歯車
- 3 -



 項垂れる観月の肩を、掴むように手が置かれる。
 驚いて見上げれば、ベンチの後ろに赤澤がいた。
「どうした?」
 どうしたもこうも。心の中は流暢に話すのに、口は閉ざされていた。
「金田と裕太、仲が良いよな」
 赤澤は同意を求めるが、とても“そうですね”と応えられる心境ではない。観月は黙りを決め込む。


「やっぱ。金田に頼んで正解だったわ」
「頼む?」
 つい聞き返した。
「ああ。ここだけの話だけどよ」
 口元に手を添える赤澤。内緒話のつもりのようだが、目は嬉しそうに笑っている。
「金田に頼んだんだ。裕太と仲良くして欲しいって」
「は!?」
 ガタン。観月は肩に乗った手をも押し退け、立ち上がって振り向いた。
「そんな顔するなって。押し付けた感はあるけど、仲が良い事に越した事は無いだろ?」
 そう、確かに赤澤は金田に面倒事を押し付けた。
 金田の気持ちと裕太の気持ちも無視した、いい加減で無神経な行動だろう。
 だが部内を考えた良策とも言えるのだ。結果、上手くいってしまえば責められはしない。
 マネージャーとしてなら、喜ぶべきだろう。では観月はじめとしては……。
 観月は髪を指先に絡めながら、愛想笑いを浮かべる。
「裕太くん、嬉しそうですものね」
 観月はじめとしては、なんて真似をしてくれたのだと悪態を吐かずにはいられない。恨みがましい気持ちが心を支配していく。
「金田もだろ?」
「……ですね……」
 相槌を打つ裏では、それはどういう意味だと赤澤に問いかけていた。
 仲の良い様を喜んでいるだけなのか。それとも、金田の友人が部をやめたのを知っての発言なのか。
「どうして僕にバラすんです?これを知ったら、裕太くんは酷く傷付くでしょうね」
「金田もだろ?」
 どうしてそう金田の名を振るのか。赤澤の意図が読めない。
「僕が話したらどうなる事やら」
「観月は話さないだろ」
 赤澤は“じゃあ”と付け足して、去っていく。
 心にも無い言葉は、やはり読まれていた。


 僕はどうしたらいい。観月は一人立ち尽くした。
 こんな気持ちは金田には知られたくはない。願うのは、彼が彼のままで傍にいてくれる事だった。
 それだけなのに、たった一つの変化が心に重圧をかけて追い詰め、感覚を麻痺させていく。
 誰も悪くは無い。しかしどうしようも無いのだこの気持ちは。
 誰にも知られはしないこの想いは、誰にも知られぬまま。深く沈んで、曲がって、尖っていく。奥へ、奥へと、誰にも知られぬように。狭くて暗い、闇の底へと。




 想いなど露も知らない金田は、不意に空を見上げた。
 そんな彼に、隣にいた裕太は問う。
「どうした?」
「うん。綺麗だなって」
 指差す先の空は日が沈みかけて赤く、雲が鮮やかな色に染まっていた。彼の言う通り綺麗で、一枚の絵のようだと思う裕太。
「写真、あったら撮りたいぐらい」
 手の形でカメラを表現させて見せる。
「写真……好きか?」
「ほら、俺は切手集めが好きって言ったろ。そういうのを眺めるの、楽しくて」
「そっか。兄貴が、好きなんだよ。写真…………撮ったり、飾るの」
 兄の話を裕太自ら口に出していた。ごく自然に話していた。
「へえ。凄いんだね」
「ああ。凄いんだ」
 兄は凄い。昔はそれで良かったのに、今は抜かしたい、負かしたいと敵意を向けるようになっていた。
 兄が褒められるのは誇りだったはずなのに。同じ東京の地に立っているはずなのに、ここは遥か遠い場所のように感じた。








 嘘というものはたとえ口に出さずとも、香りは敏感な人間の鼻をくすぐり、疑惑を抱かせていく。


 季節は巡り、二年生レギュラーに裕太と金田が選ばれるのかもしれないという噂が、同じ二年生テニス部員の間で立った。
 非レギュラーたちが、部室で囁く。自分らの他に誰もいないので、悪態の吐き放題だった。
「それマジなのかよ」
 一人が机に座って足をぶらつかせながら言う。
「不二弟はわかるけどさ。なんで金田?あいつそんなに強いか?」
 居合わせた人物は同時に手を振った。
「生え抜きだからってお目溢し?うわ、ずりぃー」
 額に手を当てて、大げさなリアクションを取る。
「こないだ不二弟に睨まれた。怖ぇ怖ぇ」
「俺も。あいつ金田とは仲良いよな。デレデレ?」
「なにをどうして仲良くなったんだろう。性格正反対じゃね?」
 彼らは顔を見合わせて首を傾げた。
 裕太は金田と親しくなっても、他の二年生とは相変わらず触れ合おうとはしなかった。
「金田から声かけたみたい。誰かから聞いた」
「金田から?ありえねー!」
 手を叩いて下卑た笑いをする中、扉が開く。


