菊丸英二の場合
意識を取り戻した肌が朝を感じている。起きなければいけない予感はするのに、まだ布団からは出たくはない。今が何時だというのも知りたくはない。
「…………きて」
誰かが囁いて身体を揺する。
そんな面倒な事をするのは誰だ。つい菊丸は知らない振りをしたくなる。
声は次第にはっきりと、大きくなってきた。
「起きてください。起きてくださいってば。朝なのね」
家族ではない他人の声色。しかも記憶が確かならば、ありえない人物のはず。
「起きているんでしょう。いい加減にして欲しいのね」
「わかったよ」
観念し、菊丸は布団から顔を出す。
朝日に照らされて目の前に映るのは樹であった。近い場所でトーストの焼ける良い匂いがする。
「今日の当番は俺じゃないのに」
「じゃあ二回続けて俺が作るから」
「どうだか」
樹は背を向けた。
「ホントだってっ」
身を起こす菊丸。起き上がった時にまんまと挑発に乗せられた事を知る。
ここはマンションの一室のようだった。壁も天井も家具さえも真っ白で、日の光に当たると眩しく反射する。どこか生活感はなく、夢だから当たり前かと思い直す。けれどそれでは、この生活がありえないもののようで、別の言い方を巡らせた。
パジャマのままでリビングへ行くと、テーブルには二人分のトーストと目玉焼きとサラダが、皿に綺麗に盛り付けられている。席に着くと、向かい側に樹が座った。
まず目に入った目玉焼きは上手に焼かれており、嫉妬さえも覚える。
「これ火、通しすぎじゃない?俺はもう少し熟した方が好きだな」
認められずに、つい文句が出てしまう。
「それは悪かったのね」
軽く流されて樹は黙々と食事をしている。
食べたら着替えて外に出なくてはならない。ここから出なくてはならない。
朝は忙しいはずなのに、なるべく時間をかけて菊丸は食事をした。樹も合わせてくれているらしく、ちっとも料理は減らない。
「コーヒー、飲むか」
「はい」
席を立ち、菊丸はインスタントコーヒーを二人分用意して、一つを樹に渡した。
夢のはずなのに、鼻腔をコーヒーの香りがかする。カップを手で覆うと熱が伝わってくる。
「飲まないのね?」
樹は砂糖とミルクを入れてコーヒーを啜った。
「まだ熱いし」
まだカップの熱で手を温めて、口を付けようとしない。
「何やっているの」
樹が隣の席に移動してくる。
「行きたくない」
呟きに、溜め息が横で聞こえた。
菊丸は夢から覚めた。いつの間にか机の明かりは消されており、恐らく家族の仕業だろう。
傍においてあった鞄を開け、中から携帯電話を取り出す。開けば眩しくて目を細めた。メールの画面を開き、樹宛のメールを打ち出す。
内容はもうすぐテストだとか、最近どうとか、当たり障りのない話題。けれども途中で消して、今度は会いたいとか、好きだとか、自分からは決して先に言い出さない言葉を並べる。また一通り打って消した。
今度は夢の内容を思い返し“一緒に暮らそう”なんて打ってみる。そうして消そうとした。だが――――
うっかり送信ボタンを押してしまう。
「あわわわわわ…………!」
一気に顔の熱が上がるが、首から下はぞっと寒くなる。
送信欄を見れば、ばっちりと送ってある。
時間が時間なので、寝ぼけたと訂正すれば良いのだが、却って墓穴を掘りかねない。
しかし今言い訳をしなければ後には引けなくなる。
ひょっとしたら返信してくるかもしれない。早く何とかしなければならない。いっそ知らぬ振りという手もあるが気が気でない。
テストの問題より難題が菊丸に課せられた。
夜が開け、朝の光が差し込む。
今日という日の始まりだ。
チャイムが鳴り、テストが終わると三年六組のクラス中に生徒たちの気の抜けた声が広がった。
「ふー」
