ごめん。
そう呟いた伊武の声が頭の中で繰り返されている。
何も言えず、何も出来なかった。
あの後はコートに入ってラケットを振った。朝練を終えたら着替えて、校舎に入って授業を受けて。
その次、どうしたんだろう。
桜井の脳裏が記憶の躓きを覚える。
放課後、部活へ出たのか?昼食は食べたか?誰と話した?
見た夢を思い出すような、曖昧すぎる断片。時間をかけるほど失っていく。
不意に目を瞑っているのに気付く。強引に瞼を開けて目覚めた。
過去
- 後編 -
「……………………………」
見開かれた瞳は一生懸命、記憶を整理している。
目覚めた場所は、自分の教室でも部室でもましてや家でもない。薄暗く、埃っぽかった。机が乱雑に重ねて置かれている。用具室か何かだろう。
なぜ、このような場所に。
困惑はそう長く続かなかった。
「起きた?」
声のした方向を反射的に向き、主を目で追う。主は桜井の正面で立ち止まり、見上げる形で首も止まる。
「良かったよ、こうしてゆっくり出来る機会が出来て」
口元を綻ばせた。
聞き慣れた声、見知った顔。現れたのは一年の頃の先輩であった。
唯一優しくしてくれたけれど、苦手だった彼であった。
身体を必要以上触られ、挙句の果てに交際を求められた。断って間もなく、橘が動いたクーデターが起こったのだ。その後、彼はテニス部をやめて桜井の前には現れなくなったのだが――――
「どう?伊武とは」
伊武の名を出され、桜井はきつく閉じるように一回瞬きをする。
彼は知っていた。伊武との関係を。
全国大会前、偶然再会して責められた事がある。幸い、助け出されたのだが――――
「ここなら、誰も来ないし」
息を吐いて彼は笑う。
あの時、助け出してくれたのは立海の柳生と仁王。二人とも偶然であり、偶然と偶然の重なり合いであった。
不動峰の校舎内では他校生の彼らが来られるはずもない。
「二人だけでいられる」
桜井を見下ろす彼。
「……………………………」
桜井は声を発せずに彼の言葉を聞くしかなかった。
声だけではない、身動きすらも取れないのだ。
床に座らされ、机の脚に後ろで腕を組まれた手首が紐かテープで縛られている。机一つは軽いが他に何も載っていないとは限らない。丁度頭の後ろに重ねられた硬い物の感触がする。口は布で猿轡を噛まされていた。
なぜ、このような事態に。
凍り付いていた記憶は徐々に溶けていく。
放課後、教室を出て部室へ向かう途中、彼に呼び止められた。
過去から随分と月日は経つが、一対一だと酷い行いをした元先輩たちから逃れられる術を知らない。染み込んだ恐怖がすくめさせるのだ。話を振られるままに相槌を打ち、愛想笑いをした。抜け出す口実を巡らせながら。
巡らせたままで途絶え、目覚めた。どんな方法を持って連れて来られたのかは思い出せそうにない。
彼の後ろにある、閉じられたカーテンの隙間から細い光が差し込んでいる。放課後なのに変わりはないが、まだ日は暮れていないのだろう。鉢合わせから、そう時間は経っていないのかもしれない。
「桜井」
彼は屈んで床に膝をついた。顔を覗き込んで見据え、手を桜井の太股に置く。昔を思い起こさせる、懐かしくも忌々しい仕種。
ひたりとした感触が、素肌に伝わる。
素肌――――?
ハッとして足を見ると、裸の自分の足が見えた。彼の影で見えないが、足首も縛られている。不幸中の幸いとでも言えるのか、下着までは脱がされてはいない。
「………ん……」
低く呻き、桜井は彼を睨む。彼は刺すような視線を無視し、置いた手をゆっくりと撫でた。
夏を過ぎた滑る感触だが、気分の良いものではない。
彼は一体、俺をどうしたいのだろう。さわさわと置かれている部分に神経が集中し、警戒する。
「綺麗な足だね。前より筋肉もついて」
手は太股から膝、ふくらはぎへと下りていく。
「ずっとこうしたかった。君の足を思い切り触って見たいって」
包むようにふくらはぎの肉を押さえた。
「ね」
膝に視線を落とし、口を付けて舐め上げる。微かな水音でも耳は捉えていた。
「……………………………」
反応をすれば彼は増徴するに違いない。抵抗できぬまま猿轡には唾液が染み込んでいく。
溜まった生唾を彼に聞こえぬよう、飲み込んだ。
「俺、嬉しいんだよ。ほら」
彼は膝で立ち、ベルトのバックルに手をかける。
床にベルトとズボンが下りて、下着をずらして自身を曝け出す。それは反応を示し、血液を集めていた。
見せ付けられても桜井は眉一つ動かない。出した自身で何をする気なのか、表情の奥に緊張が高まる。
「気持ち良さそうなんだよね、お前の足は」
閉じられた足の上に跨いで身を乗り出し、桜井の股の間に自身を入れて挟み込ませる。手は両膝を押さえ、顔を近付かせた。
「桜井」
屈辱に、思わず目を瞑る桜井。閉じられた柔らかい瞼の上に彼は唇を落とす。