「………………………………」
 入ってきたのは裕太で、笑い声がぴたりと止んだ。
 不機嫌そうな顔で自分のロッカーの前に立ち、鞄を置く。
 一人が調子に乗ってからかってくる。
「不二の弟くん。僕らに挨拶してよ」
「そうそう。金田にはしてるのに」
「………………………………」
 中に入れば嫌な連中しかおらず、嫌な笑いをしている。裕太は無視を決め込んだ。
「金田から話しかけてくれたんだってー?」
 裕太の背に放った後、“よくそんな気になれる”と小声で仲間に話す。
 潜めても裕太の耳に届き、制服のネクタイをはずそうとした手が止まった。
「だってこいつ入った直後に、仲良かった奴やめちゃったんだよな」
 “こいつ”と、裕太を指して言う。
「それまで観月さんとも仲良かったっけ?」
「あ、そうだったそうだった」
「………………………………」
「………………………………」
「………………………………」
 裕太には彼らの声は耳に入って来ない。手は止まったまま。頭は様々な事を思い巡らせていた。
 一つの疑問が頭から離れない。どうして金田は声をかけてくれたのだろう。
 ネクタイを締め直し、鞄を置いたまま部室を出た。辺りを見回して金田を探す。待ってなど、歩いてなどいられず、裕太は走る。


「はっ……は…………はっ……」
 口から息が吐かれ、裕太は一心に金田を探した。
 金田。金田。金田。
 裕太は金田を求めた。
「あっ……と」
 躓きそうになり、身体を支えようと手の先が地面を掠る。
「…………金田っ……!」
 部室へ向かう金田を見つけて、名を呼んだ。よく通り、金田は気付いて裕太を見る。
「不二?」
 きょとんとして、金田は歩みを止めた。裕太は全力で走って彼の元へ辿り着く。
「金田」
 金田の腕を強く掴む。彼の身体が僅かに揺れた。
「聞きたい……事が…………ある」
 息を切らし、汗を伝わせたまま裕太は言う。
「金田。どうして俺に一緒に食べようなんて言ってくれたんだ?」
「え?」
「だって。俺が入ったから友達やめちゃったんだろ」
 どこでそれを知ったのか。金田は眉を潜めるが、いつか知られる事かと冷静を保つ。
「不二のせいじゃないよ。仕方の無い事だったんだ」
「でも俺……。なあ、どうしてだ」
 適当な事を言えば良いのだと後悔した。
 今を、この関係を、続けられるから。
 裕太は真っ直ぐに金田の答えを求めた。その真っ直ぐな思いに真実が引きずり出される。
「赤澤部長が」
「………………………………」
「仲良く、してくれって」
「……………………あ………」
 裕太の瞳が見開かれた。
「不二。俺はね」
 腕を掴む手が落ちて、一歩退かれる。
「そうだよな。そうでもなきゃ。俺なんかに」
 目を逸らし、俯く。
「俺…………」
「不二」
 きっかけはどうあれ。大切な友人だと思ってる。
 続けるはずの言葉が、喉から出て来ない。
 早く言わなくては、言わなくてはならないのに。
 伸ばそうとする金田の手を、裕太はまた一歩下がって交わした。
 背を向け、走り去ってしまう。追いかけようと金田も走るが、裕太はどんどん遠くなっていく。


「……はっ……は」
 裕太は走った。呼吸が上手くいかず、詰まりそうになる。
 鼻がつんとして、目が染みた。
 泣いてなんかいない。泣いてなんかいない。自分へ言い聞かせて駆ける。
 急に怖くなって、金田の顔を見ていられなくなった。
 金田がいてくれて嬉しかった。嬉しかった分、反動で恐怖が覆ってくる。


 部室で会う裕太は怒りもせず悲しみもせず、遠かった。間に見えない、どこまでも続く線があるかのように。




「………………………………」
 観月は教室の窓際の席から部活へ行かずに、窓の外から見えるグラウンドを見下ろしていた。
 さっき、フェンスにそって裕太が横を走っていった。次に通ったのは金田。
 そろそろ行かねばならないのに。頬杖をつき、ぼんやりとした瞳で景色を映していた。
 机の上には筆記用具とテニスに関する本が無造作に置かれている。開かれたノートの上にシャープペンシルが投げ出されていた。
 そこには達筆ではあるが殴り書きのような文章。裕太の新しい練習メニューであった。
「……ツイストスピンショット」
 呟きは誰の耳にも届かない。
 あくまで勝ち進む為の手段。ルドルフテニス部の為。
 それ以外のなにものでも無く、決して私情なんかじゃない。
 赤澤が部を考えているのなら、マネージャーだって考えなければ。
「さて」
 椅子を引いて立ち上がり、鞄を持って教室を出て行く。扉を閉める音が妙に響き、乱暴に聞こえた。
 廊下を歩いていると、どこかの運動部の威勢のいい声がする。
「この時間だと、遅刻でしょうか」
 腕時計を見るが、素早く手を下ろしたので振りのようであった。
 皆が待っている。力を必要としているのだ。








 裕太の新しい練習ニュー。新しい技。
 裕太は喰らい付くように、俄然やる気であった。


 だが、周りの何人かの部員たちは何かがおかしいと感付き始める。
 だが、意見は出来ずに見守るだけであった。
 観月の策は絶対だったし、裕太が何より彼に心酔し、ひたむきだったからだ。
「不二」
 裕太が無理をしている気がして、金田は何か彼に言葉をと前に出ようとするが、後ろから誰かに肩を掴まれた。
「金田。どうする気?」
 振り向けば、レギュラーである野村がおり、横には柳沢と木更津がいる。
「どうって…………」
 口篭もり、俯く。
「皆、考えている事は同じだーね。でも」
「裕太は、どこへ行けば良い」
 柳沢に続いて木更津が言った。真実の先は目に見えている。言ったら彼がどうなるか。想像をするだけでも恐ろしく、したくはない。
「………………………………」
 くしゃりと顔を歪める金田を、野村は慰めるように肩を二度叩く。


 裕太のボールを打つラケットの音は荒々しい。
 一回、一回、打たれる度に、彼の頑なに閉ざそうとする心に入ったひびが、大きくなっていくように聞こえた。











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