夏の思い出は、つい昨日のようで遠い昔のようにも感じる、長い夢のようだった。
終わったら時間が動き出して、お前との別れが近付いていくのを日に日に感じている。
わかっていたつもりだった。理解していたつもりだった。
全ては、つもりだったんだ。
香りのある部屋
-手塚×大石・前編-
大石と菊丸が広間へ食事をしに行くと、不二と乾に出会い、一緒に食べる事になった。
食べ物を口に運びながら、不二は雑談の中にあっさりと彼の名を口にする。
「手塚なんだけどさ」
手塚の名に、三人の視線が不二に集まる。
「ドイツ行っちゃうんだって?」
「そんな予感はしていたよ」
「俺はびっくり。あいつ何考えているかわかんねー」
次に注目されるのは大石だった。
「大石は知っていたんでしょ」
「うん」
「賛成した?反対した?」
「賛成も反対も、手塚は俺なら理解してくれるって打ち明けてくれたんだろうから」
大石は苦い笑みを浮かべる。
「手塚との勝負、約束していてホント助かった。言わなかったらそのままドイツへ飛ばれた訳だし」
冗談めかして言う不二だが、彼の衝撃を仲間たちは重々承知であった。
「不二、良かったな」
「うん」
乾の言葉に、不二は本当に嬉しそうに微笑む。不二と手塚は向き合う事が出来た。長い年月ではあったが、わだかまりは晴らせた。
乾も乾で手塚は興味対象で、虚無感を抱いていた。
「手塚ねえ……」
菊丸は思い出を振り返ろうとしてやめる。
手塚とは直感的に何もかも合わないような気がして苦手であった。テニスの実力は凄いと思うし、彼の事は共通の友人の大石からよく知っている。ただ近付き方がわからぬまま時だけが過ぎた。ただそのまま別れてしまうのは、さすがに寂しすぎると彼は思う。
「…………………………………」
大石はぼんやりと三人の会話を眺めていた。
こうして仲間たちが、手塚がドイツへ行ってしまう話題をして、改めて彼がいなくなってしまうのが現実なのだと思い知らされる。
手塚との二人だけの秘密の時は、今思えば現実味を感じていなかった。なによりも全国優勝が大事であったし、それを理由に忘れられたからだ。全国が終わり、秘密が仲間と共有されて、手塚との別れに向き合わされた。逃避する術を奪われた。
日に日に辛くなっていった。ふとした間に考え込む事が多くなった。
手塚はいなくなってしまう。これは絶対に逃れられない事実。もう時間の問題であった。
「…………………………………」
握る食器に汗が滲んでいるのを察し、気付かれないように持ち替えてズボンに手の平を擦り付けて拭う。
この慰安旅行は言わば最後の逃避場所。ここだけは、まだ全国の夢を続けて見ていられる。
しかし、手塚に会えば、引き戻されそうで怖かった。彼の目を見られなくなっていた。
手塚という存在が、大石にとって辛さの象徴へと変化していたのだ。
自分勝手で酷いエゴイズム。こんな事、誰にも言えない。
「大石?」
菊丸に名を呼ばれて大石は我に返る。
「大丈夫か?元気ないぞ」
「うん、大丈夫」
「ここはテニス部関係者だらけだけど、無礼講なんだから副部長副部長しなくても良いんだよ」
乾と不二が励ましてくれた。
「副部長……かあ」
「そうそう。大石は大石なんだし。ま、桃と海堂の喧嘩の仲裁だけはお願いしたいけどね」
「おいおい」
笑い出す四人。この後も他愛の無い雑談をして、夕食を終えた。
部屋に戻れば菊丸は洗面所で歯磨きをし出す。大石はベッドに転がり、持ってきた雑誌を眺めていた。
「大石ぃ」
歯ブラシを銜えて菊丸が顔を覗かせる。
「さっきの、結局どうなんだよ」
「さっき?」
寝返りを打ち、菊丸の方へ身体を向ける大石。
「夕飯の時だよ。手塚のドイツ行きは賛成?反対?はぐらかしただろ」
「はぐらかしてなんかいない。俺は納得するしかないんだから」
そっと雑誌を閉じた。
「どう思っても手塚は変わらないさ」
「いや、だからそれ」
「言わなきゃいけないか」
「言わなくていーです」
菊丸は顔を引っ込めて、うがいをする。
つくづく手塚は罪な男だと思った。
大石も、不二も、乾も、皆手塚に影響を受けてきた。けれども、手塚は手塚のままで変わらずに去ろうとしている。大石は青学優勝の為に、手塚との夢の為に、レギュラーの座まで譲ろうとしたのに。自分にとって絶対であった黄金ペアをも壊してまで。
あれから少し冷静になれたような気がした。自分に足りないもの、大石の青学優勝にかける願いも、手塚の実力も、受け入れられるようになった。そうしたらもっと波長は合ってきたし、最強ダブルスの座まで登り詰められた。
大石に言ってやりたい事が纏まって、もう一度彼の様子を覗いたら、眠っていた。
翌日、罪な男・手塚は甲板で釣をいそしんでいた。
良い天気、良い波に恵まれ、良い釣り日和であった。
こうして一人でいると、どこからか大石がやってきてくれたのだが、彼は来ない。自ら行かねば、彼には会えないだろう。
避けられているような気がした。恐らく気のせいではない。理由を考えれば、ありすぎてわからない。
ひょっとしたら、全国大会終了を期に愛想を尽かれたのかもしれない。
