上級生に勝手に因縁をつけられ、怪我をさせられた時。
 一番初めに気付いてくれるのは、たいてい彼であった。



過去
- 前編 -



「桜井。大丈夫?」
 穏やかな口調。柔らかい表情。そっと近付いて、桜井が一人でいるとやって来る。
 彼も上級生であった。体格は他の連中と比べて痩せ型で、どちらかというと文系の印象を受ける。
 彼は優しかった。暴力は振るわないし、話をまともに聞いてくれる。
 だが、桜井は彼が苦手であった。
 具体的な理由は出て来ない。同学年なら彼らの横暴を止めて欲しいからだろうか。
 それもそれであるだろうが、無理な願いだと承知している。あえて答えるなら雰囲気的なもの。嫌な感じがするのだ。
「いえ……俺は」
 無意識に視線を逸らす桜井。
 避けようとしているのを気付いていないのか、それとも気にしないのか、彼は手を伸ばして桜井の腕に触れる。
「こっちに来て。治療するよ」
 そう言って彼は腕を引く。
 連れてこられたのは部室裏。コートからは死角になっており、意外と人目につかない場所だ。
「そこに座って、少し待っていて」
 腕を放し、桜井を無造作に置いてあるコンクリートブロックの上に座らせて医療道具を取りに行ってしまう。すぐに彼は戻ってきて、治療を始めた。


 彼は膝を折って視線の高さを合わせて傷痕を覗き込む。
 怪我をしたのは左の頬。肌の一部が変色して、痛々しい。
「……………………………」
 彼のガーゼを当てようとする手に、硬直する桜井の顔。なぜだか、ぞっとする。
 近付こうと桜井の曲げた足の間に身体を割り込ませた。
 空いた手が、ひたりと素肌の腿に触れた。座る事により、立っている時よりも露出された剥き出しの足に。
 どんな風に触れられているのか、桜井は考えたくもなかった。どうでも良い景色を眺め、平生を保とうとした。
 触れた手が蠢いた気がしたが、頭に入れない事にした。
 触れた手が奥の方へ動いた気がしたのも、頭に入れない事にした。
 彼は治療をしているのだと、それ以外何も無いのだと、思う事にした。


 彼は男。
 男が男に向けられる性的な視線。
 そんなものがあるなんて、想像すらした事が無かったのに。
「……………………………」
 桜井はじっと時が過ぎ去るのを待った。
 気持ち悪い。
 嫌で嫌でたまらない。
 いくら不快が募っても口には出さずに耐える。
 口にして、彼が他の上級生と同じになるかもしれない恐怖。他の仲間が標的になる恐れもあるのだ。
 俺が黙っていれば良い。
 彼には見えない場所で手を握って拳を作った。


「終わったよ」
 彼は微笑んで見せる。
「有難うございます」
 上辺だけの礼をし、桜井が立ち上がると彼も立った。
「また怪我をしたら治療するよ」
 その言葉に桜井の眉が動く。
「ごめん。俺にはこれしか出来ないから」
 笑みに苦さを残し、彼は医療道具を戻しに行ってしまう。
「はぁ……」
 いなくなると、安堵のような息を吐いた。
「ん?」
 気配を感じ、その方向を向くと伊武と目が合う。伊武は桜井のゆっくりとした歩みでやって来る。
「桜井。さっき」
 上級生といなかった?
 低く小さい聞き取り辛い声の先にはそんな言葉が続いていたに違いない。
「大丈夫だよ」
 桜井は笑い、伊武を安心させようとした。
 怪我の治療をしてくれたとは言わない。そうすれば伊武にも桜井が抱いた彼へのわだかまりを抱いてしまうだろうから。
「そうなら……良いんだけど」
 何か煮え切らないものが残るのか伊武は俯き、コートへ戻ろうと背を向ける。


「あ」
 声を漏らし、伊武の腕を掴んでいた桜井。
 伊武になら話しても良いのかもしれない。他の仲間は感情を露にするかもしれないが、落ち着いている伊武になら。そう脳裏に過った時、気付けば手を伸ばしていた。
「桜井?」
 振り向き、伊武は何事かと瞬きをさせる。
「……………………………」
 思いとは裏腹に、面と向かえば声を失う。
「…………どうした……?」
 交差する伊武と桜井の視線。胸に抱いた言葉を表に出せぬまま、桜井は伊武を見つめるしか出来ない。
 伊武も伊武で、桜井の言葉を待つしか出来ない。
 時が止まったように、二人は無言のまま立ち尽くした。
 沈黙を破ったのは桜井。首を横に振り、詫びる。
「ごめん。なんでもない」
「そうなら……良いんだけど」
 先程と同じ返事をする伊武。何か言えないものか。思うだけでは浮かばない。
 なんでもないのなら、手を離さなければならないのに。なかなか動いてはくれなかった。








