僕は自分の意志でラケットを握り、この地へやってきた。
 だから何が起こっても、それは僕が望んだ結果。



歯車
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 観月はじめはテニス特待生として、山形から東京の聖ルドルフ学院へ入ってきた。
 スクールで練習をする選手たちをフェンス越しから眺め、彼は目を細める。


 あれじゃ駄目だ。


 特待生というからには当然テニスは得意であり、地元ではそれなりの評価を受け、自らの腕と戦術には自信があった。見れば選手たちの粗が見える。その粗をどうすれば克服でき、さらに向上させる事が出来るのか、その術を観月は心得ていた。
 観察、調査、シミュレート。データを基にしたテニスを彼は得意としていた。
 ここでなら遺憾なく実力が発揮できる。存在を知らしめる絶好の機会。
 各選手の特性を考慮した上での練習案をまとめ、部長へ提出した。


「これはちょっと出来ないな」
 部長は観月の作成した冊子を軽くめくると、すぐに彼へ返却する。
「でも凄いな。こんなのが作れるなんて」
 柔らかい口調、褒め言葉。だが所詮、上っ面であった。
 冊子は読む気自体なかったのだろう。観月に手は押し返すようであった。
 よくよく考えてみれば当然である。己の欠点を事細かにあげたものを、最近やってきた特待生、しかも年下から渡されるのだから。部長自身も自尊心がある。認めたくは無い部分があるのだろう。
 だがそれでは力は伸びない。観月も相槌を打って愛想笑いを浮かべていたが、彼の狭さを笑っていた。
 どちらも譲る事は出来ない、お互い様のような二人。だが観月は諦められなかった。部長が折れるまで何度も案を提供し続けた。他の上級生にも掛け合った事もある。
「ごめん」
「あー……それは……。ううん、良い」
「他をあたってくれ」
 断られ、はぐらかされ、他へ回され。結局、誰も振り返ってはもらえなかった。


 同級生で生え抜き組である赤澤は案に興味を示してくれたが、観月には哀れんでいるように見えて、惨めに思ってしまう。
 なぜ。どうして。誰も。
 部活時間、校内コートの上で繰り広げられる練習。観戦する観月は爪を噛んだ。他人の動き、ボールの動き。それらを見ていると胸が苦しくなった。歯がゆく、焦らされる。心は徐々に闇と毒を含んで、狭く、歪んでいく。
 聖ルドルフ学院は、まだ創立して五年も満たない。スポーツに力を入れており、使い方が悪いのかもしれないが、コートや部室には汚れや傷といった月日を感じさせるものが刻まれている。
 観月は思う。自分には何が刻まれているのか。まだ何も、刻まれてはいない。
 何の為に僕はここへ来たのだろうか。もしかしたら、何も出来ずにこのまま……。
 低く呻き、額に手を当て俯いた。思考が悪い方向へ進んでいる。思い直さなければ。そう考えても余裕は無く、自分自身に追い詰められていく。


「んっ?」
 観月は僅かに声を漏らした。
 一つのボールが向こう側から転がって来て、観月の足に当たる。
 顔を上げると、それを拾いに来た一年生と目が合う。
 この一年は誰だっただろうか。
 名前を思い出そうとしながら、屈んでボールを拾い、渡してやる。
「ああ」
 一年の手の上にボールが乗せられた時、観月は誰なのかを思い出した。
 部活終了後、校舎裏で一人練習をしていた生徒だ。スクールでは見かけないので、恐らく生え抜き組だろう。
 だがやはり、名前は思い出せない。
「何か?」
 きょとんとして観月を見る一年。
「いえ、こちらの話です。そうだ」
 観月は“耳を貸して欲しい”という合図を送り、一年に一言だけアドバイスを出した。
 ほんの気まぐれ。顔を思い出したのと同時に、練習の姿が浮かんだだけだ。
 言った後で思えば、先輩面をした嫌味だったのかもしれない。一年はおどおどとした動きで礼をして行ってしまった。
 それはほんの些細な出来事で、寮に帰って飯を食べればすっかり忘れてしまった。




