ノックの音がして、ドアを開ければ財前が立っていた。
「どうしたの」
きょとんとした表情で河村は彼を見下ろす。
「どうしたもこうも、会いに来たに決まっとるやろ」
「俺から行くって言ったのに」
「そうでしたっけ」
後頭部に手をやり、とぼけてみせる。
「あかんの?」
「良いよ。入って」
ドアを大きく開け、財前を招き入れた。
香りのある部屋
-河村×財前・後編-
河村の後ろをついていきながら彼は呟く。
「俺たちの部屋とちゃうな」
「皆、そう言っていたよ」
奥に入ると、財前は覚えのある香りを感じた。
「適当にくつろいで良いよ」
「河村もつけていたんか、これ」
テーブルに置いてあったアロマキャンドルを見つける。
「俺の部屋にもあるんっすわ。遠山が持ってきまして」
「そうなんだ。嫌なら消そうか」
「なんでやねん」
「青学の皆には不評だったんだ」
河村は苦笑を浮かべた。
「じゃあ点けとるっちゅー事は、河村は満更でもないん?」
「結構、好きなんだ」
「俺も好きやで。せっかくの旅行、あるもんは使いたいやん」
財前が笑えば、河村もつられて笑う。
「一人部屋は楽そうやな」
ソファに腰掛け、背もたれに体重を預けて立ったままの河村を見上げる。
真正面にあるダブルベッドには何も言わず、彼だけを凝視した。そうして視線を逸らさずに羽織ったジャージを正す。わずかな乱れも財前は気になった。ジャージのポケットには性交に必要な物が入っているのだから。
「でもさ……」
間を空けて財前の言葉を返す河村。
「こうして試合した選手が集っているのに、一人きりというのは物足りないな」
「俺がおるやろ」
「…………………………………」
目を細める財前に河村は言葉を詰まらせる。
「二人きりや、こっち座ろう」
「うん」
誘われるままに河村はソファに腰掛けた。
僅かな間を空け、正面も見られず、床に視線を落とす。
よし。
財前は生唾を飲み込み、横に置かれた河村の手に指を伸ばそうとした。
「財前」
触れる既に河村が財前の名を呼ぶ。気付いているのか、気付いていないのか、指は当然硬直した。
「財前の一言はドキッとするよ」
「なんや、ときめくんか」
「そうじゃなくて、肝が冷える感じかな」
「初めが初めやから、しゃあないな」
指を引っ込めて座り直す財前。
「河村はあの石田先輩に勝ちよった。お荷物や」
「ううん、わかっていたんだ」
財前の言葉を遮り、河村は頭を振る。
「足手まといにならないように、俺はそう言い聞かせて鍛えていた。財前の一言は、負い目を見透かされた気分だった。はっきり言われる事で、俺は自分の力量と向き合えたのかもしれない」
「ただの軽口や」
「財前にはそうかもしれないけどね。俺には必要だったよ」
河村が財前に笑いかける。反対に財前の表情には影が差した。
「なら……なんで」
「ん?」
吐息混じりの呟きは細く聞き取り辛い。
「なんで、テニスをやめる」
搾り出すような、悲しみに満ちた声が発せられた。
「ああ」
河村は口を開くが、言葉が見つからず閉ざす。
こんな表情をされたのは初めてだった。青学の仲間たちはわかっており、当然のように受け入れられていた。あくまでテニスは自分自身の為。レギュラーになるのもやっとであったし、まず皆に追いつこうとするので精一杯だった。青学としてではない、河村個人の三年間で築き上げたものの大きさを、目の当たりにした気持ちだ。誇るべきものなのだろう、尊いものなのだろう。しかしこれは、痛みを同時に伴った。
「ごめん。言っておくべきだったね」
「俺は怒るべきなんやな」
財前は背を屈めて頭を垂れる。怒りよりも悲しみが上回っていた。
