寝ても夢。醒めても夢。
 心と身体に浸透しゆく快楽。
 決して永遠ではない、ひと時の夢。



香りのある部屋
-エピローグ-



「大石」
 聞き慣れた声が大石を呼ぶ。
「大石、大石」
 夢の中の大石はその声に呼び起こされる。
「ん…………?」
 閉じていた瞼を開けば、朝の光を背に菊丸が見下ろしていた。
「英二」
「もう朝だぞ大石。おはよう」
「おはよう」
 生欠伸をしながら半身を起こすと、菊丸は洗面所へ行き、顔を洗い出す。
「…………んん」
 目を擦り、昨日の出来事を巡らせる。
「あれ」
 菊丸がいる洗面所のドアを見た。
「英二、昨日いつ部屋に帰ってきた?」
「正確な時間まで覚えてなーい」
 言われて“そうだよなあ”と納得するが、菊丸のベッドを見て皺が無いのを知る。
 ベッドから降りて着替えを始める最中に菊丸が洗面所から出て来て、つい目が合ってしまう。
「なんだよ」
「なんでもない」
 菊丸は大石の横を通り、置いてあるアロマキャンドルに手に取った。
「随分減ってんなー。ずっと点けてたの」
「そうかもな」
「ま、わからなくはないけどねー」
 キャンドルを戻す音と、大石が笑い出すタイミングが重なる。
「何が可笑しいんだよ」
「なんでだろ」
「変な奴」
 そう言う菊丸もつられて笑っていた。
 これは朝だからだろうか。二人は清々しくも落ち着いた、安らぎを感じていた。
 昨日や一昨日とは異なる。まるで靄から抜け出したような気分だ。
 それが睡眠とは異なる夢の目覚めを思い、少しだけ胸が苦しくなった。






 着替えを終えた二人は朝食を取りに広間へ向かう。
 途中、他の三年生と合流し、二年生とも出会い、越前も見つけ、青学メンバーが揃った。
「タカさん、実はですね」
 桃城は河村を見つけるなり、会話をし出す。そんな桃城を海堂は苦笑交じりでわざわざ説明する。
「コイツ、昨日迷って話しに行けなかったんですよ」
「おいコラ、余計な事言うな」
「親切に言ったまでだ」
「まあまあ、二人とも」
 臨戦態勢になる桃城と海堂をなだめる河村。だが、それにしては声色が穏やかなものに変わりすぎだ。まるで仲裁に入った本人が先に平穏を取り戻したように。あくまで各人の主観であり、指摘は出来ないでいた。
「部長」
「ん?」
「あれ取って欲しいんスけど」
「あれ?」
 越前が指を差す先は、彼の身長では取れない料理である。手塚は意味がわからず、耳を傾けるだけになっていた。
「手塚仕方ないなー」
「ほら、これだろ越前」
「どうもっス」
 手塚の不器用さを見守る不二の視線は生暖かい。大石が代わりに取って越前に渡す。
「それが欲しかったのか」
 納得する手塚の横顔を大石は口元を綻ばせて眺めていた。
「手塚。これでシャキッとしろ」
 流れる動作で乾が新作ドリンクを手渡す。つられるままに飲む手塚。
 シャキッ!手塚の目が見開き、拒絶反応は起こさない。
 おおー。メンバーは一斉に乾を拍手で囲んだ。


「よお、青学の皆さんお揃いのようだな」
 呼ばれて青学メンバーが声のした方に注目する。氷帝の宍戸と芥川がいた。
「一昨日、ウチの奴らが配ったキャンドルどうだった?」
 即答で“良い”とも“悪い”とも言えず、愛想笑いで返す。
「ん、そうか。まだまだあるから遠慮せずに持っていってやってくれ」
「どーぞどーぞ」
 芥川が青学メンバーの一人一人にアロマキャンドルを渡していく。
「他校の奴らにも回っていたぞ。なんでそんなにあるんだよ」
 受け取った菊丸が問い、芥川が答える。
「榊監督はさ、前はあんな事になって生徒から一歩引かれちゃっているらしくて。余った時間でキャンドル作りに精を出しているみたい」
「普段やらないものに手を出したら、意外にハマっちまっているようだぜ」
 宍戸がやれやれと肩を竦めた。
「それはそれで良いんだが、この匂いは一体何を使っているんだ」
 青学で最もキャンドルの香りに嫌悪感を抱いている乾が言う。
「俺たちも知らねえ。部屋がキャンドルパーティーだか怪しい儀式所みたいなんだ、返却は御免被る」
「酸素足りなくなりそう」
 ははは。芥川が笑う。彼ならそれでも眠ってしまいそうで、危うさを抱く。
「じゃあな」
 軽く手を振りながら宍戸と芥川は去っていった。
「氷帝も大変そうだね」
 いなくなるなり不二が言う。
「たまにはこういうのも良いだろう」
 キャンドルを顔の方まで持ってきて、手塚が口を開く。
「手塚は良いのか、これ」
「悪くは無い」
 乾は本当に嫌そうで、満更でも無い手塚を不思議そうに見ていた。
「俺も結構好きだな」
「俺もだよ」
 河村と大石が手塚に同意する。
「俺も、良いかな」
 遅れて小声で菊丸も続いた。
「なになに、なんスか。この二日間で随分と好評になっているじゃないですか」
 反応の変わり様に桃城は皆を見回す。
「うーん、改めて使いたくなってくるよ」
「キャンドルか……」
 集団心理か、不二と海堂は興味を示してくる。
「そうっスね。悪くないっスね」
 越前は火の点けていないキャンドルを鼻に近付け、微かな香りを確かめた。


 その夜。半数以上の部屋でキャンドルが灯される。
 幻想的で、淡い香りを放つ明かり。ただでさえ日常とは異なる空間を、さらなる遠い場所へと感じさせてくれる。
 逃避ではない、これはひと時の夢。
 甘く、深く、時の流れに目を瞑る。永遠の夢に夢を見る夢。
 密閉された空間の中、幸せに浸る誰かに、誰かが愛を囁く。
 ひと時だからこそ、今は快楽に身を投じた。










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