噛み合わない歯車は嫌な音を立てて、軋んで壊れてしまう。
歯車
- 2 -
その日、金田には驚くべき出来事が二つあった。
一つ目は練習を終えた部員が部室で着替えている時。誰かが部員の間を通り抜けて、金田の元へやってくる。
「金田くん」
声にハッと顔を上げると、観月であった。バインダーを抱いて、やや背を屈めて話しかける。
裕太が入ってから個人的に声をかけられるのは随分久しぶりのように思え、金田はただただ驚いてしまう。正面から見る彼の顔はあの時のままで、そう月日も経っていないはずなのに懐かしく、嬉しさが込み上げた。
それは観月も同じであった。笑みが零れ、自然と温かい気持ちになる。
マネージャー兼選手は忙しく、部活の合間では金田と向かい合える機会は少なくなっていった。親しかったといっても部活内の付き合い。観月はそろそろ一歩前へ出ても良いだろうと考えた。
日曜日、金田を連れてどこかへ行こう。約束をしに観月は声をかけた。この機会を選んだのは照れがあったのかもしれない。
表面上は冷静のつもりだが、身体の奥の心臓は忙しない鼓動を脈打っている。
「あのですね、金田くん」
口から出る声は普段とは異なる気がして、顔が熱くなった。
けれども引っ込める訳にもいかず、先の言葉を紡ごうとする。その時であった。
「観月ー」
木更津の呼ぶ声がする。
まだ肝心の用件を言っていない。聞こえない振りをした。
「みーづーきぃー」
もう一度呼ばれる。
「呼んでますよ?」
少し困った顔をして金田が言う。彼にそう出られたら、行くしかない。
「仕方ないですね。今、行きますよ」
木更津の方を向いて伝えた。
「早く来て。裕太がさ」
裕太の名前が出て、金田が一瞬顔を強張らせたのを観月は気付かない。
金田の方へ向き直ると、既に表情は戻っていた。
「金田くん。今度、聞いてください」
「はい」
彼の返事を聞いてから観月は木更津の元へ向かう。
今回は失敗に終わっても、今度があるから約束をした。
次の機会がある。そう信じていた。
二つ目の出来事。それは着替え終わり、挨拶をして部室を出た時であった。
「金田」
扉を閉めようとする背の後ろから、呼ぶ声が聞こえる。
声だけで誰かはわかった。まさか……疑いながら振り返ると、赤澤が立っていた。
「赤澤部長っ?」
上擦りそうになりながら、慌てて身体を向き直して直立する。
赤澤は内心、大げさだと思うが、“話がある”と軽くて招きをして部室裏まで彼を連れて行った。
「なんのご用ですか?」
金田は問う。鼓動は緊張で忙しなかった。
「実は頼みがある」
「頼み……ですか?」
動揺するが、真剣な顔をして耳を傾ける。
赤澤が金田だけを誘って頼んできた事。
それは金田にとって大きな試練であり、相手が赤澤でなければ躊躇いも無く断っていた。
裕太と仲良くして欲しい、という難題。
「仲良くしてやってくれないか。裕太と」
赤澤は髪を指先でいじりながら言う。どこか困っているような表情で、彼自身も無理な頼みだというのは自覚しているようだ。
「不二…………ですか?」
息を軽く吐いて、金田は表情を曇らせる。
観月先輩だけではなく、赤澤先輩までも裕太なのか。大して言葉も交わしていない同級生に、憎らしい気持ちがふつふつと込み上げた。
「金田もわかっているだろう?裕太は特に生え抜きの……」
この先はどうも言い辛く、途切れてしまう。
「不二は俺たちの事、眼中に無いみたいじゃないですか。望んでいるんですか?」
嫌味を放つ。せめてもの抵抗であった。
「それでも。頼むよ」
手を合わせてお願いのポーズをする。
金田の唇が無意識に尖った。
「考えておきます」
小さく礼をして、金田は歩調を速めて場所を去る。後ろから“頼んだぞー”と、用件を口に出して胸のつかえでも取れたのか、明るい赤澤の声がした。
俺が引き受けるとでも思っているんだろうか。金田は嫌に思う。
自宅への帰路は、大股で帰った。一歩を踏む度、どうするかを考えた。
あんな無理な頼み、考える必要も無い。そう自分へ言い聞かせても考えてしまう。
裕太が加わって、ルドルフはおかしくなった。
友人は部を去り、観月も赤澤も彼ばかり。裕太は不二の弟で才能に溢れている。これ以上、彼は何を望むのだろうか。
ただ、面白くないだけであった。
翌日。昼休みに裕太は食堂で昼食を取っていた。
一人、端の席で、周りをなんとなく眺めながら。ルドルフへ転校してから、変わらない姿。
友人はいない。クラスには知り合いも出来たが、馴れ合いはしなかった。接しても受け答えをするだけで、自ら歩み寄ろうとはしなかった。
“また兄と比べられたら”という考えが頭から離れない。学校を変えても同じ関東。知っている人間には知れ渡っているだろう。
しかしルドルフへ来て良かったと裕太は思っている。観月を始めとした上級生が認めてくれている。裕太として受け入れてくれている。テニスの腕もぐんぐん上達していく。“いつか兄に”という希望を見せてくれる。そう、楽しいし、幸せであった。そのはずなのに。
「………………………………」
スプーンがスープの入った食器に当たると音を立てる。やたらと響く感じがした。
この自らを包む空間は、ぽっかりと空いたまま。