「俺の家、寿司屋でさ。部活は中学の間だけ許されていて、卒業したら修業に入るんだ」
「家の事情となると、そう話題に出すもんじゃないやろな」
身を起こし、髪を正す財前の顔に悲しみは映っていない。
「安心したっちゅーか、荷が下りましたわ。はー阿呆らし」
「荷?」
「こっちの話や」
自嘲気味な財前の笑みに、河村は彼らしいと何となく思った。
「なあ、テニスは修行までの暇潰し?」
向き直り、真面目な顔で問う。
「暇潰しだなんて、思った事なんてない。寿司屋を継いでも、忘れないよ」
「ホンマに?」
ソファに手をつき、河村に顔を近付ける。
「本当さ」
「誓って?」
足も乗せ、四つんばいになって、さらに迫る。
「どう誓えば良いの」
河村の眉が困ったように下がった。
「中の下のボケや」
財前は河村の頬に唇を押し付ける。
離れようとした財前の肩を河村が引き寄せた。驚きと愛おしさで胸が大きく高鳴った。
体温が元々低いせいか、触れる温もりが燃えるように熱く感じる。
「財前、ごめん」
「そう詫びたらあかん。付け込まれるで」
顔を逸らし、肩口に埋めて囁く。
手を背へ回し、服の間に入り込んで指を這わせ、財前は肉欲で来ている事をチラつかせた。
「同情は無し。嫌なら嫌って言え」
聞きたい言葉は聞けたせいか、強引に運ぶ意思は薄れている。河村の合意を求めようとしていた。
これは河村の意思の尊重か、はたまた身体だけでは物足りないさらなる欲か。財前自身、混乱している。
もう後悔はない。どうなっても良かった。
「嫌じゃない。こうしたかった」
「その気あったんか」
「わかんないよ。そもそも本当に嫌だったら、こないだはもっと抵抗したって」
「せやけど……」
言葉に詰まる財前。彼も河村と同じ、本当の所の気持ちはわからない。男にこのような感情を抱くのは初めてだ。
もっとも彼にとっては金色や一氏の同属にされたくはない足掻きもあるのだろう。
「突然で、強引だったけど、財前は俺の事を考えてくれていたよね。それはわかっていたよ」
河村はしっかりと財前を抱き締める。
「好意に応えたい。それじゃ駄目かな」
「…………俺な」
「ん?」
「あの試合から、河村の男を認めてるん。お前やったら、ええかな思った」
腕の力を緩め、二人は視線を合わせて口付けを交わした。
数回の接吻の後、財前は床に足を着いて河村の手を引く。
「ここじゃキツい。あっち行こ」
あっちとは、もちろんベッド。
まず財前が裸足になってベッドの真ん中に転がる。
予想以上の柔らかさと込み上げる羞恥。こんな時に限って甘い香りが鼻腔をくすぐってくる。
「な、しよ」
率直に言って、ジャージのポケットから避妊具とローションを取り出した。
「え?なに?」
河村は良くわからず、確かめようと続いてベッドに乗って来た。
そう凝視する物ではなく、財前は引っ込めたい衝動に駆られながら、ある失態に気付く。
シャワーを浴びていなかった。
あれ程、部屋を出る前に浴びようと決めていたのに、すっかり抜け落ちてしまっていた。きっとキャンドルの話題を遠山に振られたからだろう。遠山を恨んでも仕方がない。それにムードは壊すがまだ間に合う。
「あっ」
発しようと唇を開いた形で言葉を失う。
河村が財前の持った道具をよく見ようとする体勢が、まるで圧し掛かる姿になってしまった。
「ああ」
財前の表情に、河村は不味いと理解し詫びようとするが、先程の言葉を思い出し、曖昧に息を吐いてしまう。横に転がり、距離を置いた。
「今」
財前は身を起こしながら、ポケットから出した物を再び仕舞う。
「謝ろうとしたやろ」
河村の上に跨り、勝ち取った笑みを浮かべた。自尊心を選び、シャワーを浴びられる隙を自ら潰してしまった。
