歯車
- 4 -



 水道の蛇口の向きを変えて開き、出てくる水を口で受け止めてゴクゴクと飲み込んだ。喉が動いて身体の中を潤わせていく。
 一度止め、向きを戻して開く。両手で受け止めた水を顔へぶつけ、浴びるように顔を洗う。
 手近に置いてあったタオルを手に取り、さっぱりした顔を覗かせる裕太。
「はー……」
 息を吐き、手で持ったタオルをじっと見下ろす。コンディションはバッチリだろう。


 明日は都大会。兄周助のいる青春学園と相見える。
 とうとうここまで来た――――
 天才と呼ばれる兄は強いだろう。だが自分だって弱くは無いはずだ。勝機はあると信じたい。
 がむしゃらに練習し、戦って勝ってきた。
 そして兄という壁を突き抜けた先には、広大で自由な世界がきっと待っている。
「よし」
 一人頷き、前を向く瞳には貪欲なまでの闘争本能が、牙をチラつかせていた。




 部室では観月と赤澤が試合の対策について最終確認を取っている。赤澤は長椅子に座り、テーブルに突っ伏す。
「観月。喉渇いた。何か入れてくれ」
「僕を給仕と履き違えてないか?」
「お前、カップを勝手にいじると怒るだろ」
「はいはい」
 投げやりな返事をして、観月は自分専用のソファから立つ。
 準備を整えている間、欠伸をして崩れた姿勢を直す赤澤。
 観月が戻ってくると、トレイに載せたポットとカップをテーブルに置いた。わざとらしくガシャンと音が鳴る。
 紅茶はインスタントで、受け皿に蓋をされたカップから糸とラベルがはみ出ていた。
「ん?」
 赤澤はラベルを指でつまみ、よく見ようとする。
「こら。出来るまで待ちなさい」
 ソファに座ろうと、テーブルに手をついた観月が嗜めた。
「色が違う……替えた?」
「ええ。もう一ヶ月前ですけど」
「全然気付かなかった」
 指を離し、観月を見上げる。
「君に気付いてもらう為に替えてはいませんよ」
 はぁ。立ったままで溜め息を吐く。


「んなこたぁ、わかってるよ」
 伸びをして椅子の背もたれに寄りかかった。腕を伸ばしたまま彼は言う。
「金田に気付いてもらえば良いんだろう?」
 テーブルについていた観月の手がひくりと震えた。立った体勢で硬直する。
「観月は金田が好きだもんな」
「…………き……だと」
 口の端が引き攣り、持ち上がるように開き、音を発した。
「好きだろう?」
「………………………………」
 また手がひくりと震え、テーブルから離す。背を伸ばし、おもむろに赤澤の横へ歩み寄る。
 見下ろす観月の顔は前髪のせいか、影を深く刻んでいた。
 薄暗い部屋。中を彼の白い手が赤澤の胸倉を掴み、引っ張られたかと思うと。


 パン。
 反対の手が彼の頬を叩いていた。
「人でなしと呼ばれないか」
 影の間から微かな光を灯す瞳も漆黒を映す。多くのものを塗り込めたような濃さ。
「そりゃお前だろ」
 叩かれた頬を摩りながら低く呟く。
 観月は手を離し、何事も無かったようにソファに座って受け皿を取った。
 温かい蒸気が昇り、カップの中には湯を紅茶が染めている。
 美味しそう。そう感じる。それだけだった。








 翌日の都大会。準々決勝で聖ルドルフ学院と青春学園は試合を行う。
 ここへ来るまで、ルドルフは他者の追随を許さない強さを見せていた。
 しかし、1−3という結果で青学の前に敗れ去ってしまった。
 ルドルフは負けたのだ。
 しかし、その中で手に入れたものもある。昇華されたような、清々しさ。
 具体的な形ではない。目には見えないが確かに在る何か。


「裕太。皆待ってるから」
 兄周助は笑みを浮かべて青学の仲間たちと共に帰っていく。何度も振り返り、弟に手を振っていた。
「ったく。早く行けよ」
 邪魔扱いをする裕太だが、どこか嬉しそうに、照れ臭そうな素振りを見せる。
 そんな兄との会話を終えた裕太の背後に歩み寄る影。金田であった。
「不二」
 名を呼んで裕太が振り向くと、反応を伺うような困った表情をしていた。
「……………………あ………」
 裕太は薄く口を開いたまま固まる。
「不二、楽しそうだった」
 ぎこちない動きで口元が綻ぶ。
「金田。お前、凄かったぞ」
「それは言わないで」
 赤澤に怒鳴った事かと、金田は両手を前に出して振った。
「いや、それもあるんだけど。凄かったんだよ」
 裕太もぎこちない笑みを浮かべる。
「ねえ。月曜は来るんでしょう?」
「来るって」
「あの」
「なあ」
 話を振るタイミングが重なった。
「金田、言えよ」
「不二からで良いって。俺は来週でも良いから」
「俺だって、また今度で良いんだよ」
「じゃあ、月曜。覚えていて」
「ああ」
 どこか硬かった表情は徐々に柔らかくなり、綺麗に笑みを形作っていた。
 一つの試合がわだかまりを昇華させ、頭上を突き抜ける雲一つ無い空のように、晴れ渡っている。




 裕太は自宅へ帰る事となり、彼を抜かしたメンバーは帰路を歩んだ。
 観月は一人で前を進み、仲間たちは後ろを付いていった。けれども速度を落として、並んで歩む。
 俯き加減で、横を盗み見る。視界に金田が入り、視線に気付いた彼と目が合う。
「久しぶりに、君の顔を間近で見たような気がします」
 ふと過ぎった思いが、気付けば口から出てしまっていた。
「俺も今、そう思いました」
「………………………………」
 走馬灯のように頭の中が活性化し、話したい言葉が次々と浮かんでいく。溢れすぎて、何を言えば良いのか見えなくなる。
 試合に負けたりと思う事は多くあるはずなのに、不思議と口元に笑みが零れていた。
「金田くん。ほら、君はダブルスが合うでしょう?」
「はい。観月さんの言った通りですね」
 耳に届く金田の声が胸の奥へと浸透していく。
「そうでしょう?次は五位決定戦です。負けは許されません…………」
 言葉が途切れた。
 僕を信じてくれるか。
 声に出来ない思いだけが流れた。
「はい。ルドルフの勝利を皆、信じていますよ」
「うん」
 頷き、地を見つめる。


 並んで歩くこの距離。隣で感じる彼の存在。
 心地良かったのだと思い出し、心地良さに浸っていた。
 新たな始まりを感じずにはいられない。根拠は無いが、それなりになりそうな気がした。
 沈もうとする日が、決まった頃に顔を出すように。
 夜明けと呼ばれる、明るさのように。




「観月ー!」
「観月!」
「ありゃあ聞こえてないな」
 観月と金田の周りには誰もおらず、通り過ぎた分かれ道で赤澤たちが立ち止まっていた。
 呼びかけても二人は気付く気配を見せずに、影は小さくなっていく。
「打ち上げと称してどこかで食べようって話していたのに」
「俺たちだけで良いだーね」
「柳沢。食べれる?」
 赤澤、木更津、野村と顔に包帯を巻いた柳沢が輪を作って話し合う。
「ぶらぶら歩いて決めるか」
「賛成」
 腕を組んで進みだす野村に、他の三人は手を上げた。
 彼らの中にも笑顔が浮かび、試合を楽しんだという気持ち良さに包まれていた。










ここまで読んでくださって有難うございました。これから愉快なルドルフが始まりますように。
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