周りで生徒たちは友人と楽しく食事をしている。羨ましいという感情は、もうどこかへ消えてしまった。認めてくれる存在があるのに、何かどこかが足りない。贅沢な願いなのかもしれないが。
望めば手に入るかもしれない。だが過去を思うと躊躇いが生じる。言い訳なのかもしれないが。
一人の時間は物思いにふけりやすい。テーブルに置かれた好物の甘いデザートを食べる気力も減退していく。こんな気持ちでは兄には勝てない。そう思い直そうとした時であった。
「不二……」
頼りない、消えそうな声が横から聞こえ、反射的に裕太は振り返る。
「こんにちは」
食事を載せたトレイを持った金田が、ぎこちない笑みを浮かべた。裕太が問う前に金田は答える。
「俺、金田。同じテニス部の」
「ええと……」
「生え抜きで、スクールじゃないから……知らないかもしれないけど。いつも見てるよ」
ゆっくりと途切れ途切れに話した。
「一緒、良いかな?食事」
返事をされる前に、金田は裕太の向かい側の席へ腰掛ける。強引だと思われても座り込んだ。
「色々話したかったんだ」
くすくすと金田は笑う。裕太は口元を引き攣らせるように、つられた笑みを見せた。あまりに突然で、どう反応をすれば良いのかわからない。
「あのね」
勝手に語りだす金田。裕太は相槌を打つしか出来なかった。
金田は良く笑っており、裕太がルドルフへ来た理由や家の事は問わずに、テニスの話題だけを振っていく。兄の話を出さずにテニスの話をするのは初めてのような気がして、裕太も僅かながら乗っていった。
「……そうだね」
金田が頷いて見せると、裕太は自然な形で微笑んだ。
顔を見合わせ、声を上げて笑う。
裕太の手はデザートの入った器へ伸びて、前に持ってくる。彼の様子を見て、金田は瞬きをした。
「甘い物、好きなの?」
「え?あ…………………」
返答に悩む裕太。やはりわかってしまうのか。合わないと笑われるのか。
「嬉しそうに見えたし」
「ああ、うん」
俯きながら頷く裕太の顔は耳までも赤く染まり、はにかんでいた。
恥ずかしいけれど嫌ではない感じ。心が満たされていくのを感じた。
もっと金田と話がしたいと思った。もっと自分を知って欲しいと思った。自分を好きになって欲しいと思った。堅く閉ざされていた殻に、開こうとする意思が芽生え始める。
食事を終えて、食堂の入り口で別れを告げた。
「じゃあ、また部活で」
金田は手を振り、背を向けて廊下を歩いていく。
「あ!…………ああ、また…………」
タイミングが遅れ、裕太は金田がもう見てはいないのに手を上げた。
教室へ戻るまで自然と笑みが零れて、幸せに包まれていた。
「あれで、良かったのかな」
一人廊下で、金田は呟く。普段お喋りな方では無いので、午後もあるというのにどっと疲れが押し寄せる。
裕太に声をかけたのは赤澤に頼まれたから。最初は嫌々だった。
しかし実際、話してみれば裕太は真っ直ぐな人だと金田は思う。真っ直ぐ過ぎて敵わない。具体的にどうとは答えられないが、決めたものに突き進む姿は観月に似ているように感じる。
誰も彼もが遠過ぎて、己の目標が霞む。裕太をもっと知れば、霧は深くなるのだろうか。
教室へ戻る道を、部活で裕太とどう交流をしようか考えながら歩んだ。
一日少しずつ、裕太と金田は言葉を交わすようになった。
一日少しずつ、二人は絆を深めていった。
特に裕太の変化は明らかで、学校生活を楽しんでいる雰囲気が伝わってくる。
裕太はメンタル面で不安があった為、観月も喜んでいた。
彼にとって、金田と交わした“今度”という機会が訪れるまで。
数日経ったある日。観月は部活の休憩時間に金田に声をかけた。
手っ取り早く、今度の日曜日の予定を聞こうと心に決めながら。次はどこへ行くのかを話すと思うと心が躍る。
金田は振り返り、笑いかけて彼の名を呼んだ。
「観月さん」
「………………………………」
観月の唇は薄く開かれたまま、声を発せられない。
彼は今、観月先輩ではなく、観月さんと呼んだ。
周りが観月さんと呼ぶ中で、金田だけは観月先輩。そう呼んでくれていたはずだったのに。
なにが起こったのだろう。疑問を過ぎらせる中で、金田は答えてくれた。
「やっぱり不二たちと同じ呼び方の方が良いですよね」
「え……?」
吐息のように搾り出す。
金田や他の人間には何の事は無い呼び名。だが観月にとっては特別であった。
変わらない二人の証のようであった。言葉は形を成さないものだし、個人的な思い込みである。だがとても大切なものだった。
「観月さん、それで……」
「いえ、すみません」
会話を打ち切り、ふるふると首を横に振って逃げるように金田から離れる。
空いたベンチを見つけて、崩れるように座った。視線は地を凝視し、不自然な体勢であるが固まっていた。
「………………………………」
自分自身、信じられない程の動揺。頭の中が真っ白になった。暑いのか寒いのかわからないが、自分の身体だというのに嫌な体温をしていた。まるで魂が別の身体に入り込んだような違和感。
たかだか呼び名なのに。
わからない。本当にわからないのだ。どうしてこんなになってしまうのか。
なにが乱し、破壊をしようとしているのか。本当に。
この想いをどうしたら良いのかわからず、内側から暴発してしまいそうだった。
←
→
Back