「付け込むで。この機会、逃すものか」
手を伸ばし、人差し指を上着のボタンの留められた場所に引っ掛ける。
ぷつ。静寂に包まれた、ぼんやりと温かな光が照らす中でボタンが外された。
「…………………………………」
もう一つ目のボタンを爪で弾き、弄って焦らす。
河村はどうしたら良いのかわからずに、ただただ困った顔をしている。
こんな時は誰かがラケットでも持ってくれば良いだが、財前が河村の心に火を点ける術を知るはずも無い。
「そんな顔すんな。俺が苛めとるみたいやん」
胸と胸を密着させて、露になった鎖骨を舌でなぞった。滑りと艶めかしさで河村は身震いする。
さて。どう心地よくなろうか。企む財前の後ろ頭に河村の手が触れた。
「あ?」
顔を上げれば河村と目が合う。目を瞬かせる財前の髪を優しく撫でた。
安らぎと照れ臭さが同時に襲い、財前の頭の中はぐしゃぐしゃになる。しかし身体は正直なのか、瞳は気持ち良さそうにとろんと瞼が重くなった。
「………………ん……」
吸い込まれるように寄せられて横に倒れ、口付けを交わす。唇、頬、額。出来そうな所に唇を押し付ける。
ずっと口付けだけをしている気分だ。先にも進めず、後にも退けず、同じ場所に留まっているようなじれったさ。なのに心のどこかでは“ずっとこのままで”などと夢みがちな思いもある。
どこへ行けば良いのか。どこへ行きたいのか。思いが浮かんでは快楽に溶けて消えていく。
「……は」
財前は顔を背け、口付けから逃れようとし出す。だが河村は顎を捉えて、口付けを続けた。
「あかん」
振り払おうとするが、頭がぼんやりとして身体が思うように動いてくれない。
羞恥を曝け出したはずなのに、さらに淫らに乱れ行くのが怖くなって来る。
「……………おい」
膝で河村の身体を押し退けようとするが気付いてくれない。河村としては口付けだけで精一杯である意味、財前を無視してしまっている。
「……あ…………あ……」
耳の後ろに指が這い、溝に入り込んで性感帯を刺激してきた。無意識なので性質が悪い。
河村の指は爪が綺麗に切られているのか、とても感触が良い。彼は実家が寿司屋だと言っていた。きっと客を意識した料理をするから手入れは欠かさなかったのだろう。
「………ふ……ぅ………」
いやらしい声を出しそうになり、財前は口の中に指を入れて声を抑えた。
その姿が余計に情欲をそそるが、河村は戸惑って顔を離してしまった。
「ん?」
指を抜き、きょとんとした顔で河村を見据える財前。その額には薄っすらと汗を掻いていた。
「暑いね」
河村は手を伸ばし、前髪をそっと上げて汗を軽く拭ってやる。
「あかんねん」
後ろへ退いて指から逃れる。
「俺、シャワーで汗流しておらん」
「俺は食後に浴びたよ」
「あーそうですかー」
だったら余計に汗を出してしまった身体で抱き合うのに抵抗を覚えた。
広いダブルベッドで転がり、距離を取りたかったが、ある身体の変化にうずくまりそうになる。
なんてこった。
財前は心の内で憎く思う。自身が反応を示してしまっていた。血を集めて硬くなり、勃ち上がろうとしている。触れても触れられてもいない、口付けだけでこの有様だった。
気付いていない訳ではなかった。わかってはいたが、夢中で快楽に酔う事で現実から目を背けていた。
なんで俺だけ。なんでやねん。
財前は自然に見える動作で股間を手で伏せ、河村を睨む。
自分ばかりが悩み、迷い、興奮している。苦々しい思いを胸に、財前はふと河村の下肢を見た。
「あ」
つい声が出る。盛り上がりが見えた。彼も高まっていたのだ。
「お前もか、河村」
河村のハーフパンツを下着ごとずり下ろそうとする財前。声はどこか嬉しそうだった。
