆で来るほど変わってはないけどね」
部屋の前へ着き、ノックをして出て来た河村は菊丸と大石を招き入れた。間を空けずに他の青学メンバーがやってきて、部屋の中は九人になる。
「玄関の所から違うね」
「そうなの」
「俺たちより広いよ、これ」
「へえ」
違いを述べる乾に、相槌を打つ河村。
しかし、最も他とは異なる部分を誰も指摘できないでいた。
そんな中、雰囲気を感じ取れなかった桃城がそれに触れる。
「タカさん、これ凄いっすよねえ。ちょっと良いっすか」
「あ、良いよ」
河村が許可すると、桃城はそれ――――ダブルベッドに倒れ込むように身体を預ける。
彼に用意された部屋は所謂“スイートルーム”であった。思春期故か、好奇心と恥じらいが葛藤し、やっと桃城が行動に移してくれたのだ。内心、メンバーは彼に感謝をしていた。
「広いっすねえ」
桃城は手を伸ばして大の字になる。中学生といっても体格は成人男性並。それでも伸び伸びと身体が伸ばせるのだ。心地良い事この上無い。
「桃、それはタカさんのだからね」
「はあい」
不二にぴしゃりと言われ、桃城は身を起こす。
二人を眺めていた大石に手塚は声をかけようとした。
「大石」
「ん?」
呼ばれて返事をし、手塚の方へ顔を向ける。けれども視線は交差しない。
常に目を合わせろなどとは思わないが、避けられたような気がした。共にいたからこそわかる勘が囁くのに不安を覚える。手塚の表情が余計に気難しいものへしかめられる。
「スイートっていっても相手がいないと」
手塚の隣にいた越前が呟く。
「こんな男だらけじゃ何も起こらないだろ」
桃城が続けると、一同は苦笑交じりに笑う。
僅かにタイミングが遅れた者がいたが、気付かれはしなかった。
「あれ?」
大石が両手を上下に扇いで皆を静める。
「今、ノックの音が聞こえた」
代表して扉の方へ行き、開けた。
「よお」
軽く手を上げて挨拶する訪問者。向日と忍足であった。
「さっき青学の奴らがここに入ってくるのを見てな」
「ああ、皆いるよ」
「これ監督からや。おすそ分け」
そう言う忍足は大石にティーカップを二つ渡す。
カップの中身は白い蝋のようなものが固まって入っており、短い紐が出ている。
「これは?」
「アロマキャンドル。カップ型の」
「へえ……有難う」
「どう致しまして」
ご丁寧にマッチまで貰う。
「ええ匂いするから、使ってな」
「あ、うん」
用件だけを済ませて忍足と向日は行ってしまう。
「で、なんだって?」
戻って来た大石に河村は用件を聞く。
「こんなの貰った。榊監督からアルマキャンドルだって」
「リラックスしろって事っスか」
「せっかくだし、付けてみよ」
大石、海堂、菊丸の順でアロマキャンドルを回し、火を灯す。
徐々に匂いが漂ってくる。ええ匂いだと忍足は言っていたが。
「なんだろうこの匂い」
「なんか」
香りは甘い。しかし――――
「くどい」
乾はむせて、火を消した。
「悪くは無いけれど、慣れないとキツいね」
「氷帝監督からなんでしょう?俺たちはあの事、忘れてはいませんよね」
桃城の言う“あの事”。榊たちによって仕組まれた豪華客船事故と無人島生活。無論、忘れてなどいない。
わざわざ忍足たちが持ってきたのは厄介事の盥回しとも邪推してしまう。
「警戒っていっても、これに何を仕込むの?」
「んー、インテリアとしてはなかなか良いんじゃない」
不二は菊丸からアロマキャンドルを受け取り、適当な場所に飾ってみせる。
会話をしながら、メンバーは自室に帰る用意をしていた。
「では俺帰ります。河村先輩、有難うございました」
一抜けをしたのは越前。
「まてよ越前。河村先輩、俺も戻ります」
「じゃあ僕も行くよ。タカさん、また遊びに来るね」
桃城と不二も部屋を出て行く。次々とメンバーは抜けて行き、残ったのは河村ともう一つのアロマキャンドルを持った大石であった。
「ど、どうしようか……」
「匂いを出さなきゃ、何も起こらないと思うけどな」
「そうだな。でも」
「でも?」
首を傾げる河村。
「俺、この匂いは嫌いじゃない」
「大石も?俺もだよ」
「良かったぁ」
その場で言えなかった同じ気持ちを分かち合う。
「ほら、甘すぎる方が良いんじゃないか。別世界みたいに思えるし」
大石はアロマキャンドルを顔の前に持ってきて呟く。
「別世界?ああ、なんとなくわかる。ここは夢心地みたいだね」
「うん、そう。全国への夢をまだ見ているみたいだよ」
アロマキャンドルを下ろし“なんてね”と肩を竦める大石。
「じゃ、俺も戻るよ。……………あ」
足を動かし、身体の方向を変えると、ポケットから鍵の感触がした。
大石が慌てて戻ると、自室の前で腕を組んで待っている菊丸の姿があった。
「おせーよ」
「ごめんごめん」
急いで扉を開けてやる。
「英二、夕食にでも行っていれば良かったのに」
「まだ早いよ。それに持って帰ってきたのか確かめたくってさ」
ジト目で見る先にはアロマキャンドルがあった。
「どこに飾るのかも見たいし」
「英二の近くには置かないよ。俺、この匂い気に入ってるんだ」
「マジで」
部屋に入り、大石は自分のベッドの近くに置く。
「ほら、これで良いだろ」
無言で頷く菊丸。
「あのさあ、大石」
「うん?」
大石が振り返り、視線が交差する。
「いや、なんでもにゃいよー」
「俺も英二に話があったけど、いいや」
「なんだよ」
「だからいいって」
心落ち着ける空間なのに、友がそわそわしているように見えた。
楽しみにはしゃいでいるのではない、焦りのようなものを。その焦りを、どう扱えば良いのか迷っているように見えた。
友だから聞きたかった。友だから教えてくれない気がした。
思いやりから生まれた寂しさに、瞳は優しく細められるが、口元は歪む。
「…………………………………」
「…………………………………」
沈黙の中、アロマキャンドルの横にある時計の針の音がよく聞こえていた。
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