俺と君は違う人間だし、これからも変わっていくんだと思う。



これまで、これから
- 前編 -



 伊武は桜井に関係の別れを告げた。
 嫌いになった訳でも、愛想を尽かした訳でもない。
 愛が重くなって、自ら断ち切ってしまった。このまま続けたら、きっと潰れてしまうだろうから。
 告げた時は胸が痛んだし、苦しんだうえでの決断だった。
 自らが犯した傷は、時が経てば癒えるだろうし、苦しみは回り回って、いつか前へ向ける日が来ると信じていた。


 しかし、自分一人だけの問題ではない、桜井を深く傷付けた。
 けれど、彼は大丈夫だろうという確信があった。彼は、俺なんかと違うだろうから、上手くやっていくのだろうと。


 これで良かったんだ。
 そう思える日が来ると信じていた。






「…………っ……」
 瞳がボールを捉え、伊武は打ち返す。
「あ!」
 練習相手の神尾は見送ってしまう。この練習試合は伊武の圧勝となった。
 ネットを挟んで握手をし、神尾は笑う。
「深司、調子良いじゃん」
「まあね」
 ぶっきらぼうに答えるも、伊武も薄く笑っていた。
 後ろ向きではあったが、新たな気持ちで踏み出したい想いはテニスの腕のキレを見出していた。
「俺も負けてらんねえな」
「次、楽しみにしてる」
「言ったな!」
 ギャアギャア喚く神尾を背にし、伊武は部室へと戻って行く。
 ドアを開けると、ばっちりと中で備品の整理をしていた桜井と目が合ってしまう。


 漂う気まずい雰囲気。
 ここで"嫌だな"と感じた時、伊武は己を恥じる。
 別れは一方的だった。自分だけがすっきりしたかった。桜井は当然、納得していない。
 けれども、桜井はそれを声には出さず、押し込める。
 伊武自身も同じような事をして、一人追い詰めていた。
 桜井と付き合っていた現実、桜井と別れた現実は続いている。別世界で新しい人生など歩めはしない。
「………………………………」
「………………………………」
 黙りこむ沈黙の中、破ったのは桜井であった。
「神尾に勝ったんだろ。神尾の声でわかった」
「勝ったよ」
「良かったな……」
 伊武は俯き、床に視線を落とす。
 桜井は笑ってくれるのか、それとも寂しそうな顔をするのか。見るのが怖かった。
 まだ、一歩も踏み出せてはいない。桜井から逃げているだけだった。
 横を通り、外へ出て行く桜井の気配。顔を上げれば誰もいない。
 振り向いた時、彼の背が見えなくなるまで、じっと立ち尽くしていた。


 まだ、一歩も踏み出せてはいない。それでも環境は変わり始めている。
 係でクラスの生徒が提出したノートを職員室から教室へ運ぼうとする伊武の隣には、もう一人同じ係の女生徒がいた。
 伊武は無言で女性徒の持つノートを数冊取り、自分の方へ載せる。
「良いよ、そんなに」
 首を横に振る女生徒。彼女の荷物は随分と少なくなってしまった。廊下を歩きながら、二人は軽い雑談をしだす。
 彼女とは一学期からの付き合いであったが、まともに会話をし始めたのはごく最近であった。
 彼女だけではない、一年の時に暴力沙汰を起こして以来、仲間以外の人間には引き気味に接しられていた。大会へ勝ち進み、努力が認められていく中で周りの反応も変わっていった。ただ、伊武は元から近寄り難い雰囲気があったせいで、他の仲間よりその時期が遅れただけである。
「伊武くん、結構優しいんだね」
 女性徒は静かに笑うが、つい声が通ってしまい、小さく詫びた。
「別に……」
「ねえ、確かテニスで良い所まで行ったんでしょう?凄いね」
「俺だけの、力じゃないし」
「練習しているコートのフェンスの前に、人が集まっているの見た事あるよ」
 普段の彼女より、若干お喋りで明るくなる口調。けれども彼女の素という感じは無く、違和感がする。
「そんなに人、いたんだ」
「私が見た時に、だけど。モテたりするの」
「ないなあ」
「そんなもんなんだ」
 伊武は頷く。ここで会話は途切れ、二人は教室へ入った。
 あまり自分たちがどう見られているのかは、遮断していたような気がする。
 仲間たちがいれば良かったし、暴力を受け、行使した事への反応は考えたくも無かった。そんな話題を振りもしないし、されもしない。後輩はいないし、尊敬する先輩は橘がいれば良い。
 全国という上を目指していて気付かなかったが、随分と閉じられた世界にいた事を今更思う。
 もっと考えれば、橘に頼りっぱなしではいけない事に気付く時期も遅かった。
 来年には部員を集めなければ、定員不足で大会にすら出られないのだ。
 立ち向かうべき難題はツケとなって回ってくる。
「厄介……」
 席に座った伊武は一人呟く。
 他の仲間は、自分と同じように遮断していたのだろうか。
 桜井は、どうだったのだろうか。己の中では答えは知るはずも無い。