 翌日の放課後。スクールへ向かう時、観月は後ろから呼び止められる。
「あの……!」
 振り返れば、先日の一年生が息を切らせてやって来た。名前は知らないまま。彼の方も自分の名は知らない様子であった。
「昨日は有難うございました」
「え?」
 一瞬、何の話だかわからない。
「教えられた通りにやったら、感じが良くなったんです」
「ええ……ああ」
 相槌を打つしか出来ない。
 しかし心音が早まるのを感じた。夕日の赤が、何かを溶かしていくように思えた。眩しく、輝いて、視界を広げていく。
「本当に有難うございます」
 一年は二度も礼を言う。
「………………………………」
「………………………………」
 会話は途切れ、二人は立ち尽くした。まだ何かあるのだろうか。一年の反応を待つ観月。
「あの、すみません。人数が多いものですから、その。お名前を……」
 頭の後ろに手を当て、一年は名前を問う。
「僕、ですか?観月はじめ。二年です。君は?」
「金田一郎、です。観月先輩、凄いんですね」
「いや……。いえ……」
 突然の賛辞に観月は戸惑いながらも、ぎこちない笑みを浮かべた。


 今、初めてこの地へ来て、認められたような気がした。
 全く何もかも駄目だった訳ではない。ただ、受け入れる心を失っていたのだ。
 ごくり。唾を飲み、込み喉を鳴らす。
 観月の耳は、運命が動き出す歯車の音を捉えたような気がした。








 姿勢が180度変わった訳ではない。性格は今のままだ。
 だがあれから、流れるように物事は進んでいった。
 三年生が観月の才能をようやく認めだした。マネージャー兼選手になったのもほぼ同時期。
 内部の実力を上げるだけではなく、他校へ赴き目ぼしい選手を見つけてスカウトも始めた。
 観月の情報を駆使した練習方法で力を付けて、観月の集めた選手でさらなる高みを目指す。部内で一目置かれる存在になるまで、そう月日はかからなかった。いつしか“観月さん”と呼ばれるようになった。
 上手いように進んでいる。僕は輝いている。そう観月は感じずにはいられなかった。
 しかしその中で変わらないものがある。
「観月先輩」
 呼ばれて振り向くと、そこには金田がいた。
 観月にとっての後輩は彼。周りが観月さんと呼ぶ中で、金田だけは観月先輩と呼んでくれていた。
「金田くん」
 観月の口元が綻ぶ。
 二人はあれから親しくなっていた。部活が終わり、生徒が帰った後はよく観月が紅茶をカップに入れてご馳走していた。
 勉強を教えた事があった。テニスのアドバイスも当然した。実家の話も少しだけ出した。
 そして、部活仲間であり同級生の赤澤の話になると、金田はもっと聞きたそうな顔をする。
 赤澤と金田は同じ生え抜き組。本人の口から直接は聞いていないが、補強組の中でも負けずにレギュラーでいる赤澤は尊敬の対象なのだろう。観月の目から見れば赤澤は大ざっぱな所はあるものの、気の良い人間に見えるが、金田からすると近寄り難い人物らしい。
 あんな男より、僕を見ていれば良いのに。
 そんな言葉を冗談めかして言えるぐらいに、もっと親しくなれれば良いのに。観月はぼんやりと頭に過ぎらせた。
 いや、冗談ではないから、思っても口に出来ないのだろうか。


 カップを取って口を付け、瞳だけを前に向ける。視線の先には金田がいた。
 この距離でこうして向き合っていたい。今が幸せだから、続いて欲しいと願っていた。
 この時が、金田くんにとっても幸せであるように。
 秘めた意思は、瞳は瞬きをして閉じられ、口は紅茶に触れぬまま、カップを受け皿へ置く。
「金田くんはダブルスが合うと思うんです」
 テーブルの上で肘をついて手を組み“んふ”と、独特の笑みを浮かべた。
「俺が、ですか?」
 そう言う金田の口はぽかんと開いていた。
「ええ」
 観月は自信を持って答える。
 金田本人は気付いていないようだが、彼はダブルスプレイヤー向きだと思っていた。
 このままシナリオにそって育てていけば、きっと才能を開花させるであろう。
「僕のシナリオは完璧なのですよ」
「はぁ」
 喉で笑う観月に、金田は相槌を打つしか出来ない。
 紅茶は喉に潤いを持たせて身体を温めてくれる。カップの中で揺らぐ薄い赤はどこか情緒を感じさせた。部室から差し込む夕日の色も相成って、余計にそう見せてくれる。いつか懐かしむ郷愁と、いつか起こる感傷さえも。