「や、やめてよ」
「なに恥らってんねん。こないだ俺に触られたばかりやろ」
「でもさ」
否定したくなるのはわかる。“こないだ”は暗い場所で行った。明るいこの場所では全てが曝け出されてしまう。
「うあ」
抵抗らしい抵抗も出来ず、河村自身が取り出される。
「俺も出すから堪忍」
財前も自らズボンと下着を下ろし、自信を曝け出した。二人の性器は向き合うように勃ち上がり、相手へ向ける欲望をえげつない程までに表していた。
「…………………………!」
河村は羞恥に耐え切れず、頬を赤らめ、自身を仕舞いこもうとする。
「あかん。あかんって」
財前の手が伸び、止められる。きょろりと瞳を動かし、俯きがちな河村の顔を覗き込んで来た。
「その顔。そそるわ」
「財前……」
ごくっ。河村の喉を唾液が通過する。
「せや。オカズにしよ」
「え?」
困惑する河村を他所に、財前はもう一方の手で己自身を包み、上下に動かしだす。
「…………あ……っ……は……」
二人の間の狭い空間で、刺激を与えられた財前自身は先端から蜜を分泌して卑猥な音を立て始める。
「ん…………ん………」
高まり、頬を上気させた涙目で財前はじっと河村を見据えて自慰を行う。快楽に浸りきった、あまりにも心地良さそうな財前の顔を、河村はつい逸らしたくなってくる。
「あかん」
すかさず止められた。
「俺の顔、しっかり焼き付けて……」
熱く、乱れた呼吸をしながらも瞳は河村を離さない。
「河村もオカズにしてもええんやで」
笑みを浮かべて誘い込んだ。
「あ」
財前の目元に河村は口付けをし、彼も己自身に手を伸ばした。
快楽が走り抜けるのにそう時間はかからず、財前が先に欲望を吐き出し、河村を手伝った。情欲を煽るように手を絡めて弄れば、すぐに吐き出される。
「……………は、あ……」
「あーあ」
白濁の欲望を吐き出した二人の手は己のものとはいえ、随分と汚れてしまった。
「流そうか」
「せやな」
顔を見合わせ、頷きあう。また少しだけ、近付けたような気がした。
脱衣所で服を脱ぎ払い、生まれたままの姿で浴室に入る。さらに狭まれた空間で互いを曝け出す。
「財前、洗うよ」
河村の率先に、財前は喜びを噛み締めながら彼の好意を受ける事にした。
ざー。ざー。ざー。
「…………………………………」
ざー。ざー…………………。財前の中で、何かが切れる。
「こんのドアホ!」
怒鳴り散らし、浴室を出て行ってしまう。
「何か悪い事したかな」
眉を下げながらも、自分の身体を流しだす。何もしないのが悪かった。
「なんでそこで、あーっ」
下だけを履き、上半身裸の格好でタオルを首にかけて髪をガシガシ拭う。
「あれは今度やな」
浴室に置いていったジャージのポケットの中身を想像しながら呟いた。
「ん?」
何かを感じ、手を止めて耳を澄ますとノックの音がする。
「誰やねん」
ぱたぱたとドアの方まで歩き、開けてしまう。
訪問者は桃城であった。開くと同時に明るい声を放つ。
「タカさーん!実は」
…………………………………。
ドアが先にいる人物の顔が見えるまで開くと石のように固まる財前と桃城。
ぽたっ。ぽたっ。濡れた財前の髪からは、温水だった水が静かに滴り落ちている。素肌に落ちても冷たさを感じるどころではない。
「すす、すみませんっしたあ!」
硬直を解いた桃城は素早く頭を下げ、廊下の角まで走って行った。
数分後。浴室から上がった河村が待っていたのは青ざめた財前、たまたま廊下を歩いていた海堂が出会ったのは道確認をうわ言のように呟く桃城であったという。
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