押さえ込む力に強弱をつけて、擦り付けて、自身に刺激を与えて快感に酔う。桜井が瞼を開ければ目の前に恍惚とした彼の表情が飛び込んだ。
「……はっ…………は……」
欲情した熱い息が鼻の先にかかる。退く事も出来ず、顔を背けようにも首しか動かない。
「んん」
顔をしかめ、耐えるしかなかった。
「桜井、気持ち良くない?」
ぎろりと、眼が動く。
「ごめんね、俺ばかりで」
足を解放し、彼は立ち上がる。片足立ちになり、上履きを脱いで後ろに投げた。
「二人で気持ち良くならなきゃね」
僅かに空いた膝の間に靴下だけになった足を差し込み、下着越しに桜井自身の上へ置く。
力を少し篭めると、桜井は前屈みになって俯いた。
足の裏で揉むように動かして刺激を与える。桜井が感じているとでも思っているのか、浮かぶ嫌な笑い。優しくしているつもりなのだろうか。動きは乱暴で具合を考えない。桜井には中心に痛みと不快しか残らなかった。
「ほら、顔見せて」
膝で桜井の顎を上げさせる。
「どう?良い?じゃあそろそろ良い?」
彼の手が伸びて髪ごと頭を掴まれ、もう一方の手が猿轡を強引に剥いだ。付着した唾液が伝い、銀糸を紡ぐ。
口をぽっかりと開けて見上げると、彼は濡れた猿轡をうっとりと眺めており、怖気が背筋に通った。適当な机の上に布を置き、半眼になって見下ろしてくる。チラリと正面を向けば自身が目に入り、涎のように先端を濡らしていた。
「伊武にはしてるの?」
「え?」
聞き返した後に意味を理解して、顔が熱くなる。初めて反応らしい反応を見せて、一瞬彼の目は丸くなった。
「それとも、してもらってる?俺は初めてするけど、愛しているんだから良いよね」
ぐっと頭を押さえて固定し、彼は自身を桜井の開かれた口の中へ挿入する。顎を持たれて無理やり銜えさせられた。
「……う」
「噛まないでね。上手に出来たらご褒美あげる」
念を押すような、どこかの受け売りのような科白を言う。
「ぐ」
強引に入れられたものだから、喉が音を上げて嘔吐感が込み上げるが抑え込んだ。
心の中は助けを絶叫したいが、心の中でさえも仲間の名前を呼ぶのを拒絶していた。もう今も昔も、彼らなどいなくなってしまえば良いのに。悲痛も己も無力に思えてしまう。
桜井の気持ちとは裏腹に、彼自身には口内の熱と唾液が絡み付き、心地よい快感が脳を浸しこんでいく。卑猥な音と征服欲が加速し、興奮が走り抜けた。
「気持ち良い、気持ち良いよ桜井!」
快感を、もっと快感を。彼は腰を引き寄せてさらに深く自身を快楽の海へと入り込ませようとする。これ以上は無理なのに踏み入れようとしているのだ。
「凄い。キそう」
掴む手に汗が滲んでベタつく。
「んっ。………んぅ……んー……」
吐き出されては堪らない。もがこうと足を動かそうにも縛られて、上履きの踵が床に当たり音を立てる。
「…………服は汚したくないでしょ?」
ぞっとする一言の次に、彼はぶるっと身体を震わせて欲望を口内に注ぎ込んだ。容赦なく吐き出される欲望は溢れ、桜井の口の端に一筋の白を描く。
「零さないように、飲み込んで。ごくってして」
顎を動かしてはもらえず、とうとう桜井の喉は音を鳴らす。我慢はしようとしたが目元に浮かぶ涙。彼の欲望を飲み込んでしまった。
「良かったよ」
口から自身を放し、噛み締めさせるように顎と頬を押してやる。
制服にしまってあったティッシュを取り出して汚れを拭い、自身を納めてズボンを履いた。そうして自らの手で汚した元後輩を眺めようと、膝をついて彼の方を振り向く。
「……っ……」
声を上げようと開けられた口は発せられない。
桜井が手を解放させ、怒りの形相を向けて拳を握り締めていた。
骨と骨がぶつかる鈍い音。拳は彼の顔面に炸裂する。堪らず彼は後ろへ引っくり返った。伸びたらしく、動かない。
殴り倒した後、足首も解放させて立ち上がり、口元を拭う。口の中には嫌な味が残っており、咳払いをしても無くなりはしない。
彼を許せないし憎しみはあるが、一発殴るだけの報復で終わらせた。彼らのようにはなりたくはないし、何よりも忘れたい。
奪われたズボンと荷物を見つけ、支度を整えて一人用具室を出る。扉を開ければ運動部員の声が聞こえた。完全に遅刻だが仲間の元へ行けそうであった。しかし、急ごうと速めた足は不意に立ち止まる。
「うがい、しなきゃ」
水場へ駆け込み、うがいをした。何度も何度もうがいをする。
顔を上げて、壁に取り付けられた鏡に俺を映した。まだ涙の跡が残っているような気がして、顔を洗う。
この出来事は誰にも言えない。胸にしまっておくしかないだろう。
また一つ、伊武への隠し事が増えたのかと思うと、身体の奥が痛んだ。
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