不二も小さく息を吐いて、なんとなく菊丸の席を見る。
すると彼は机に突っ伏していた。
テスト最悪だったのかなぁ。そんな普通の感想を不二は抱く。
ホームルームが終わり、鞄を持って菊丸の席に行った。
「えーいーじ」
机に人差し指で音を立てて菊丸を起こす。
「んー」
顔を上げる菊丸は憂鬱な雰囲気を漂わせている。
「顔色、良くないね。そんなに最悪だった?」
目はにこやかのまま、眉を下げた不二。
「んー……」
微妙のようだ。
「あのさあ、一つ頼んで良い?」
菊丸は机に視線を落として不二に願いを言う。
「僕で良ければ。出来る範囲でね」
「これ……」
おずおずと鞄から携帯電話を手渡す。
「なに?」
「開いて。メールの所」
「ちょっと待っててね」
不二も携帯は持っているが、他人のそれをすぐに使いこなせるはずもなく、メールを開く単純な作業も間が必要になる。
「開いたよ」
「未読メールあんだろ」
「あるね。樹くんから」
「開いてくんない?」
「え?」
菊丸の一言に不二は開眼する。
「良いの?」
不二は再確認を取った。
菊丸は項垂れるように頷く。
昨晩、樹宛に送った誤送信メール。朝になって開いてみれば返信されていたのだ。
“Re”と淡白に返されており、菊丸はどうしても自分で開く勇気がない。
代わりに開いてくれそうな人物は、樹の幼馴染の幼馴染でクラスメイトの不二が適任だと菊丸は考えた。
「後で怒っても知らないよ?」
三度目の確認をする。人のメールを開くのは気が引けてしまう。
「怒らないから」
「う〜ん、じゃあ……」
不二は不本意ではあるが頼まれた通りに樹のメールを開いた。
菊丸がこのメールを開いてくれますように。
そう、一文が書かれているだけであった。
「…………………………………」
「どう、だった?」
菊丸は恐る恐る顔を上げて、不二を見る。
彼は顔をしかめ、吐き捨てた。
「いくじなし」
指が衝動に任せて削除を選択していた。他人事なのに苦しくなって、唇が歪む。
「あのさあ」
携帯を閉じて、机に置く。がしゃ、と音が鳴る。
「何て言ったらわかんないけど、英二のそういう所、樹くんはわかってるんだよ。お節介かもしれないけど」
「何?何が書いてあったんだ?」
「英二が聞けば?」
「…………ごめん」
謝る菊丸に、不二は口を開くが何も言わずに大股で教室を出て行った。
「だから、ごめんって……」
不二には聞こえていない、自己満足の詫びを呟く。
携帯を取って開いてみるが、メールは削除されて読めなかった。
けれども不二の様子でだいたいの予想は出来る。やはりあのメールは自分で開くべきだった。
また携帯を机に置き、机に突っ伏し菊丸は思いを巡らせる。
早く樹に謝るべきなのだが、何がどう悪いと思って詫びるのか、上手く言葉が紡げない。
樹はきっと、許してくれるんだと思う。きっと、呆れと諦めで怒れないのだろう。
怒らせるような事を言えば良いんだろうか。そんな馬鹿げた策さえも見透かされそうで何も浮かばない。
「あーあ」
頭を抱えた。どうにもこうにも上手く行かない。
ぱちん。同じの空の下、樹は携帯電話を閉じる。あのメールは返って来ないと、待つのをやめた。
恐らく彼は頭を抱えているのだろう。返信をした意地悪さえも全て自分のせいにして。
樹の気持ちに怒りはない。初めから怒ってなどいないのだ。
菊丸のミス、樹の意地悪。全てはお互い様。
「俺も性格が悪いですね」
携帯を仕舞い、先ほどからずっと呼んでいる仲間の元へ向かった。
明日、電話をかける口実が出来上がった。誰にも言わない、見せない、心の内ならば喜んでも良いのだろうか。そっと天に問いかけた。
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