伊武深司の場合
「行ってきます」
伊武は家を出て学校へ向かう。
今日は目覚まし時計より早く起きられて気分も良い。その上、天気で気温も過ごし易い。
歩いていけば横断歩道が見え、丁度赤信号に変わってしまう。車の流れを眺めながら自慢の髪を弄った。
「おはようございます」
後ろから声が聞こえる。
「おはようございます……」
もう一度、同じ声で聞こえた。
「あの」
声の主が伊武の横に立って見据えてくる。
「ん?」
振り返ると、同じ不動峰の男子生徒であった。
「伊武さん、おはようございます」
「え……」
俺に言っているの。そう言わんばかりに伊武は彼をまじまじと見る。
「やだなあ。俺ですよ」
男子生徒は名前と学年を名乗った。聞いた覚えの無い名前、一年生と言うが伊武に後輩はいない。
委員会関連とも考えたが、伊武は無所属だ。
「青になりましたよ。ここ長いんですよね」
男子生徒が誰なのか思い出せもしないまま、並んで学校へ向かう。
誰だコイツ。伊武は視線こそ向けないものの意識を向ける。
男子生徒は学生鞄の他に大きなスポーツバックを持っていた。そもそもこの時間帯は朝練のある運動部くらいしか出会わない。嫌な予感がじわじわと胸に押し寄せてくる。
「あ」
男子生徒が前を指差す。
「先輩。桜井さんがいますよ」
桜井の名前の前に“先輩”が引っ掛かった。
ああやはりそうなのだ。伊武は理解し、うんざりした気分になった。
これは夢だ。夢なのだ。
伊武には後輩はいない。テニス部には一年はいない。夢となればこの良い天気は全てまがい物になる。
やれやれと残念な気持ちにはなるが、足は勝手に前を歩く桜井を追いかけていた。
「桜井っ」
普段なら絶対に出さないような明るく大きめの声で桜井を呼ぶ。
「よお伊武。ああ、お前もおはよう」
「おはようございます」
桜井は伊武と男子生徒に挨拶をする。足を速めて桜井の元へ来たというのに、男子生徒はすぐ後ろにいた。
「桜井」
伊武は桜井の手を引いて身体を向かせる。二人は道路の真ん中で立ち止まった。
何やっているんだろう。わかっていても夢の中では身体は上手く動いてはくれない。ただ桜井に触れたい。そんな想いだけが先走ってしまう。
「桜井。好きだ、大好きだよ」
愛を囁き、桜井を抱き締める。
「お、おい。こんな所で」
桜井といえばやんわりと窘めるが、伊武の背に手を回している。
「これからもずっと一緒に。一緒にいてよ」
きつく、きつく抱き締めて思いの丈を溢れさせた。
返ってくるだろう桜井の返事を待ちながら、空間はぼやけて目が覚める。
「……………ああ」
眠気まなこを擦りながら伊武は起きる。
椅子を座りなおし、机においてあった携帯電話を開いて時刻を見た。すっかり深夜を回っている。
こんな事なら布団に入った方が身体は休めたと後悔する中、メールの着信を知った。
画面を開けば神尾アキラの名前がずらずらと並ぶ。
件名は『テストまじやばい』『寝てる?』『生きてる?』と、眠っていた事を悟られたらしいものがあった。新しいものから開いていくと、文字数が次第に増えているのに気付く。神尾は眠気覚ましの為、頻繁にメールを送っていたようだ。
恐らく確認していない、一番古いものを開けば他の仲間たちの事などが書かれていた。
そこにある“桜井”の名前に、伊武の胸は妙な高鳴りを見せる。
もしも明日学校で桜井に会うまでに夢の事を覚えていたのなら、夢で告げた事を今度は彼に言わせてみたくなった。
夜が開け、朝の光が差し込む。
今日という日の始まりだ。
テスト当日は学校が早く終わり、テニス部二年は誰と約束する訳でもなく部室に集る。
「どうだった?」
開口一番、神尾がテスとの手応えを問う。
「はは……」
石田が愛想笑いで応えた。
「深司はー?昨日寝てただろ?」
「神尾はメール出しすぎ。そうだ、昨日夢で桜井を見たよ」
「へえ」
皆が桜井に注目する。
桜井の目は“ここで話をしても大丈夫な内容か?”と伊武だけに訴えかけてくる。
「桜井、どうだったの?」
興味津々に森が問う。
「ん?俺に好きって言ってくれた」
少量の嘘を混ぜる。
「ははは」
仲間たちは笑うが桜井の方は気が気ではない。所詮夢の話なのに一人顔を赤くした。
「伊武はなんて応えた?」
内村が問う。
「俺も好きって言ったよ。嫌いじゃないし」
「どんなシチュエーションなんだよ」
なあ?同意を求めるように神尾が桜井に笑いかけ、彼は引き攣った笑みを浮かべた。
「じゃあ夢の中では両想いだったんだな」
石田が手を合わせ、伊武の夢の内容をまとめる。
「ん、そうだね」
不意にそんな事を言われると、さすがの伊武も照れ臭くなった。
「良い事なんじゃね?」
「だよな」
神尾と内村が顔を見合わせて頷く。
場が和やかになる中で、そっと伊武と桜井は視線を合わせた。愛しそうに伊武が目を細めれば、桜井がこれ以上は誰かに気付かれてからかわれると逸らす。
夢では後一歩で返事は聞けず、現実でもそう愛は確かめられない。けれども想いは通じていると感じている。そう信じたかった。
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