 今にして思えば。
 二人は互いの存在がいつもどこかが遠かった気がした。
 時が経っても、どれだけ近付けようとしても。
 本当に伝えたい言葉は、想いは、表へ出せぬまま心の奥の方へ沈んでいく。
 底は無く、深く深く降りても消える事無く存在を残して。
 今だって、この胸の中に。


「……………………………」
 桜井はおもむろに重い瞼を開いた。
 僅かに遅れ、目覚ましのベルが鳴り、止める。
 カーテンの隙間からは眩しい日の光が差し込む。朝、今日の始まりを現していた。
 布団の中から手を出して携帯電話を取り、開いてメールを確認する。
 目当ての名前は無く、閉じた。
 先日、伊武と別れ、眠って起きても変わらない現実なのだと知る。
「よっと」
 身を起こして布団を剥いで立ち上がり、着替えを始めた。
 制服に袖を通しながら思う。もし部活に遅刻をすれば、伊武は。
「やめだやめだ」
 考えを振り払い、呟く。
 散々後ろめたい気持ちを引き摺り、裏切りのような行為をしてきたというのに。
 図々しく女々しいと嫌悪した。
 思えば柳生と大会後は会っていない。いや、一度だけ会ったような気はする。記憶から抜け落ちかけていた。
 どうしてこんな時に柳生の事など考えるのか。嫌悪は増していく。
「最低だ」
 どうしてこんな事になったんだろう。遅すぎる後悔をした。
 何がいけなかった。どうすれば良かった。
 今なら上手い解決法がわかる気がする。それは過ぎた事だからだ。
「どうしよう」
 着替える手が一瞬止まり、また動き出す。
 これからどうすれば良いのか、本当にわからない。
 俺はこんなに弱かったのだろうか。いつから依存が強くなったのだろうか。
 元から辿れば橘にずっと頼ってここまで来たのではないか。大きな柱にもたれて、導かれる通りに付いてきた。
 その橘も引退して、卒業をしていく。残された仲間でこれからを支えていかねばならない。
 出来るのだろうか俺たちだけで。
 未来は不安だらけだった。


 準備を整えて家を出ると、通学路で森に声をかけられた。
「おはよう」
 軽いノリで桜井の背を叩く。あくまで加減をしたつもりだったのに、彼は躓きそうになってよろけた。
「うわ」
「あーっ、ごめん」
「俺もボーっとしてただけだから」
 桜井は笑って手を振る。森が横につき、並んで歩いた。
「桜井、寝不足?」
 森は桜井の横顔を眺めて問う。
「え?」
「そんな風に見えた」
「いや、昨日はたっぷり寝た」
「余裕だねー」
「は?」
「今度キツいテストあるって、桜井言ってなかった?」
「ああ……そうだった……」
 額を当てて溜め息を吐いた。我が事なのに森に言われて気付くとは。何もかもガタガタになりそうであった。
「忘れていたの?大丈夫っ?」
 目を丸くさせる森。
「頑張ってみる」
「頑張ってね」
 雑談をしている内に校舎が見え、二人は部室へ向かい、扉を開く。


「……あ……」
 思わず声が漏れる。開けた先には伊武がいた。
 伊武も驚いた素振りを見せるが、平生を装い挨拶をする。
「おはよう」
「……………………………」
 唇を薄く開き、桜井は発せない。横で森が“おはよう”と言う。
「……おはよう」
 遅れて挨拶をする。
 その後、次々と仲間たちがやって来てウェアに着替えるとコートへ出て行った。
 桜井はどうも手が遅くなり、着替えを終えるのは最後。にぎやかになったと思えば、知らぬ間に静かになっていた。部室に残っているのは桜井、そして伊武。
 伊武は着替えを既に終えていたものの、部室の中を歩き回ったり、ロッカーを整理したりと、なかなか出て行こうとはしなかった。
 待っていてくれた。そう期待しても良いのだろうか。桜井は伊武を見た。
 目が合うと伊武は動きを止め、見つめ返す。そのまま桜井は近付き、伊武の腕を掴んだ。


「伊武」
 名前は呼べたのに、先が続かない。
 視線が交差する。顔が近く、何か力を加えれば口付けが出来そうだった。
「……………………………」
 伊武は目を細め、逸らす。消え去りそうな呟き、“ごめん”という言葉が耳に届いたような気がした。
「…………伊武……」
 声が震えそうになるのを押さえ、桜井は俯く。口を硬く紡ぎ、込み上げそうになるものを堪えた。
 何も言えない、何も出来ない沈黙が訪れる。
 あの時と同じようだと、遠いようでそう経ってはいない思い出が過ぎった。
 二人はあの時まで戻ってしまったのだろうか。それともそっくり失っただけなのか。
 悲しくてやりきれない。
 俺たちが今まで築き上げてきたものはなんだったのだろうか。無気力に襲われる。


 俺、伊武がいないと駄目になりそうだ。


 喉に出掛かった想いは、伊武の腕を解放させると同時に離す。
 掴まれていた腕を覆う袖は指の形に皺になっており、伸ばせば跡形も無くなった。










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