それは手塚にとって最悪の絶望であった。
いつも大石に頼りっぱなしで、どんな自分でも彼なら受け入れてくれると、不思議な安心感があった。それはあまりにも漠然とした、曖昧なものであった。けれども、確信があった、自信があった。
確かなものが揺らいで、どうしようもない気分になってくる。そんな時の抜け出す術は、いつも大石が用意してくれたというのに。
「…………………………………」
無表情であるが、親しい人が見れば手塚は狼狽していた。
いい加減、大石ばかりをあてにするのはやめた方が良いというのはわかっている。いつまでも一緒にいられる訳でもないのだから。
「あ」
いつまでもが、そう遠くはない未来にやって来る事を思い出す。
プロを目指してドイツへ行くのだ。手塚自身が決めて招いた大石との別れ。
歩むは孤独で険しい茨の道。自らの選択の重さを、改めて自覚した。
「よお手塚、釣れるか」
上から声がして振り返れば、跡部が立っており、その後ろに釣り道具を持った樺地がいた。
「ぼちぼちだな。釣りは好きだ」
「そうか。俺も釣りが好きなんでな」
跡部は手塚の許可をする間を与えず、隣に座り込む。樺地から道具を受け取って準備し、次に彼の分も整えてやる。
「跡部、どんな釣りをするんだ?」
「フライフィッシングだ。面白いぜ」
「趣味が良いな」
「わかるか」
「ああ」
跡部が上機嫌だと察した樺地は笑みを浮かべた。もっとも彼も手塚と同様、親しい人でなければわからない。
「聞いたぜ。ドイツへ行くんだってな」
声色を変えずに、趣味からドイツへの話に移行させる。
「ああ」
「てめえ独語できんのか?なんなら俺様が教えてやっても」
言い終わる前に手塚がペラペラと独語で話してみせる。
「そうかい。準備は万端か」
ほんの少しの皮肉をこめて言ってやるが、手塚は案の定無反応であった。
「釣りも独語も直々に教えてやろうかと思ったんだがな。言いたい事は山ほどあるが、どうせ行っちまうんだろ」
「そうだな」
「手塚はそれで良いのかもしれねえが、そんなのが続けられると思うなよ」
「肝に銘じておく」
「わかっているなら、もっと顔に出せよ。なあ樺地」
「ウス」
すかさず同意する樺地。跡部の自信ある姿は、樺地の肯定によってより引き立つ。
受け入れてくれる存在が自信へ繋がる。大石という存在がいたからこそ手塚にはわかる。
けれども、樺地よりは表情を出していると思いたかった。
時間は過ぎ、夕方。大石と菊丸の部屋では、菊丸が部屋を出る用意をしだす。
「どっか行くのか英二」
「ん」
「鍵、渡そうか」
大石が鍵を持って菊丸の前にやって来た。
「大石が寝るまでには戻って来るつもり、だけど」
「え?そんなに遅いのか?」
「いやそんな」
話が纏まらず、訳がわからなくなる。
「とにかくっ。大石が持っていて良いから」
「そうか?」
大石は鍵を持った手を下ろした。それだけの事で、彼は困った顔をしている。
「ああ、そうそう」
菊丸は昨日彼に言いたかった言葉を思い出した。
「あのな、大石」
「うん?」
「もっと自信持てよ」
菊丸の拳が大石の胸にあてられる。
「お前の価値は、相棒の俺が誰よりもわかっているつもりだかんな」
拳を離し、彼は出て行った。
一人になった部屋で、大石はアロマキャンドルに火を灯す。
くどい程の甘い香りが包み込む。息を吸って、吐いて、この匂いは好きだった。
「…………………………………」
チリチリ燃える火に見入りそうになっていると、ノックの音が聞こえる。
菊丸が忘れ物でもしたのか。扉を開けて出れば、すぐそこに手塚が立っており面を食らう。
「手塚」
表情を戻し、咳払いをして声を整える。目は合わさない。
「何か用か?」
手塚は細かく瞬きをした。いつもなら“どうしたんだ?”と、耳を傾けようとしてくれたのに。
僅かな行動で突き放されているのだとわかる。僅かな行動で傷付きそうになっている。
「…………………………………」
何を言うべきだったのか、内容が飛んでしまう。
「用が無いなら閉めるよ」
大石は思う。我ながら見え見えの意地悪だと。小細工をしていられるほど、心は余裕を持たない。
「用はある」
手塚の手が扉を掴む。
この手がラケットを持ち、この腕がラケットを振り、この肩が治り行く様子を見守っていた。
間近で見ると想いが溢れそうになる。
「わかったよ。入って」
手塚の手が離れると扉を大きく開き、彼を招き入れた。
手塚は中に入り、呼吸をすればすぐにわかった。
あの匂いだ。乾がくどいと言った、アロマキャンドルの甘い香りがした。
外と中の違いを余計に浮き立たせ、まるで別世界のようだと思わされる。
違う。ここは違う。他とは違う。臭覚が騒いでいる。一つの感覚だけがざわつくのは奇妙な気分であった。
「どうした手塚」
「ああ」
聞き慣れた、好きな声に呼ばれるままに手塚は奥へ進む。
甘い匂いはより強くなってきても、足は止まらない。
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