 突然の誘いは、同じ係の女生徒との会話でいくらかの身構えは出来ていたのかもしれない。
「いきなりで、ごめんなさい」
 本当に、いきなりだよ。突っ込みは飲み込んでおいた。
 昼休み。伊武は隣のクラスの女生徒に、校舎裏へ呼ばれた。彼女とは面識はない。
「一体、なに」
「あの…………」
 内容はずっと見ていた。付き合って欲しい、というもの。
 良く知らない人に急に言われても困る。出来るだけ丁寧に断った。恨まれるのも面倒だった。
 だが、一瞬揺らいでしまった。
 女生徒が好みだったからではない。女生徒が、女性だったからだ。
 一瞬、もしも彼女を好きになったら、普通になれるかもしれない。一瞬でも思ってしまった。
 桜井との関係は、男同士の友情ではない情を交わす関係は、後ろ暗いものだった。やましさを承知で踏み出した関係を、一番恥じていたのは自分だったのかもしれない。
 じわじわ、立ちすくむ指の先から自身への落胆が侵食していく。
 やましさを承知だった。未来は暗いものだと見たくは無かった。今の気持ちだけを大事にしたかった。その気持ちさえも大事に出来ず、何も出来ずに揺らいでいた。踏み出せもせず、戻りも出来ない、どっちつかず。
 女生徒の告白は何にしても受け入れられない、一つの大きな壁があった。
 どうせ駄目になりそう。別れて、元の位置に戻りそう。いや、駄目であって欲しい。
 まだ心の中に、桜井が一番であって欲しかった願望があったのだ。


 俺は、どうしたいんだろう。


 女生徒が去った後も立ち続ける伊武の背を押す者がいた。
「深司、どうした」
 落ち着いた声にしては強い力。橘であった。
「橘さん」
「こんな所で何している。飯、食べたのか」
「いえ、まだでした」
 昼食を食べる前に呼ばれたので、まだ食べていない。
「なんだまだなのか。俺もこれからだ、一緒に購買行くか」
「はい」
 二人は並んで購買へ向かう。
 時間が経ってしまったので人気のパンは売り切れていたが、腹持ちの良いものは買う事ができた。
 中庭の適当なベンチに座り、食事をしながら会話を交わす。
 夏が終わってから、橘は三年という事もあり、あまり部には顔を出さなくなっていた。高校受験もあるのだから、そう頻繁に会いに行っては迷惑に違いない。二年の中で話し合い、橘が来た時だけ迎い入れる形式を取っている。その為、伊武は橘と顔を合わせるのは一週間ぶりであった。
「お前ら最近どうだ」
「普通、です」
「神尾に圧勝だったそうじゃないか」
「一体、誰から」
「クラスの奴が親切に言ってきたよ。見学の人数が全国進出で知れ渡って増えているからな」
「はあ」
 返事と同時に、二つ目のパンの封を開ける。
「あの、橘さん。さっき」
「ん?」
「さっき、あそこで告白されました」
「……………………………」
 橘の方を見ると、彼は目を見開いてジュースのパックを握りつぶしていた。伊武は無言でティッシュの束を渡す。
「髪長いとモテるか」
 伊武から貰ったティッシュで手を拭きながら、橘は言う。
「はあ?」
「髪切ってから、その手の話がさっぱりなくてな!」
「はあ……」
「深司もとうとう春か、やるな」
 橘さんはどうにも表現が古いから嫌になるよ。ぼやきそうになる衝動を抑えた。
「断りました」
「俺に回せ……じゃない、なんだもったいない」
「相手は良く知らないし、上手く行きそうになくて」
「そう思ったなら、しょうがないな」
「もっと、テニスに向き合って、見つめ直したいし……」
 つい、桜井に別れを告げる理由として言った言葉が吐かれる。
「深司、目標はあるのか」
「俺たちの力で、全国にまた行きたいです」
「そうか。ひたむきになるのは良いが、たまには気ぃ抜けよ。お前は頑張り屋だからな、見ているこっちが疲れるぞ」
「疲れますか」
「言い方が悪かった。俺も、アイツらも承知で付き合っている。気にしないでくれ」
「……………………………」
「どうした」
「いいえ」
 俯き、急いでパンを頬張った。
 妙に気恥ずかしくなったのだ。






 ある、想いが浮かぶ。
 俺とこれ以上いれば、桜井を傷付ける。彼は承知で、いてくれたのだろうか。
 甘えをわかって、受け入れてくれたのだろうか。
 俺が想像している以上に、桜井は。


 俺を必要としてくれたのだろうか。


 声ならぬ想いが届くように。
 数日後の雨の日、桜井に口付けをされた。
 桜井は、俺が想像している以上に、桜井は。後悔と、都合の良い考えが回る。
 何かを言わねばならないのに、何も浮かばない。
 今なら、今ならまだ。想いだけが突き出して、肝心の言葉が飛んでしまう。


 桜井、話がしたいんだ。


 やっと浮かんだ言葉は、声にならずにメールの文章になった。
 けれども返事は返ってこない。
 気付いていないのか、それとも無視されたのか。


 少しで良い。
 お願い。
 一度だけ。
 僅かな言葉を足して、桜井に送った。
 けれども返事は返ってこない。


 桜井、話がしたいんだ。


 たった一つの言葉が伝わっていない。
 そう考えると怖くて、何度も送った。






 翌朝、伊武はなんの気まぐれか、駅前の店で昼食を購入したくなり、駅の方へ遠回りをする。
 気まぐれは、運命だったのかもしれない。
 良いのか、悪いのかすら、わからないが。
 駅の階段から降りてくる桜井を見つけた。










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