 金田には話していないが、明日は大仕事があった。青学の天才不二周助の弟のスカウトである。
 引き込む誘導方法も心得ており、弟の名前を何度も確認していた。
 名前は裕太。忘れてはならない。
 絶対に上手くいく。そう思わずにはいられなかった。


 観月の絶対の自信と確信通り、不二裕太は青学からルドルフへ転校し、テニス部へ編入した。








 バタン。
 ロッカーが閉められる音と共に、金田は相手の顔を向く。
 相手は同じ生え抜き組の同級生。友人であり、彼と共にテニス部へ入った。
「俺、テニス部辞めるよ」
 聞き慣れた声は、聞き慣れない言葉を放っていた。
「どうして?」
 当然、反射的に問う。衝撃で心音は速さを増す。
「どうしてって。続けていたって絶対にレギュラーになれっこないし」
 それに。彼は続けた。
「この間入ってきた転校生。あれって青学の不二弟らしいじゃん?あんなのに入られたら、もう無理だ。観月さんのお気に入りみたいだし。反則」
 もうやっていられない。諦めきっている口ぶり。説得は無駄なのだと感じた。
「でも、なれるかもしれない。観月先輩は」
「金田ならなれるかもしれないな。悪ぃ、俺からテニス部に誘ったのに」
「……………………………」
 励ましも詫びも、遠い言葉のよう。別に絶縁ではない、別の道を歩むだけだ。誰もが経験する事なのかもしれないが、寂しいだけだ。
「今度、文化部入るんだ」
「何部?」
「今度、話す」
 彼は少しだけ顔を赤らめた。それを見て、変わらぬ友人のままなのだと安心する。


「はぁーあ」
 息を吐いてスポーツバッグを背負い、金田はコートへ通じる外通路を歩く。
 先ほど会話を交わした友人の他にも生え抜き組の仲間が何人か脱落している。不二の弟が加わってから、その数は加速したようだった。このままだと残る生え抜き組は自分と赤澤だけなのかもしれない。だが赤澤の心理はわからない。追いかけるだけで、特に親しい訳ではないのだから。
「あ」
 思わず声を漏らし、金田は歩調を緩めた。
 前を歩く不二の弟――裕太を見つけたからだ。
 裕太はどこか他人を受け付けない雰囲気を醸し出しており、近寄り難い。兄である青学の不二は、実際に会ってはいないが柔らかな印象を受けたのに。我が道を行くとでもいうのか、裕太は熱心にテニスに打ち込んでいた。
 観月にスカウトされるだけの実力はあるし、意気込みも感じられ、尊敬に値する。
 しかし、だからといって受け入れられるのかと問われれば、否であろう。生え抜き組や補強組にも裕太の“天才不二周助の弟”肩書きは大きく、脅威の存在であった。
 なんでこんな奴が来たんだろう。
 影で金田の耳にも聞こえた、やっかみの声。口には出さないが、金田にもそう思っていた部分はある。
 裕太にも届いているのか、どうでも良いのか、それとも見下しているのか。彼は相成れようとはせず、孤独であった。あくまで接するのは才能を認めてくれる補強組の一部の上級生と観月であった。


 不意に裕太が足を止めると、金田もつい止めてしまう。
「観月さん」
 後ろからでも、裕太がそんな事を言ったのは聞こえた。見回すと観月が玄関から出て来て、裕太の方へ真っ直ぐに歩み寄ってくる。その状況に金田はなぜか隠れたくなってしまった。
 裕太は観月のお気に入り。テニスが強いんだから、しょうがない。
「しょうがないんだ」
 誰にも聞かれぬように、一人金田は呟く。
 実力が無ければ絆も離れていく。当然と言えば当然。当然だから、どう心が揺れても締め付けられても、受け入れるしかない。
 金田は懸命に自分へ言い聞かせた。


 だがこれだけは考え直せない。
 裕太が嫌いだった。










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